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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

上野の庚申さんに触れて

2021-08-02 23:41:03 | 民俗学

真光寺本堂

 

(左)「庚申之箱」裏蓋に「嘉永元年申正月京都ニテ田原小右衛門求む 大正八年正月製この箱の寄付者 横澤丑之助」

(右)箱裏「明治参拾参年旧正月拾七日 庚申仲間中 大工宮嶋萬平拵之」

 

 長野県民俗の会第226回例会は、この土曜日(7月31日)に松本市梓川の真光寺で行われた。担当の細井雄次郎氏がこの真光寺にたどり着いたきっかけは、白馬村を中心に起こった地震災害の文化財レスキューにかかわったことによる。ここ真光寺がかつて配布した庚申掛軸が、北安曇の北端の地域にも見られたことで、真光寺に導かれたという。

 梓川上野にある真光寺は、大同2年(807)に坂上田村麿が八面大王征伐の際に背負い来た守本尊の青面金剛を安置し、大願成就を祈願したことに始まるというが、荒廃と復興を繰り返してきたこともあって、上野のお庚申様として知られる以前の真光寺の姿は、あまりはっきりしていないところもある。にもかかわらず「上野のお庚申様」と親しまれる存在になったのは、廃仏毀釈によって荒廃した寺を復興した真光寺初代住職櫻井大典によるところが大きいという。かつて年6回あった「庚申」の日には近郷近在の参詣者で賑わい、とりわけ初庚申には、露店が建ち参詣者で道があふれたるほどの賑わいを見せたという。現在も達磨が売られるようで、それを目当てに多くの人々が初庚申に訪れるという。こうした初庚申を運営するのは、檀徒の人々であって、廃仏毀釈によって寺が荒廃しても、初庚申に檀徒の人々がかかわって継続されていたともいう。そうした「庚申」を利用して寺を再興したのが当時の住職で、簡単に言えば「庚申」をアピールすることで寺を運営しようとしたわけである。現在の「上野のお庚申様」の背景は、事業家としての当時の住職の策がはまって成立したとも言えそうだ。寺の維持は多くの寺で難しい段階に入っている。寺離れもあるだろうし、人口減少もある。この後寺をどう維持していくかという面ではどこの寺にも課せられる課題だ。まさに廃仏毀釈によって行く先を閉ざされた寺が、どう継続していく道を選んだのか、そんな解決策を、明治時代の真光寺再興に学ぶことができる。

 「上野のお庚申様」として知られることにより、各地に配布された庚申の掛軸が、講の廃絶とともに寺に戻りつつある。ようは利用されなくなった掛軸の処分先として、真光寺が頼られているという。かつてなら掛軸を更新する際に、古い掛軸と交換に新たしい掛軸にした経緯もあるのだろう、古い時代に持ち込まれた掛軸も真光寺には残る。こうした戻された掛軸を記録し、分析されたものを細井氏は報告された。細井氏の調査後に納められた掛軸が、寺にはたくさん保管されていて、細井氏は今後それらも記録されていくという。講の廃絶とともに納められるため、それらの中には講の当番が記録された帳面も含まれる。北は小谷から南は辰野あたりまでの広範に真光寺の掛軸が配布されていたという。この地域の庚申信仰を知るには、貴重な資料であるが、できれば納められる講の人々から聞き取りができると良いのだろうが・・・。


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