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昭和の「甲子」塔建立の事例 後編

2024-01-05 23:57:48 | 民俗学

昭和の「甲子」塔建立の事例 前編より

 実は『伊那路』(上伊那郷土研究会)の昭和59年6月号へ、長瀬康明氏が「甲子塔建立盛んな高遠町」と題した報告をしている。その冒頭は、まさに山室新井の甲子塔建立に関する記述である。

 さあ―新井衆のみな様方よ、おねがいだ―。ヨイショ―、力強く年男の掛けるきやりに合わせて、新井地区全住民が引く甲子塔。二月五日は、三義新井地区の大黒天を祭る甲子祭りである。
 今年は厳寒のうえ雪も多く、役員は前日から沿道の雪をかき、凍らないようにと藁をひきつめ総出で準備万端整える苦労があって、甲子塔は全地区を引かれて行く。途中ところどころ酒を飲み気合を入れては引いて行く、まさに六十年に一度の甲子大祭日である。
 この日に備え新井地区では昨年より一戸平均三千円を月掛けし、約三十万円の費用を貯えた。時の総代北原日出吉氏は、子供の頃、大正十三年甲子塔建立祭を体験しており、六十年前を忍び是が非でも前回と同じような祭りにしたいものと企画し、全地区民もこれに賛同し、全地区上げて甲子塔祭りとなったのである。
 大正十三年には原誠総代が宮沢川から適当な石材を採集しており今回も同様に山室川の支流である宮沢川から是非採集しようと、北原総代は豪雨災害で荒れた河原を飛びまわり、やっと前回より、やや大き目の石材を見つけた。集会所に据え三義山室遠照寺住職の墨痕鮮かな〝甲子〟を、美篶大島石材に依頼し彫りつけ高さ一二〇センチメートル、幅八五センチメートル土台付きと、前回よりやや大き目の自然石塔に仕上げた。
 実行委員長は塔を引く修羅材を三義中さがし求め、個人所有の欅の二又枝を快よくゆづり受けることに成功した。委員は二又の枝を切り先にワイヤの輪を取り付け、胴部となる枝に三本のわたしを打ち付け修羅を作った。この修羅に甲子塔をのせ引きだしたわけである。甲子塔を引く子供らもまた六十年後には同じように甲子塔祭りを挙行するであろう。高遠三義地区には七地区あるが、各地区とも同じような甲子塔を建立し祭りを挙行している。

というものである。このあと、高遠町他地区の建立の様子を綴っている。ここに記されているように、記録簿の2月2日に「甲子塔台石の雪かき及台石の穴の氷をお湯でとかす。」と記されている。2日後の建立前日である2月4日には、委員の奥さんたちが寄って「紅白餅」を搗いている。建立当日の記録には、正午集合の後、

出発 12時20分
到着  1時20分
建立終了 1時40分
お経(除幕式) 1時50分~2時
記念写真撮影 2時30分終了
祝賀会 於集会所

と記されている。当日付けの決算書によれば、収入は各戸2千円ずつ32戸を7か月積んでおり、預金利息と合わせると45万円ほどとなる。翌日片づけを行い、1か月後の3月7日に最後の建設委員会が開催され、決算を行って一切を終了している。

 昭和59年6月の『伊那路』は、「甲子特集」であった。郡内各地の甲子塔建立が報告されている。当時会長であった荻原貞利氏は、郡内の昭和59年甲子年に建立された石塔の概要をまとめており、総数は121基にのぼる。長瀬氏のタイトルにもあるように、確かに高遠町の建立数は多く、その内23基を占める。伊那南部には造塔数は少なく、高遠町から旧伊那市、いわゆる上伊那中部に造塔が盛んであったことがわかる。

 長瀬氏が記しているような「甲子塔を引く子供らもまた六十年後には同じように甲子塔祭りを挙行するであろう」となるのかどうか、2044年といえば、ちょうど20年後。わたしにはそれを確認できないかもしれないが、もし生存していたら注目したい。


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