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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「結局、民俗学はどこへ」外編

2009-12-25 19:40:57 | 民俗学
 『日本の民俗』13巻「民俗と民俗学」(吉川弘文館/2009/12/10発行)について最近感想を述べている。同書の中には「国家と民俗」の関わりにも少し触れているが、そもそもわたしたちの生活は国の動きの中で変遷してきた。そして変わることが当たり前であるわたしたちの暮らしの中で、わたしたちはそこに何を見出して変化するものや変化しないものを選択してきたのか、というところもその個人や地域の民俗として捉えられるのだろう。変わらないことや昔のこと=民俗ではないことは言うまでもない。国家の方針に左右されるのはつい最近の政権交代で実感している通りである。国の施策はすぐさまわたしたちの生活に関わってくる。このことは「結局、民俗学はどこへ⑤」に譲るとして、わたしたち(民俗に関わっている者)の接し方としてどこに問題があるのかということについて少しここで触れたいと思う。

 ちょうど「結局、民俗学はどこへ③」において「自然・環境・暮らしと民俗学」という同書のテーマについて触れた。事例としてちょうどよい記事が『伊那民俗』79号(柳田国男記念伊那民俗学研究所)に掲載されている。針間道夫氏は「遠山谷の交通と交易その光と影」において、「上村地区は、明治近代以降少なくとも三回の大きな交通運輸手段の変革を経て、今日に至っている。それぞれの時代背景と波及した効果、その光と影の部分を改めて考えてみたい」といって、地域に影響を与えた三つの交通変化を取り上げている。一つは大正12年に創業した竜東索道である。遠山と現飯田市座光寺を索道で結んで森林資源を利用しようとしたもので、後に飯田線が南進するとともにこの施設は廃業に追い込まれていくが、その期間はさほど長いものではなかったものの、遠山谷に大きな変化をもたらしたものであったという。

 二つ目は赤石林道である。現在県道上飯田線として利用されている道路であるが、頂点にある赤石トンネルが開通したのが昭和43年である。遅れて始まった自動車への運送手段の変化は、この道路の開通とともにようやく平地並となったと言える。こうした流通の革命で恩恵を受けた人たちも少なくない。三つ目にあげているのは矢筈トンネルである。もともと赤石林道に危険な箇所が多かったことと、道も狭かったということで更なる道路改修の要望は高かった。また小川路峠という車が行き止まりの国道ではなく通れる国道を願った上でのもの。針間氏は触れていないが、たまたま三遠南信道のトンネルとして掘削されたが、最初から高規格のトンネルを開ける予定ではなかった。赤石林道の代替道路という主旨であったことは忘れてはならない。したがって三つ目として取り上げているものの、わたしの印象では赤石林道の開通という二つ目の変化の延長上という位置づけの方が正しいだろうか。

 以上のような変化を解説し、その変化を綴った最後にこう記している。「トンネルの開通、存在によって、利便性の優先と引き換えに失ったものは何だったのだろう」と。そしてまとめとして次のようなことを述べている。

「道路やトンネルが開通すると便利だ、都合がよい。確かに通学や通勤のメリットも見える。しかし、食料や日用雑貨品など地元で間に合う物を購入しないで、品質や価格などを考えてトンネルの先の大きな商圏へお金が滞れてしまう。そうすと、地元の経済のバランスサイクルが崩れて、最終的には地域のパイが地盤沈下に陥ることになる。分かっていても人の心理やお金の流れには歯止めが効かない。言われて久しいが、道ができるだけでは地域が良くならない。これからは自然や文化、地域が蓄積してきた歴史や伝統芸能など、あるいは人の手があまり加えられていないことが、価値の高い時代である。豊かな自然景観を求めて道によって導かれた外来の人達をいかに迎えるか、道といかに有機的に結び付けるかである。地域として万全の準備をして産物やサービスをお金に換えるかである。主体的に心して構える必要がある。」

 地元が欲しいといって開ける道。もちろん国の補助金をいただくというよりも国がそうした制度を置くからには国の施策ということになるだろう。その上で隣をのぞきながら「同じようになりたい」という希望があるからこそ整備されたもの。確かに失うものは結果論としてあるが、選択したのは人々である。針間氏は三つの変化を綴ったに過ぎず「利便性は上がったものの、失ったものが多い」というごくありきたりなところへ導いている。その上で「自然や文化、地域が蓄積してきた歴史や伝統芸能など、あるいは人の手があまり加えられていないことが、価値の高い時代である」と言っている。ここまでの歴史はどこの地粋でも同じように歩んできたもの。みなが結果として人を失い、最終的にはいつまで「持つか」というような集落や地域を描いてしまった。そもそもこういう歴史を紐解いておいて、では自然や文化を餌に先を開こうというのではそこにはまったく民俗の視点が見られないのである。そもそも「人の手があまり加えられていないことが価値ある時代」などいう捉えかたは大きな認識違いである。「民俗と民俗学」で取り上げられているような民俗の課題を、もっと地域で民俗に意識的に関わっている人たちに広めるべきではないだろうか。さもなければ、いつまでも彼らは過去の変わらぬ暮らしを美化してしまう。道が開けても、開いたことによって何をするか解っていたら、人が出て行ってしまうということはなかったはず。いやそうではないのかもしれない。道を開けるということはそういうことだったのである。にも関わらず失ったものがあるなどと言っていては同じことをいつまでも繰り返すことになる。わたしも同じ間違いをしてきただけに、危惧する点なのである。

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1 コメント

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ツッコミ (山間僻地)
2010-01-15 17:33:24
どうも
コンセントが抜けたので、軽く
>竜東索道である。遠山と現飯田市座光寺を索道で結んで森林資源を利用しようとしたもので
>二つ目は赤石林道である。現在県道上飯田線として利用されている道路であるが、頂点にある赤石トンネルが開通したのが昭和43年である。
>道が開けても、開いたことによって何をするか解っていたら、人が出て行ってしまうということはなかったはず。
>道を開けるということはそういうことだったのである。
★いえ、日本で「道を開ける」のは、人、物、金を都市に供給するためです。で、それが最初からの目的です。

以上

追加
>「トンネルの開通、存在によって、利便性の優先と引き換えに失ったものは何だったのだろう」
★ではなく、
「トンネルの開通=道を開ける」は、(利便性の優先ではなく、)
物、金、人を都市に供給することですから、
引き換えに失ったものはではなく、
これが目的です。

かさねかせね、以上

つづく
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