Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

闇の世界へさようなら

2005-09-07 08:22:49 | 民俗学
 もう30年以上も前のこと(子どものころ)であるが、そのころ近くにできた国道バイパスの周りに投げ捨てられた空き缶やゴミを拾って歩いたことがあった。当時とすれば環境美化などという意識は世間にはなく、一人で拾うには気がひけたので、数人の仲間で拾った覚えがある。何を思ってそんなことをしたのかといえば、ゴミの投げ捨てで自分の家の近くの風景を壊さないでほしいという、とても当時としてはめずらしく、現代に通じる環境保全という意識でやっていた。そう考えるととても先進的であったのだろう、とそんなふうにも思い出される。このごろは道端に空き缶やゴミが散乱している姿は少なくなったが、この30年の間に、道端の風景は、そして人々の意識は大きく変わったといえるだろう。最も道端が汚かったのは、20年ほど前だろうか。ちょうどわたしが20代のころで、社会との格闘をしていた時代である。何を格闘していたかというと、ゴミという意識、モラルのない大人たちにうんざりして、自分の中でそうした大人社会と格闘していたのである。
 わたしが社会に出て、目の当たりにしたのは、車の窓から平気でゴミを捨てることであった。とくに車で出張することがあると、一緒に行く上司の中には、あらゆるものを窓から投げる人もいた。子どものころから道端のゴミを拾うというような活動をしていた自分にとって、びっくりするような出来事であったわけである。対向車がないのを見計らって、山のなかで「せーの」と掛け声を出して投げる際に、わたしだけ投げないわけにはいかず、自らの心の中で格闘しながら、みんなでやれば怖くない的な感覚で結果的には投げたこともあった。もちろん当時は、タバコの投げ捨てなど当たり前な世界だったわけで、「タバコを捨てるな」などといえる雰囲気はそこにはなかった。簡単に言えば、バブルに向かってゴミは増加し、バブル後になって徐々に減少してきたというところだろう。
 とはいえ、闇(見えない)の世界ではゴミ捨て的意識がまだまだ残っている。山の中の道端の下に、不法投棄されたものが転がっていることはよくある。そうしたゴミの中には、かつてのような個人で排出したものだけではなく、ゴミを扱う業者がまさしく不法投棄を行っている場合もあるだろう。そうしたゴミをどう処理するか、という意識は、昔も今もそう変わりがないのかもしれない。知りあいに下水施設に流れてくるものを以前聞いたことがあった。主なものにはキッチンペーパー、ペーパータオル、紙オムツ、生理用具などがある。流れて来るものに地域によって傾向もあるといい、避妊具が多く流れてくる施設もあるという。それらの中には、うっかり流されたものもあるだろうが、明らかに意図的に流される物がけっこうあるようだ。トイレという空間から流れ出さえすれば、もうだれのものともいえないわけである。敷地から出て、下水管に入ってしまえばもう闇の世界である。人が見ていれば捨てることはできないが、見られていなければ捨ててしまう。これはゴミだけのことではなく、常にわたしたちはそうした境界で「どうするか」を判断しているわけである。その際に、どのレベルにモラルがあるかによって、個々の差がでてくるのだろう。それでも、闇に消えていく場面では、闇に消えることで「もうおしまい」的な感覚を、わたしたちは備えているような気もする。
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