はじめに
庚申講廃止に伴う掛軸や道具の納め所として松本市梓川の真光寺が知られることは、細井雄次郎氏による「松本市梓川真光寺に集積された庚申掛軸について」(1)によって報告された。処分されることなく集積された掛軸の数は267幅にのぼる。その後令和4年4月16日と同7月30日の2日間、長野県民俗の会有志によって細井氏が調査した令和元年4月以降に納められた庚申掛軸や道具が追加調査され、細井氏によって「松本市梓川真光寺の庚申道具調査報告」として『長野県民俗の会通信』291号に追加調査の概略が報告された。3年の間に41の庚申講から60幅の掛軸が納められており、ここから年間10箇所以上の庚申講が廃止されたことがわかる。もちろんすぐに真光寺に納められるわけではなく、休止状態の末にその処理を検討されたうえで真光寺へ頼ったものだろう。実際に2度の追加調査に加わった上の印象は、掛軸に限らずその一切の関係道具をすべて納めている講も見受けられ、それまで長く続けられてきた講を廃止する人々の、捨てがたい想いがそこに感じられたわけである。
本表は「昭和庚申から36年・後編」で作成したものを修正
上伊那郡下では昭和55年の「庚申」年におびただしい数の造塔が行われ、その数は366基の報告がある(2)。ただしこの表を見る限り伊南の造塔数が少なく計上されており、漏れもあると思われる。したがって総数はさらに多いと推察される。この上伊那における造塔に関しては、胡桃沢友男氏によって「庚申年の造塔をめぐって-主として信州の場合-」(3)によって上伊那における造塔数の背景を考察しているが、結局その理由については解かれていない。地区を挙げての造塔であったことは、2度にわたって「庚申特集」を組んだ『伊那路』に詳しく述べられているが、造塔数がそのまま庚申講の実施数であったかははっきりしない。そしてその後42年を経た今、庚申講の実施数は真光寺へ掛軸が納められた数からもうかがえるように、明らかに減少しており、上伊那でも同様と考えられる。偶然辰野町図書館で見た『辰野町資料』126号(4)に森下春氏による「鞍掛庚申講の休止にあたって」という記事を見、辰野町北大出鞍掛小路で行われていた庚申講が「最後の庚申講」を令和3年12月25日に行ったということを知り、最後の庚申講に参加された講員に廃止する経緯をうかがってみた。
続く
註.(1)『長野県民俗の会会報』44 2021
(2)萩原貞利「上伊那の庚申塔建立(増補)」『伊那路』286 上伊那郷土研究会 1967
(3)『日本の石仏』18 日本石仏協会 1968
(4)辰野町文化財保護審議会 2022
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