城主 :河野通清
築城者:河野通清
築城年:(1181年)か
標高 :986m
形態 :山城
遺構 :不明
986mの現高縄寺境内の山上平坦部と推定されているが、山麓の、河野郷土居館(旧北条市)
河野地区一帯を中心として、その背後に位置する雄甲城(238.6m)雌甲城(192.5m)
の2岩峰と北東に高穴城(たこな)(292.1m)等、高縄山塊の諸城を含めて総称されたもの。
この山に、 城を築いて立て籠もったのが、伊予の豪族河野氏(通清)、当時
風早郡河野郷、今の松山市北条河野地区一帯を自ら開発した、在地領主といわれる
存在であった。河野通清が高縄山にたてこもったのであるが、ここが、河野通清の
館城であるわけでわない、平素は、善応寺に本拠の館城を構えていた。
高縄山は、敵を迎えての最後の拠点であり、高縄城といえば善応寺の館城と、その後方
左右にある雄甲山城(おんこう)、雌甲山城(めんこう)の2山と北東にある高穴山城(たこな)、
それに高縄山城を含めた呼称である。むしろ、高縄山城は、河野一門の武運を象徴する
代名詞的存在と考えられる。備後(広島)の国の住人額(ぬか)入道西寂(せいじゃく)によって
通清は討死。その子通信は、城を脱出してやがて静寂を討って、伊予における勢力を
回復した。河野一族は400年活躍して河野氏の本拠地は、風早郡河野郷に有る高縄城
に置き、1585年(戦国時代)滅亡までの250年間は、本拠地は湯築城(現在の県立公園)
から動かなかった。本拠地を湯築城に移した後も、河野郷土居を中心とする高縄城の
軍事的価値を重視した。
所在地 :愛媛県松山市立岩米之野
196号線北条バイパス2つ目のトンネルを出て約20分~30分車で
走ると、下記の交差点が見えてきます。そこを右に入る(17号線、玉川へ)
ここから、玉川方面へ約40分くらい走ると、下記のところがみえてきます。
看板(ハリアス)に、注目
左坂を下りてすぐ左に曲がったところの広場、ここは、川の反対側に
松山市役所立岩出張所がありますので、必ず許可いただくこと。
ここから、歩いて登山口までいきます。
ここから、986m登るのかウオオォォォォォォォー!!
高縄城登り口
現在は、2本、車で頂上まで行ける道路があります。ですから、今は、
歩いて登る人は、少ないので、手入れがされておらず、道は良くないです。
道路は、がけ崩れが、数箇所あり、道に石ころが多いので、足が痛く
疲れます。
今日は、天気もよく見晴らしもいいですね!
おお、も少しで、高縄城に到着みたい>>>>>>>
ヤレヤレヽ(~~~ )ノ到着だ、約3時間かかりました。
この寺(高縄寺)小千守興が、横谷に創営して以来、越智、河野家累代の祈願所
となっていた所で、1532年河野通宣の命によって現在の高縄山に移された。
お墓は、ない。
城は、高縄寺境内の山上平坦部と推定されるが、今の現状では、
わからない。
テレビ塔の最上部から見る、瀬戸内海の遠望は、いい眺めであり、
連山も美しい!
下山途中に、あ、カケスだヽ(`○´)/
エナガです。木にかぶって見えずらい!動きが早いトリなので難しい
今日は、朝7時30分出発、帰宅は 午後8時ごろになりました。。。
(^ー^)お疲れ様でしたぁ~♪