Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

人の評価とは

2005-12-25 00:17:16 | ひとから学ぶ
 公務員ですらそれぞれの人の評価をする時代になってきて、当たり前といえば当たり前だが、それだけで人を判断するには疑問は多い。民間のように利益優先であれば、不利益な人間は不要であると判断されれば、致し方ないことも事実ではある。しかし、その評価をする側というものも、個人にとっての利益を優先すれば、結局公平、平等なものはありえなくなる。では、その価値を個人がどう判断するかということになる。長野県の高校入試も、前期選抜では自己推薦方式となり、その合否の判断は何かというと、なかなか難しさはある。中学時代の成績はもちろん、その生活態度や成果というものが基準になるとともに、いわゆる物言いがうまいやつは評価は上がるだろう。実際のところ、難しさがあるから、結局は成績が優先されるだろうが、世の中はすべてがこうした点数制になってきた。フィギアスケートの採点方式が変わって、点数を採るがためにプログラムを組むために、そのオリジナリティーがなくなってしまったという指摘があるが、果たして、競技ではない人間の生き様が、点数化されるのはいかがなものだろうとは、古い考えかもしれない。
 たとえばであるが、自己の意識を高めるために、公務ではない、私の部分においてどれだけ成果を上げたかということを人の評価に加えたとしたら、人は公私がなくなってしまう。今では地域で名を馳せている博士が、かつて教員であったときに授業を優先せず、自らの興味の部分を優先して研究に力を注いだ。いっぽうで、研究者が研究できる環境を与えて、その分その環境つくりに力を注ぐとともに、学校教育に力を注いだがため、結局自らの研究成果をそれほど出すことができなかったひともいる。後の貢献度という視点では、前者が光輝いているようだが、現役社会での評価は、後者が上まわっていたに違いない。そうした自己の価値をどうバランスをとっていくかということを、周りも見てきたし、理解しながらひとつの職場を作っていたのではないだろうか。そういう、まさしく「いろいろな」価値や、評価があってよかったものを、ただただ、ひとつの評価基準でものを見ようとしてはいないだろうか。
 息子は1年まえまでクラブの部長をしていた。しかし、仲間から嫌がらせを受けて自ら部長を辞した。後に部長になった仲間は、口数は少ないが部の活動には熱心で、勉強もできる。息子が部長を辞した時、顧問はその理由を何も部内で話し合わず、次はお前がやれ、と部長を指示したという。顧問の評価は、やたらと部活の時間を他の部にくらべて長く計画し、練習を熱心にすることを第一にとらえている。そしてそれを忠実に実行する子どもたちを大事にし、そうでない子どもたちには冷めている。部活の活動時間を変更したにもかかわらず、全員にそれを連絡するという基本的なことを怠り、部長も全員に周知するという行動意識を持っていない。いかに優秀だろうと、いかにその空間で評価が高かろうと、基本的なことを教えていない子どもたちの社会を実感するたびに、この国の将来の低迷を教えられる。
 同じことは会社でもある。どんなにその人ではないと対応できないような資格を持っていようと、人の心の中に土足で入ってくるような人間が高く評価されてよいものだろうか。利益不利益という判断が第一ではあるかもしれないが、心というものが欠落してしまってよいだろうか。
 どうみても「こいつはひどい」というような人がいても、果たして会社外、あるいはその人にとっての活動範囲において「ひどいやつ」とは限らない。「さあ掃除をするぞ」という時に、みんながみんな点数稼ぎで掃除をするよりも、さぼるやつがいてもうなずけるくらいの余裕がほしい、とは、わたしだけだろうか。

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