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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

天竜川下流域を訪れる

2023-02-06 23:24:41 | 地域から学ぶ

 

1.開削
 静岡県磐田市にある寺谷用水という農業用用水路を訪れた。昨年10月に世界かんがい施設遺産に登録された用水で、開削された古さはとびぬけている。開削は天正16年と言うので1588年までさかのぼる。完成したのは2年後の天正18年という。天竜川左岸に12キロほどの水路を開削し、その取水口が磐田市寺谷だったことからそう呼ばれるようになったよう。開削によって400ヘクタールが開田され、1700ヘクタールほど水田に寺谷用水はかんがいしたという。概略は「世界かんがい施設遺産 寺谷用水」という資料が把握しやすい。
 さらに詳しいものとして『寺谷用水』という冊子があり、ホームページ上でもPDFで閲覧できる。表紙に安政年代の古い図が印刷されているが、上下の赤いラインが当時の寺谷用水。おそらく現在の水路とほぼ同じ位置を示している。この図の左側の水色は天竜川、「大池」は現在も存在していて、その右側の川が今之浦川、右端の川が太田川で、この右側が袋井市になる。上から山と思われるグレーのエリアが垂れ下がっているが、これが磐田原にあたる。現在はほぼ茶畑になっているところで、住宅地も広がった。ちなみに、ヤマハ磐田工場やスズキの磐田工場は磐田原に沿ったあたりに存在する。
 何といっても開削年代が古いことが寺谷用水の特徴。徳川家康の家臣平野重定が、徳川家康から天竜川左岸域の治水と利水の整備を命じられた伊奈備前守忠次と諮って用水路開削事業に着手したものといわれる。全国的に著名な9000ヘクタールをかんがいするといわれる福島県の安積(あさか)疏水が明治14年(1881年)、関東15000ヘクタールを潤す見沼代(みぬまだい)用水が天保13年(1728年)、2600ヘクタールをかんがいする新潟県の上江(うわえ)用水が天明元年(1781年)、上伊那とも縁がある五郎兵衛用水が寛永7年(1630年)、岐阜県美濃市の曾代用水が寛文12年(1672年)、三重県の立梅用水が文政6年(1823年)といったように、いずれも寺谷用水開削以降のもの。

2.天竜川流域の水利
 当初の寺谷の取水口は天竜川の変化とともに上流側に移っていった。隣の掛下(かけした)、さらに隣の平松、さらに北上して神増(かんぞ)、さらに現在の新東名のある一貫地(いっかんじ)と北上した。明治になって水量不足に悩んでいた太田川の流れる磐田原東側の地域において天竜川からの導水を考え、社山(やしろやま)にトンネルをくり抜く社山疎水を計画したのは明治16年という。このとき寺谷用水も共同で神田に取り入れ口を造ることにし、明治17年に取水口は完成したと言う。しかし、社山疎水のトンネルは失敗して明治21年に中止になった。
 その後寺谷用水は神田取り入れ口でも取水困難となり、昭和8年にさらに上流に取水口を計画。その際断念していた社山疎水の計画も併せて再計画を行い、寺谷用水と併せて「磐田用水」と称して事業化されることに。二俣にある「磐田用水旧取水口」が当時の取水口となる。完成したのは昭和18年、磐田原東側まで通水したのは昭和22年という。
 天竜川へ佐久間ダムや秋葉ダムが完成し、土砂がせき止められるようになると、河床がさらに下がって取水が難しくなったといわれる。昭和53年に発電と用水のために船明(ふなぎら)ダムが完成する。翌年に左岸導水路が完成し、二俣の取水口が廃止され、船明ダムからの取水に変わったというわけで、現在の水源は船明ダムとなる。
 天竜川左岸にあたる寺谷用水は、磐田用水とともに明治以降歩んできたわけだが、天竜川右岸においては、北西部は三方原用水、西部から南西部にかけては浜名用水がある。いっぽう天竜川左岸においては、天竜川に沿った左岸は寺谷用水、その東側の磐田原台地は磐田原用水、その更に西側の太田川沿いには磐田用水東部水系によってそれぞれの地域を潤している。それぞれの創設時期を見ると、三方原用水が昭和40年(1965年)、浜名用水が昭和21年(1946年)、磐田原用水が昭和57年(1982年)、磐田用水東部水系が昭和19年(1944年)といずれも昭和になってからのもので、寺谷用水の歴史的古さが際立っており、全国的に見ても古いことは前述したとおり。寺谷用水が古いから、周囲のかんがい施設も古いかといえば、そうではないわけで、裏を返せば、なぜ周囲の地域で同じような企てがされなかったのかは興味深い点である。一説にはほかの地域では藩政時代に水利事業に熱意のある藩がなかったともいわれている。

3.現在の寺谷用水
 現在の寺谷用水は、『寺谷用水』の5ページから6ページに施設の写真が掲載されている通り、「寺谷コントロールセンター」が整備されている。それまでの開水路での管理ではなく、全体1500haのうち700haほどがパイプライン化されたという。平成6年度事業着手、平成29年度完了。総額110億円を要したとも。補助残の地元負担分の約9割を磐田市が負担たという。どうして磐田市が事業に協力してくれたのかというと、もともと寺谷土地改良区の管理する施設は幹線用水路や付帯施設の基幹施設のみで、小用水である末端施設は磐田市が管理していたという。したがってパイプライン化することにより、そうした施設の維持費が低減されるということから磐田市が支援したようだ。
 1590年の旧取水口の大圦樋(おおいりひ)跡に記念碑が建てられているが、「遺産」とは言うものの、かつての遺物はほとんどなく、この大圦樋跡ぐらいだろうか、それらしい場所は。


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