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古城(山城)を行く 高縄山城(高縄山)

2017-03-27 17:33:22 | 歴史

城主  :河野通清

築城者:河野通清

築城年:(1181年)か

標高  :986m

形態  :山城

遺構  :不明

986mの現高縄寺境内の山上平坦部と推定されているが、山麓の、河野郷土居館(旧北条市)

河野地区一帯を中心として、その背後に位置する雄甲城(238.6m)雌甲城(192.5m)

の2岩峰と北東に高穴城(たこな)(292.1m)等、高縄山塊の諸城を含めて総称されたもの。

この山に、 城を築いて立て籠もったのが、伊予の豪族河野氏(通清)、当時

風早郡河野郷、今の松山市北条河野地区一帯を自ら開発した、在地領主といわれる

存在であった。河野通清が高縄山にたてこもったのであるが、ここが、河野通清の

館城であるわけでわない、平素は、善応寺に本拠の館城を構えていた。

高縄山は、敵を迎えての最後の拠点であり、高縄城といえば善応寺の館城と、その後方

左右にある雄甲山城(おんこう)、雌甲山城(めんこう)の2山と北東にある高穴山城(たこな)、

それに高縄山城を含めた呼称である。むしろ、高縄山城は、河野一門の武運を象徴する

代名詞的存在と考えられる。備後(広島)の国の住人額(ぬか)入道西寂(せいじゃく)によって

通清は討死。その子通信は、城を脱出してやがて静寂を討って、伊予における勢力を

回復した。河野一族は400年活躍して河野氏の本拠地は、風早郡河野郷に有る高縄城

に置き、1585年(戦国時代)滅亡までの250年間は、本拠地は湯築城(現在の県立公園)

から動かなかった。本拠地を湯築城に移した後も、河野郷土居を中心とする高縄城の

軍事的価値を重視した。

所在地  :愛媛県松山市立岩米之野

196号線北条バイパス2つ目のトンネルを出て約20分~30分車で

走ると、下記の交差点が見えてきます。そこを右に入る(17号線、玉川へ)

 

ここから、玉川方面へ約40分くらい走ると、下記のところがみえてきます。

看板(ハリアス)に、注目

左坂を下りてすぐ左に曲がったところの広場、ここは、川の反対側に

松山市役所立岩出張所がありますので、必ず許可いただくこと。

ここから、歩いて登山口までいきます。

ここから、986m登るのかウオオォォォォォォォー!!

高縄城登り口

現在は、2本、車で頂上まで行ける道路があります。ですから、今は、

歩いて登る人は、少ないので、手入れがされておらず、道は良くないです。

道路は、がけ崩れが、数箇所あり、道に石ころが多いので、足が痛く

疲れます。

今日は、天気もよく見晴らしもいいですね!

おお、も少しで、高縄城に到着みたい>>>>>>>

ヤレヤレヽ(~~~ )ノ到着だ、約3時間かかりました。

この寺(高縄寺)小千守興が、横谷に創営して以来、越智、河野家累代の祈願所

となっていた所で、1532年河野通宣の命によって現在の高縄山に移された。

お墓は、ない。

城は、高縄寺境内の山上平坦部と推定されるが、今の現状では、

わからない。

テレビ塔の最上部から見る、瀬戸内海の遠望は、いい眺めであり、

連山も美しい!

下山途中に、あ、カケスだヽ(`○´)/

エナガです。木にかぶって見えずらい!動きが早いトリなので難しい

今日は、朝7時30分出発、帰宅は 午後8時ごろになりました。。。

(^ー^)お疲れ様でしたぁ~♪

 

 

 

 

 

 

 

 



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