Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

果たせなかった「思い」

2022-11-14 23:10:28 | ひとから学ぶ

 何度ここに記したことだろう、先輩の訃報のことを…。

 最近ろくに新聞も読まずにいたこともあるが、訃報を耳にして昨日の新聞を開いた。お悔やみ欄を必ず見る、という人もいれば、お悔やみ欄しか見ない、という人もいるように、意外にお悔やみ欄は愛読欄になっている人が多い。当たり前のことで、知人の死を知る手掛かりは、それくらいしかない。もちろん会社を通じて連絡も入るが、そうでもなければ全く情報は入らない。こうしたところにも人とのかかわりが薄くなった今が見える。加えれば、今やお悔やみ欄に否掲載という例も多く、後々「亡くなっていた」と知ることも多い。

 わたしの年齢からすれば、お悔やみ欄にくまなく目を通すべきところなのかもしれないが、日常ではそこまで真剣にお悔やみ欄を注視しない。せいぜい住んでいる地域のあたりをサラッと目を通すだけ。一人ひとり確実に確認するほどでもない。しかし、今日のようなことがあるたびに、「ちゃんと目を通さなくては」と考えさせられる。そういえば、と繰り返される会社からの訃報通知。昨日の新聞に掲載されていたのに、通知されるまでまったく知らなかったわけだ。したがって葬儀に行く段取りができるかどうか、悩んだうえでの自宅経由業務打合せ、後葬儀という図式となった。もちろん自宅までかえって支度をするということは逆方向となるから時間を要す。わかっていればその時間を費やす必要もない。

 亡くなった先輩とは一まわりと少し年の差があった。まだ入社して2、3年という40年ほど前、組合活動で一緒に作業をしたのが親しくかかわるきっかけだった。先輩は業務部署が全く異なり、工務課という土木作業を請け負う部署に籍を置いていた。わが社で数人しかいない特別な部署で、その後数年でその部署は消滅した。わが社ではわたしが在籍している部署(部門)が最も発言力が強く、他の部門の人たちよりも発言力があるだけに出世するのも早かった。その傾向は今も変わらず、裏を返せば他の部門の人たちを「下に見る」傾向があったことは否めない。そうした環境下にあって、先輩と関わらせてもらったことは、他の部門の人たちとの親近感をその後も持つ素地を築かせてもらったことになった。けして人は業務能力だけでは人間力は計れないということを、先輩の姿から見出した。とはいえ、まだ入社して数年というわたしのいた部署に、間もなく上司として配属されてきた先輩。部門が異なる部署に配属された先輩が、入社して数年というわたしより仕事の知識はもちろん、処理能力も劣ったことは言うまでもない。それまで先輩が蓄積してきた会社での立ち位置をリセットしてのことだから、苦労があったことだろう。その後退職までには出先のトップも担われたが、芳しくない噂も耳にしたものの、わたしにとっては親しくしていただいた、そして多様な人の思いを教えていただいた人生の先輩であったことに変わりなかった。

 とりわけ思い出されるのは昭和58年の下条村長期出張だろう。当時下伊那では台風災害によって災害が多数発生した。北の果ての部署から応援で下条村に1か月滞在した。週末は北の果てまで帰ったわけであるが、入社して数年は毎週末生家のある飯島町まで南下していたのに、下条村に滞在した際には生家に帰らず北の果てまで先輩と帰ったもの。楽しく過ごした日々だったと記憶する。その後先輩の家に何度もお邪魔して、泊めていただいたことも何度も。余裕ができたら足を運びたい、そう思っていたのに叶わず今日を迎えてしまった。思ったときに実行しないと「果たせない」、そう思わせる先輩の訃報であった。

合掌


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