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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

往生院「庚申塔」

2023-03-24 23:15:05 | 地域から学ぶ

 

 同年齢の同僚が定年になるのはわかるが、自分より若い人たちが定年になるとなると、「順番違うよね」と思うもの。世の中には順番というものがあるから、そうした環境下に身を置くのはこころもち「重たさ」を覚える。その自分より若い同僚の定年を「祝う」には、正しい表現とは言えない状況下で、彼と二人で送別会をした。

 待ち合わせの時間に余裕があったので、少し送別会をしようとした界隈を歩いた。長野で「権藤」といえば、知らない人はいないほどかつて賑わったマチである。花街の芸姑たちの信仰を集めたといわれる弁財天が、権藤のアーケード通りの一角にある。「宇賀神大弁財天堂」という堂が往生院の庭にある。「信州最古」と説明板にあるが、堂に納められた弁財天が古いということなのだろう。それを拝見できるのは開扉される8月27日の午前10時から12時の間だけだと説明板からうかがえる。弁財天だけに、かつてここには蓮池があったといい、往生院を蓮池庵とも言ったという。

 往生院は大同2年(807)に弘法大師が善光寺参詣のおりにここに寶乗寺を創建したのが始まりだという。正治元年(1199)に法然上人が善光寺参詣のおり、ここに逗留したともいう。さらに建久8年(1197)源頼朝が善光寺参詣の際に善光寺再建を発願し、善光寺如来をここに移して仮堂としたという。仮のお堂のことを権藤と言ったことからこのあたりを「権藤」と呼ぶようになったと言うから、「権藤」の発祥地とも言える。マチの中にある小さな寺であるから、目立たないことも事実。

 この寺の庭に庚申塔が2基祀られている。一つは「庚申塔」と刻まれた文字碑。台石に「講中」とあり、背面に「万治元戊戌年三月上旬」に併記して「寛政十二庚申年十月再建」とある。もう一つの庚申は石祠型のもので、正面には二鶏と二猿が彫られ、台石には文字碑同様に「講中」とある。実は背面に「庚申塔」とあり、もしかしたらこちらが正面なのかもしれないが、縁取りされているからやはり二鶏二猿側が正面なのだろう。向かって左側面に「元禄七甲戌年三月上旬」とあり、右側面に「寛政十二庚申年十月再建」文字碑とまったく同じ年号が刻まれている。おそらく同じ時に再建されたものと思われる。文字碑の万治元年は1658年、石祠の元禄7年は1694年にあたる。「再建」とあるから元も文字碑と石祠だったのかははっきりしないが、同じとすれば文字碑の方が古かったということになる。近隣には茂菅の飯縄神社や箱清水に「万治三年」銘の石祠型の庚申が現存する。さらに吉田界隈には「慶安三年」銘と言うさらに古いものもあり、それらはいずれも石祠あるいは宝塔型のもの。そう捉えると、再建された文字碑の元の姿は石祠だったかもしれない。


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