“こたつ”を開く、開ける、出す、入れる・前編より
『長野県史』民俗編資料編から、長野県下のこたつについての記述のなかから、こたつを「入れる」日について拾ってみよう。
■南信(『長野県史』民俗編第二巻(一)南信地方 日々の生活)
○九月に入れる。(塩沢、菊沢、湯川、若宮、立沢、長岡、東高遠、小川、新野、売木)
○九月下旬に入れる。(駒沢、神宮寺、南大塩、長峰)
○十月上旬に入れる。(山本)
○十月に入れる。(諏訪湖周辺、笹原、上伊那北部、南田島、座光寺原、阿智、金野、中郷など多数)
○十月下旬に入れる。(小沢、北福地、石曽根、南条、越久保、上虎岩、此田)
○十一月上旬に入れる。(駒場)
○十一月に入れる。(羽広、勝間、市野瀬、大草、松尾、木沢など多数)
○十一月下旬に入れる。(坂部)
○十二月に入れる。(中坪、溝口、中山、南田島、柳平、和合、沢井、押出)
○こたつは十一月下旬の戌の日に入れ、四月下旬の戌の日にあげる。(坂部)
○こたつを作る日は未の日が良いといわれた。この日につくると火事にならないといわれる。(新野)
○こたつは午の日に出し入れするのを嫌った。炭がまの口を午の日に開けることも嫌った。もしこの日に開けると、炭がいくら黒くてもまた火がおきて燃え出してくるといわれている。(坂部)
■中信(『長野県史』民俗編第三巻(一)中信地方 日々の生活)
○九月に入れる。(穂高、田沢、下新、赤木など)
○十月上旬に入れる。(下金井、安原)
○十月に入れる。(千国、細萱、雲根、伊深、博労町、王滝下条など多数)
○十月下旬に入れる。(嶺方)
○十一月に入れる。(大網、上押野、本町、両島、妻籠など)
○十一月中旬に入れる。(沢渡)
○十一月下旬に入れる。(千見、妻籠)
○十二月に入れる。(新橋、洗馬、下条、向粟畑)
○ムラの慣行としては、ムラの秋祭りの九月十九日から、翌年の種まきの五月一日ごろまでこたつを入れている。(新屋)
○こたつを入れるのに良い日とされているのは、壬、癸の日である。逆に良くない日とされているのは、丙や丁の日である。(飯田、伊谷)
○九月の秋のお祭りころに入れて、五月ごろあげる。(下新田)
○昔は十二月から翌年の三月までこたつを使った。(洗馬)
■北信(『長野県史』民俗編第四巻(一)北信地方 日々の生活)
○九月に入れる。(稲附、柴、十二)
○九月上旬の秋祭りに入れる。(大田原)
○十月に入れる。(小境、南長池、仁礼、杭瀬下など多数)
○十一月に入れる。(西大滝、広瀬、草間、岩野など多数)
○えびす講に入れる。(四ツ屋)
○十二月に入れる。(白鳥、桑名川、上今井、古海、上野、箕作、柏尾、中須賀川、明光寺、下八町)
○戌の日にこたつを作るなともいわれた。戌は元気が良いためだという。(栗田)
○十月上旬の戌の日に作った。戌はずくがあってこたつなどに入っていないからだという。また老人のいる家などは年中作っている家もある。(三水)
■東信(『長野県史』民俗編第一巻(一)東信地方 日々の生活)
○九月に入れる。(越戸、馬瀬口、春日本郷、南佐久北部など)
○九月下旬に入れる。(矢沢、赤岩、高野町など)
○九月下旬の彼岸すぎに入れる。(矢沢)
○九月二十七日の八幡神社の例祭のころから寒いときは入れはじめる。(高野町)
○十月上旬に入れる。(横根)
○十月に入れる。(塩田上本郷、別所、小田井、菱野、清川など多数)
○十月中旬に入れる。(平井寺)
○十月下旬に入れる。(本海野、宮下)
○十一月上旬に入れる。(小田井)
○十一月に入れる。(横道、入組、手塚、和子、東田沢、和田、山部、崎田、京の岩)
○十二月に入れる。(真田、赤岩、豊昇、臼田、御所平)
○十二月一日に入れる。(宮ノ上)
○十二月中旬に入れる。(立岩)
○昔は十二月に入れたが、今では早くなって九月下旬から入れだす。(赤岩)
○十月の戌の日にこたつを作る。申の日は忌む。(坂井)
○今までは十二月から三月まてせこたつを使っていたが、電気や石油を用いる暖房器具が入るようになって、使用期間は長くなってきている。(豊昇)
そもそも『長野県史』では「こたつを入れる時期」と質問している。そうなると、わたしが当初イメージした「入れる」はけして違和感のあるものではない。長野県風なら「こたつを入れる」が一般的だったと言えるのかも。同書内では民俗地図を使って入れる時期から地域性を見ようとしているがそこから地域性は捉えられていない。ここにあげた事例でも解るが、地域の寒暖差に無関係にこたつは入れられているといえそうだ。「昔はこたつなどなかった」という上松町吉野の例でも解るが、こたつは比較的新しい段防具だったともいえる。そして長野市栗田の例に「こたつを入れる炭もない家があった。かける布団がないので蚊帳をかけておいた家もあった」というものもあり、こたつを入れるにはそこそこの余裕がないとできなかったとも言える。そんななか具体的に「戌の日」が伝承されるようになった、それも全国的に共通性をもって、という事態の背景にどのようなものがあっのか興味深いところである。
続く