Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大河の端で暮らす

2009-04-15 12:43:18 | 民俗学
 伊那市沢渡と殿島を結ぶ歩道専用の天竜川の架橋が近ごろ通れるようになって、子どもたちが専用橋を渡っている光景が戻った。もともと歩車兼用で利用されていたところ、狭いこともあって上流側に車道専用橋が造られ、それまで兼用で使われていた橋が歩道専用に利用されていたものが、平成18年に起きた豪雨災害で、天竜川の増水によって橋脚が傾き、利用できなくなっていた。新たに架け替えという形で新橋が架けられたのだが、それまでは車道用に造られた橋を狭めて歩道を設け、子どもたちは通学していた。何よりかつてならあまり天竜川という大きな河川を渡って通学するというケースはそれほど多くはなかっただろうが、最近は学校の統廃合や通学区の変更などで伊那谷でもそういう光景は珍しくなくなっている。そんななかもともとこの地域は以前より橋を渡る通学が行われてきた。それだけ両地域を渡す橋は大事な役割を担ったということだろう。不思議なことは東春近という天竜川東岸の地域には、西岸の西春近のど真ん中に木裏原という地籍を所有している。いわゆる山を所有しているのとは異なり、そこには集落も存在する。そんなかかわりも東西を密接にしてきたのだろう。




 さて、そんな殿島橋の両岸には集落が密集している。とくに西岸の沢渡地区の河川際には町割り的に家が軒を連ねる。天竜川の堤防の頂に幅数メートルの管理道路があるが、その幅は場所によっては3メートルを下回るほどだ。それほど家が護岸天端に接近している。車の進入は禁止されているいわゆる管理用道路なのだが、この道を旧殿島橋の付け根から南へ少し歩いてみると、天竜川端でもこんな光景があるんだと思うほど人々の暮らしと天竜川が接近と言うよりは密着しているような気がする。もちろん車は通らないし、よその人が通ることはほとんどないこともあって、いわゆる裏通りは生活の場からすればよその人には覗かれない癒しの空間となるのかもしれない。家によっては2階のベランダに個人空間が整えられ、まさに川の景色を眼前にして休日を過ごすことができそうである。

 しかしそんな光景が常ならよいが、増水すると景色は一変するだろう。なにより殿島橋が落ちたように、増水は護岸天端まで接近し、濁った水は恐怖にもなるだろう。わたしもかつてなら河川の氾濫原のようなところに生まれ育っただけに、川とは密着した暮らしをしてきた。今でこそ川とは無縁になったが、けっこう川の風景はわたしの基本にある。それにしても護岸の頭で常に川の様子を伺いながら暮らした経験はない。洪水の被害をこの地で受けたという話はわたしがこの世に存在している間にはない。それだけめったにあることではない、もっといえば「ない」と言っても差し支えないほど確率の低いものであるのだろうが、表裏の顔を知っている人たちの暮らしぶりは興味深い。

 かつて昭和56年から57年ころにかけて飯山市で豪雨のたびに千曲川周辺で洪水被害を被った。例えば常盤地区で堤防が決壊した際には、堤防のいたるところで水が噴いていたという。たまたま切れたおかげで切れなかった地区では助かったかもしれないが、どこにでもその危険をはらんでいた。その後堤防の補強がされて当時のようなことはなくなったのだろうが、そこにも人々の暮らしがあった。大河の端で暮らすというむずがゆいような暮らし、人々はどう天竜川を見て受け止めているのだろう。
コメント    この記事についてブログを書く
« 林床の一輪 | トップ | データを失う »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事