生き生き人生.

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古城(山城)を行く 龍王城

2017-03-08 18:05:01 | 歴史

城主   :久保氏、床崎氏、城戸氏

築城者 :久保高実、室町時代(1336~1573年)推測

築城年 :越智(後の河野)喜多守が平安初期(794~1185)初めて砦を築き七代目の益躬にいたる間、居城してた  

標高   :170m

形態   :山城

天正の初めには、城戸直宗が居城したが、曽根宣高が土佐の長宗我部氏の援助をうけて

これを攻略した。そこで直宗は、河野氏の援兵によってこの城を奪還したるも天正五年

(1577年)七月十四日夜再び宣高の猛攻を受け落城した。宣高は客将の河内駿河守吉行

を城代として、この地域を統治させた、天正十三年(1585年)に豊臣秀吉の四国征伐にあい

曽根城主の宣高は、征討軍の小早川隆景に降伏したので龍王城もついに廃城となった。

室町時代(1336~1573年)の初期の城主は、久保高実である。地頭としてこの

地を領していた。高実は、松前城の合田弥四郎とともに、伊予の南朝方として活躍した。

戦国時代は、城戸氏が城主で曽根城主の曽根宣高(内子町)との、戦いに敗れ滅んだ。現在は、

龍王公園として、展望台があり、周辺は、四季折々の花が見えます。又、フィットネスクラブや

、温泉(冷泉)などあり、地元の人はもとより、他方からも利用されています。現在の光景では遺構は

難しい・・・・・

所在地 :愛媛県内子町五十崎

内子ICをおりて、約500~600m大洲方面に行く

約500~600m走り二つ目の信号を左(五十崎方面)へ

左に曲がるとすぐ左へ(標識あり)

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 曽根城

2017-03-08 11:54:38 | 歴史

城主  :祖祢(祖根と呼ぶ)高昌

築城者 :祖祢高昌

築城年 :1532~1555【戦国時代)と推定

標高   ;110m

形態  :山城

伝えるところによると、祖祢高昌と言う武将が、この地に住み着き、内子、祖祢の祖になったと言われてる。

豊臣秀吉の権が伊予へも及ぶようになると,曽根城は、小早川隆景(中国地方)によって廃城になり祖祢氏も伊予を離れ

毛利氏(中国地方)を頼り、近世には、萩藩(山口)の家臣となる。西方への麓川を越えたところには、高昌神社があり

境内の奥には、祖とされる、祖祢高昌の墓碑が立ちその手前には、高昌妻女と次代の宣高夫妻の墓碑がある。

(全て後世に立てられた)。登り道は、非常に悪く竹やぶの中を通るとイノシシの荒らした跡が数箇所あり

登りずらい。頂上に着くとコンクリート柱(曽根城跡と書かれた)が立てられており、本丸と思われる。大きな

広場について周りを見渡すと、立ち木や雑草で2の郭、3の郭、又、石積、堀きりなどは、見つけることが出来なかった

文献上は、郭、堀きり、石積もあるらしいので、再度確認したいと思いました。

戦国末期の城主は、宣高で、天正年間(1673~1692年)に五十崎町の竜王城、城戸氏と争ってこれを破った

ことが知らされている。天正13年(1584~1587年)小早川隆景の伊予進攻後、廃城となった。

下城した祖根氏は、近世には喜多郡内各地の庄屋となった。内子町高昌寺、同氏の菩提寺である。

道路の下から山が見えます

民家の横を通る

滑落するような崖は、見あたらない!!

近くまで来たようです ((o(^-^)o))わくわく

到着だ~   \(*^▽^*)/

上空をトビが気持ちよさそうに何度も旋回してました。

愛媛県内子町城回

松山から56号線を大洲方面へ→中山町を過ぎて車で約30分くらいで城回の小さい標識が

見えてきます。注意しながら進むと、下記の大きな表示板が見えます。そこを右に入ります。

さらに走ります、スピードは出さないこと!時々やってますよ???

坂を登ります

右折して約30mくらいで到着です

高昌寺へ行くには、下図のように行ってください。

すぐ高昌寺が見えてきます。ごゆっくり見てください、駐車場も上に広く

ありますので、安心です。終わったら、町並みコースを歩くのも楽しいです。