Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

村井仁の言葉から

2006-07-19 08:14:03 | ひとから学ぶ
 長野県知事選の立候補予定者における公開討論会が16日、松本市の県松本文化会館で開かれたという。このなかで、田中康夫現知事は、その対抗馬とされる村井仁候補に、「ホームページで、市町村が元気になれば県はなくなってもいい」といっていることに対して質問したということが新聞記事にあって、「村井仁はいいこと言うなー」と思い、思わずホームページでその言葉を捜してみた。

 具体的に同じ言葉で書かれた部分は探せなかったが、どうも下記の部分を指しているのだとわたしなりに思ったのだが、ちょっとその部分を原文のまま紹介する。

以下「村井仁ホームページより」

 県の役割は、私の認識では、県庁・県知事はこのような改革に取り組む市町村・地域のサポーターなのです。裏方なのです。市町村・地域の施策の実現を最大限バックアップするのです。その為にアイディアを出し、助言をし、労力を注ぎ込むことは惜しみません。本当のパブリックサーバント、奉仕者に徹するのです。

  その結果、長野県は強力な市町村・地域の緩やかな集合体になるのです。いずれ道州制になったときに、既にその体制に対応する準備が出来ているのです。


 道州制が叫ばれるなかで、市町村が自立して自ら責任が負える集団になるために県はサポートしていく、そう言っているわけだ。わたしは、県の必要性というものは、どこにあるのかと常に思っている。だからこそ、その必要な部分は県として担わなくてはならないだろうし、不要な部分は民間に、あるいは市町村に、あるいはそれ以外の人たちに、という具合に展開していってもなんら問題ないのではないかと思っている。県だけが肥大化していくこともないだろうし、県が市町村を動かそう、住民をサポートしようなどということになったら、市町村は不要になってしまうわけだから。ちょっと飛躍かもしれないが、そういう考え方もある、ということである。

 公共事業にしても県営などといって県がサポートして地域に密着しているものはあるが、現実的には市町村が関わるし、市町村が責任を負っている部分が多い。県が上に立つ、という意識を変えない以上本当の意味の改革などはありえない。実は、こんなことを聞いたことがある。県の施設で管理的な部署にいる職員には、一般職ではなくそうした地域採用(具体的にはどういう採用なのか知らないが)の職員がいたりする。そうした職員は、どうしても一般職とは異なり、常にそうした職員との壁のようなものを(下に見られがち)認識している。それはそれで仕方ないのだろうが、そうした人たちは、どう考えてもさらに下にいるそうした施設に入っている団体の職員に対して頭が高い、というのだ。たまたまそんな人がいる程度なのだろうが、基本的に役所の人たちは縦関係であることに変わりがなく、住民にしてもなんにしても「下」に見る節がある。誰でもそんなことはあるのだろうが、無知なことを馬鹿にしたりするのは、役所の職員に多い。無知といったって、部外者にとっては行政に無知なことは当たり前である。それが優越感をもてるものだとすれば、勘違いのなにものでもない。

 さて、田中康夫に対しては、ちょっと対抗馬として「弱い」、という印象は否めなかった村井仁候補であるが、方向性としては納得できるものがあると、なんとなくではあるが思えるしだいである。ただ、どうも村井候補は、明らかに道州制を前提とした県不要論で田中康夫と対抗しているようで、この部分は今後田中康夫との相違点としてもしかしたらマイナス面になるかもしれない。

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