Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

隣人への視線

2008-12-24 12:34:04 | ひとから学ぶ
 NEWS23で“凶気の矛先”という特集を放映した。渋谷で今年起きた79歳の女性による通り魔事件もその事例として紹介された。事例取り上げながら無差別殺傷事件の解決策のようなものを捉えようとした内容であるが、とくに気になったこの事例の部分について少し触れてみたい。この通り魔事件で被害にあった若い女性が見たものは何だったのか。事件の傷は3センチほどと大きくはないものの、身体の他の部分に傷がないかと開けられた腹部の術後の傷は下腹部から胸にわたって30センチもの長いものである。若い女性にとってこの大きな傷はそれこそ大きな痛手であったことだろう。

 79年間を振り返り「幸せではなかった」と答える受刑者は、住む場所もなく、警察をそして刑務所を求めた。その筋道にあった事件。いや、そのために起こさなくてはならなかった事件。高齢者による犯罪は、この時代の先に向かってさらに増えていくのだろう。もはやそうした人々は社会に生き続ける道は閉ざされているといってよい。不幸を背に負いながら死を待つのみなのだろう。もちろんそれは本人の理由であることは言うまでもない。

 背景はともかく、被害者の女性は痛手を負うとともに、おかしなこの時代の姿を実感した。そのコメントに驚いているわけにはいかない。これが現代の冷たい視線なのだ。
①救急車よりも先に警官がやって来て、それも何人も来て同じような質問をそれぞれがした。もちろん傷を負っているのだから痛みがあるというのに。
②救急車は20分ぐらいしてようやくやってきたが、その間に群がった見物人はケイタイで写真を撮っていた。
③検察でいきなり犯行直前の刺すところの写真を見せられた。この写真は防犯カメラが撮っていたものである。

 どれもこれもなるほどと思えることである。思えてしまうわたしはどこかで同じようなことを聞いたことがあるからだ。①警察は事件を仕事として客観的に捉える。だから同じことを繰り返すのは答えに相違点がないかを確認するためだ。そして都会の警官は、地方の派出所のおまわりさんではない。②ケイタイで写真を撮るなどいうのはこのごろは当たり前のことになっている。場合によっては「今事件があったよ。写真送るね」程度に事件がワイドショー化している。③考えてみれば都会などはいたるところにカメラがあるのだろう。自分が刺される瞬間が記録されているなどというのを聞くと、複雑な思いだろう。ようは「なんだお前見ていたのか」という感じである。検察側がそんなものを見せて何を意図しているかしらないが、ここに写っている人は「あなたですか」と確認するのだろう。そこまで見ているのなら「助けてくれよ」と思うが、あくまでもそれは人の目ではない。にもかかわらずこうして見ていたがごとく証拠を提示されると憤慨してくる。

 被疑者に対する目は厳しくなっている。もちろん事件を起こす人たちにだけのものではない。非正規労働者が切られるなか、それをサポートしろという言葉が氾濫する。でもそれってどういうことなの、ということになる。どれもこれも平等感というところで皆口々に疑問を口にする。

 みんながみんな不満を持っている。ようは首を切られる人たちはただ切られているわけではない。事件を起こす者たちはただ起こしているわけではない。しかし、そういう人たちに対していろいろ言う前に「自分たちだって苦労している」という気持ちがこうした舞台に遡上してくる人たちへの言葉の暴力として人々は吐き出す。すべてが「不満」の噴出なのである。確かにそれぞれに苦労しているのは確かなのだが、それは感度であって同じ基準ではないのはもちろん、人によってその認識は違う。確かにそうなのだろうが、だからといって自分の不幸を皆に当てても足の引っ張りあいだ。犯罪者に対して許せるくらいの心がないと、もはやこの国の人々の構造欠陥からは抜けられないのかもしれない。とそんなことを思う深夜であった。若き路上生活者の隣人を優しく見るという考えは、印象深い。路上で知った接し方だったのだろう。どんな目で見られようと、何を言われようと、その矛先を隣人には向けない、そういう視点なのだ。

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