Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ゴーストタウンへの歩み

2007-06-23 09:25:01 | ひとから学ぶ
 ボッケニャンドリさんが「ゴーストタウン」で、佐久市大河原峠近くにある別荘地において壊れかけた別荘が点在するいっぽうで、新たにまた別荘を建てる人もいるという話をされている。朽ちた別荘があるのが見えるのに、解っていて新たに建てようというのだから、ちょっと心配?みたいに触れているのだ。田舎、それも山間の集落に行けば、藁葺きの屋根が朽ちて、すでに屋根が落ちる寸前みたいな家の横に、新築の家が建っていてそのちぐはぐさに唖然とすることもある。そんな空家が混在している集落に住むということがどういう感じなのかは、経験がないから言えることではないが、かといって手入れされていて住んでいなくとも朽ちることはない家が点在する集落も、生活上では同じようなものだ。そんな空間は田舎ばかりのことではなくシャッター通りと言われる街中にも存在する。それでも別荘地などは景観を求めてやってくる人たちがいるから、朽ちようとしている家があるのは空き家の点在する田舎や街中とは違うのかもしれない。

 中川村の幹線道路沿いにあるある集落は、道沿いに何戸か点在している。確かに人の姿はないのだが、家の姿を見る限り夜には明かりが点るのだろう、と思い込んでいると、近くの人が「あそこの集落は一人も住んでいない」なんて教えてくれる。まさにゴーストタウンなのだが、朽ちかけた家はないから、きっと再び人が住み始めても見苦しい廃屋が目に障るなんていうことはないだろう。

 そんな意味では空き家に人が住んでくれるということは本当なら良いことなのだが、それもそれでいろいろ問題も含んでいると思うのだが、今や世の中田舎暮らしをしようと推し進めている。世の中人口減少時代に入っているというのに、いまだに田舎でも新築の家が増えていく。核家族化によって、農村地帯でも長男が家を出て、分家してしまうようなことがあちこちで起こっている。年寄りたちが亡くなってしまえば、その家は空家と化す。田舎のゴーストタウン化は間もなくなのだろうし、すでに始まっているところもあるのだろう。

 また、ボッケニャンドリさんは「新築の空家」で建って間もない空き家のログハウスについても触れている。持ち主が住むのは定年後、まだ数年先だという。ところが謎の毛虫が木に取り付いていて、新築の家は大丈夫かと心配しているのである。国は都会に暮らす人々が、都会と地方と二地域に家を持つことを推奨している。農水省の施策にもそんな言葉が登場してくる。ようはボッケさんの近所のログハウスのように、ある意味では別荘扱いとして家は存在していくわけだ。こうした家が年寄りばかりの集落にできあがったとしてどうだろう。地域はそうした人々によって確かななる継続をつかむことができるだろうか。そして、年寄りばかりの田舎だけではなく、中間地帯にもそうした人々が住むことになるのだろう。たとえば安曇野のような場所、そうしたところにはすでにそうした常時住むのではなく、別荘的な自宅を持つ人たちはけして少なくないはずだ。農業者がそうした人々とどう付き合っていくのか、あるいは付き合ってきたのか、大変興味がわく。

 さて、わたしの犬の散歩コースにも1ヶ月に一度くらいしか人がやってこない家がある。まだ建てて1年と少しというところだが、長期休暇の際にはしばらくいるようだが、そうでなければ1ヶ月に2日程度しか住まない。まさに別荘である。車のナンバーを見ると隣接県ではない。そこまでしてここらに家を建てた理由までは定かではないが、こうした家を時折見る。散歩をしていてその家の主に声をかけた。「1ヶ月に一度くらいですね」と。「草ひきに来るようなものです」と答える。そこそこの広さと庭を持っているから、1ヶ月もほっておけば草は伸びる。定年退職も間近なんだろうと想像するが、中間地帯も山間地帯も含め、ただ人を誘うだけではあとで困ることも多かろう。きれいな言葉で国は地方を都会のオアシスのように定めようとしているが、果たしてその先に何があるのか、さまざまに考える余地がある。

コメント    この記事についてブログを書く
« 正面とはどこか | トップ | 山と雲 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひとから学ぶ」カテゴリの最新記事