デジタルでウェブ上で地図を利用する場合、古いものも確かに閲覧できるが、わたしたちのような高齢世代に足を掛けてくると「印刷したい」と思う。ようは紙でないと全体像がつかめないという古い捉え方がある。当然のことだろう、それが当り前だったわけだから。そして前述の卜部氏も述べているが、紙の地図には書き込みができる。パソコン上に書き込みとなると、それ専用のソフト、あるいは機能を自分で設定しておかないとだめだろうし、簡単ではない。すぐに指先でメモできる紙媒体は、やはりオールラウンドに有効であり、利用上の応用力が勝る。例えば話している際に、相手に書き込んでくださいとお願いするにも、パソコン上ではまだちょっと無理と思う。というか相手もいろいろである以上、だれでも対応できるのは、やはり手で書き込むというもの。いずれみんながそういうスタイルでしか対応できなくなれば紙ではなく、パソコン、あるいは携帯とかほかのグランドに書き込むことができるようになるのかもしれないが、今はそこまでたどり着いていない。
これは技術的なことだが、それよりも人間の頭の中で描く空間情報はどのようになってしまうのか、そこがわたしには全く理解不能だ。そもそもこれからの人々は、図を描けるのか。それもペンで。もちろん教育の現場は昔ながらのこともしているのかもしれないが、社会ではほぼそのような機会が無くなっている。社会でそのような場面が無くなってしまえば、自ずと図を描くことは不得手となる。もう4年以上前であるが、「描かれた図から見えるもの㉕」において「近ごろ民俗の会の例会を案内する記事も、既成の図を利用したり、あるいはグーグルマップを利用するようになって、かつてのような自前の図を見なくなった」と述べた上で、過去の案内図を示しながらその変化を綴った。ちまたに自由に利用できる図が溢れていれば、「描くよりは楽」だから、もちろん既成図を使う。しかし、グーグルマップのようなものを安易に使うと、案内図といってもほかの情報が多くて解りづらいのも事実。いかにシンプルで解りやすく、それでいて確実に場所をイメージできる図、そういうものを描く側は考えていたものだが、もはや自分の携帯で検索してくれば、ナビのように誘導してくれるから、案内図など不要だという意見も今は多いのだろう。ようは時間をかけて無駄に解らないような図を作成するくらいなら、既成図ならだれも異論は挟まない、という捉え方が横行するようになる。やはり、もはや案内図など「いらない」となるわけだ。それでもまだ案内図を、という人は少ないのかもしれない。住所だけあれば良い、というわけだ。
続く
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