Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

逃れられない敷かれたレール

2009-05-27 12:56:00 | 歴史から学ぶ
 「再生の条件」は毎日新聞の特集記事である。5/25付朝刊で扱われたのは、国営農地開発事業である。「残った巨石と借金」というタイトルで福島県雄国山麓地区の事例を紹介している。国営事業で行うということはそれだけ大規模な地区でなくてはならない。現代ではなかなか農民の意見がかみ合わないが、まだ農地神話が盛んに語られた時代にあっては山が農地に変わるということはとてつもなく夢のあるものだっただろう。1971年に着工されたということは昭和46年のこと。ちょうど減反政策が始まった年である。きっと話が持ち上がった際には開田も可能だというくらいの話はあったのだろう。まだまだ米がすべてみたいな農業だったのだから当たり前のことで、誰しも希望を持ったことだろう。ところが減反政策が始まると、もはや開田は許されなくなった。ただでさえ減反をするというのに、水田を増やそうなどという行為は全く逆方向であるからだ。19歳で農業を継いだという物江康平さんは、まもなく召集令状が届いて戦争に行く。引き揚げると例のごとく不在地主扱いだったのかあるいは農地改革という名の下か所有水田は減らされた。この事業によって減らした水田を取り戻そうとばかりに賛成しただろう。

 1976年完成予定が遅れて1993年にやっと完了という。平成に入ってからである。すでに農業を取り巻く環境は大きく変わっていた。もちろん減反の年に始まったというのだから、そこまでたどり着く間にも、受益者である参加者は複雑な思いで事業の姿を見ていたに違いない。そして造成された土地は石ころだらけで農業には不向きだったとなれば、なかなかその状況たるは予想を遥かに越えるかもしれない。900ヘクタールのうち63ヘクタールが放棄されているというが、よくそこまで耕作をしているとも視点を変えれば見て取れる。いわゆる補助事業で開発したものだからという事績の心があって続けられてきたものだろう。「何のための開発だったのか」と問えば、農水省は「事業はあなたたちがやりたいと言ったからやった」という答えが返る。いつものことであるが、農業にかかわる事業は受益者負担が伴う。それがゆえ事業は自らの要望だというのが基本的な共通認識である。しかしながら、一度走り出した車をなかなか止められないとも事実で、そんな事業は話題になるものをあげただけでもいくつもある。なかなか思うようにいかなかった責任は、だれのものでもないのである。

 昭和60年代のことだった。わたしも国の造成に比較すればとても小さな農地開発に少しばかり関わった。事業主体だった担当は開田してはならないのに少しばかりであるが水田を増やした。それが会計検査院にばれて見事に補助金変換をするという結末だった。5年余前のこと、会計検査院が来るからといって待機させられた現場に久しぶりに立った。農地とはとても思えないほど草が生え、すでに小さな木が生え始めていた。予想ができなかったわけではないが、「やはり」と思いながら眺めたかつての仕事の舞台の成れの果ては、きっと山に戻るのだろう。水田とは違い、傾斜のきつい畑の成れの果ては多くはそんなところに行き着く。いっぽうでは30゜を越えようかという急斜面で農業を営む地域もある。思惑通りにはいかないのは、農民の心が一つではないからだ。何もこうした事業が無用だったとは言わないが、確かに現在を見る限り無駄もあったということになるが、それは結果であって誰しもこんな姿を見越して始めたものではない。

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