Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

移動という行為のギッャプ

2009-02-17 12:43:19 | つぶやき
 乗車する駅から二つ目の駅まで、乗ってしばらくたってその二つ目の駅に間もなく到着と言うときに我に返ってその位置を認識した。「もうずいぶん前に乗ったような気がする」というのは考え事をしていたせいだ。それほど時間が経過していたというわけでもないが、それほど短い時間であったわけでもない。もう一度その時間的な位置も確認すると、やはりそこそこ時間を要している。とくに直線区間ではそれほど早くない飯田線もスピードを上げる。そんな時間が何分とはいわなくとも1分も続いていると、ずいぶんと走ったと感じる。この二つ目の駅まで「そんなに遠いのか」と思うわけだ。

 駒ヶ根駅と小町屋駅の間もそれほど遠いわけではない。駅間距離が短めな飯田線にあっては短区間な方である。わたしが何度か利用したパターンは、帰路駒ヶ根市役所に用事がある際に、小町屋で降車して市役所を訪れ、そのまま駒ヶ根駅まで歩くというものである。歩いてもそれほど遠いと思う距離ではないのに、この間電車に乗っていると、以外にもあっと言う間というほどではない。この距離を歩くとなればそこそこなんだろうと想像するが、前述したように歩けばたいしたことはない。これが乗り物と歩きのギャップのようなものである。わたしの乗車する駅から二つ目の駅まで、それほど遠いという意識はわたしにはないが、実際にそこまで歩いたことはない。以前にも触れたが、子どものころ母に連れられて生家のある駅で電車に乗ると、その二つ目の駅で降車して、母の実家まで歩いた。距離にして1キロ余といったところなのだろうが、子ども心にもっと近い駅があるんじゃないの、などと思ったことはなく、それが最寄の駅という認識であった。その実家は、現在わたしが住処としている自宅からそれほど遠いわけではなく、直線にして500メートルくらいだろうか。そう考えればその距離はまったく遠いものではない。

 しかし、そんな位置関係を歩いたとしてもきっと時間にして30分では届かない。それに比べれば電車なら10分ほど、きっと車なら5分とかからない。

 わたしはずっと地方で暮らしているし、地方も水田や畑が周囲を囲っているような広がった空間で暮らしている。そうした人間と都会の視界が遮られたような空間で暮らしている人たちでは、空間移動のギャップというものはわたしとは異なっているだろう。地方にあっては広がりのある空間を前にしているから、見えていてもそこまではたやすく移動はできない。そこで車が登場する。広がりある空間を誰も歩いているわけではないが、歩けば時間は要すがそれほど遠い実感はないはず。ところが広がりある空間は、そこに見えているものをとても遠くに追いやってしまう。だから歩くという行動をとれないのである。

 信号機に停車していて、あるいは少し渋滞していると、横を歩いている人がそれほど早足ではないのに自分を抜いてどんどん遠ざかっていく。もちろん車が動き出せばすぐに追いつくものの、「もうこんなに歩いたんだ」と車の中で他人の速さを実感することはよくある。確かに歩けば時間はかかるのだが、だからといって歩くことでとても時間を無駄にしたとは思わないわたしは、地方人の得意技を使わない。

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