Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「この時」

2009-05-21 12:33:00 | つぶやき
 「欲しがりません、勝つまでは」と言う言葉まであった戦争中から敗戦と共に目指すものは一転した。これほどの変化は、もちろんその国の思想の実権を持っていた人たちの敗戦であって政治の変化ということにもなるだろう。かつてあった敗戦という変化はとても大きなものであっただろうが、それほどの変化がこの安定の世に望まれているわけでもない。しかし熟成した社会で何事も変化がなく、それこそ二世がはばを効かせる時代にあって変化を求める人々が多くなっても不思議ではなかっただろう。自民党が政権を逃した細川政権誕生から既に時は経たが、いってみれば今の政権抗争が拮抗するような状態への一歩だったとも言えるだろう。しかし、二大政党制というアメリカ風を求めさせた背景にも明らかに報道の仕業があっただろうし、今や報道は民主党への政権交代を期待しているきらいが強い。それは今でないとその道は閉ざされるがごとく「この時」を逃さないというものであるのかもしれない。

 確かに政権交代が可能となった今では、両者を比較して政治を選択できるという期待性は高まっただろう。かつて自民党一党支配だった時代に、どれほど他党を支持しても、世の中の風はさほど変わらなかった。もちろんそこには安心感というものも確率的に高く存在していたのだろうが、だからこそそれを突き破ろうとする人々も登場する。ようは長い支配は続かないものという歴史から教えられたものがそこには現れるのである。

 そういう意味で今回の民主党代表辞任劇は、「この時」と誰もが認識した上での常識だとされるのかもしれないが、果たして「この時」であるのかどうかは一国民の判断ではなかなか見えてこないものである。代表選に勝った鳩山氏に対してのインタビューの中でも問われたものであるが、「代行」を小沢氏が要求したのまかという問いがあった。そもそも代表を降りるということはそのまま降格して役職に就くという思想では普通はないはず。そのくらいなら何のために辞任するのだということになる。これも誰しも突いていることだろうが、代表と言う看板でなければ西松建設問題を理由に{怪しい」という懸念を払拭できるという逃避的言い訳に聞こえてくる。説明責任さえ果たせば代表のままでもけして国民は不支持とはならないだろうに、それができないということは黒であるという証明でもある。それを看板の序列を変えただけで逃げてしまう、あるいは国政の変化のためというやはり説明不足名騒動は、なんともいえない「この時」の企みの中に沈んでいるようだ。

 信濃毎日新聞の5/20朝刊に「「代行」小沢氏が要求」という囲み記事があった。岡田氏は代表選で鳩山氏に敗れた16日の夜「自宅に戻り、映画「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」のDVDを見て一人涙した。社会変革を志した若者たちが疑心暗鬼から同志殺しに走っていった連合赤軍の歴史を振り返り「代表選のどこが足りなかったかを考えた」という。どんなに反発があっても、党のまとめ役である幹事長職を打診されれば受けたいと岡田が決心したのはその時だったかもしれない」と書かれていた。嘘のような話であるが岡田氏はなぜこのDVDを選択して見たのか、それがなぜ公になるほどわざとらしく物語化されているのか、「この時」はそれほどやってこなくてはならない時なのか。そしてそれほわど国民は企てに乗せられないと解っていないのか。などという滑稽な物語にさらに右往左往する「時」がやってくるのだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
« わが駅の散らかりよう | トップ | 「いつもの」選択 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

つぶやき」カテゴリの最新記事