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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

久しぶりの「大雪」

2023-02-10 23:59:59 | つぶやき

 明日に例会を控えて、雪降りが頭を悩ませた。ただでさえ伊那谷は、県内では別世界と言う印象がある。それでいて大雪ともなれば「遠い」イメージは増幅して、「欠席します」という人が増える。せっかく用意した例会も台無しだ。とはいえ、会社の駐車場から出る午後6時過ぎには、積雪30センチを越えていた。もはや暗い明日しか見えない。

 いつも立ち寄る店に「きっと空いているだろう」と立ち寄ろうとすると、駐車場に車が止まっていない。早々店じまいをしたのか、と思い通過して「どこを走ろうか」と考える。この状況ではどこを走っても渋滞しているだろう。会社の遠くからの通勤者も、今日は早々帰った。国道153号は車が繋がっている。おそらく沢渡の春近大橋の交差点からずっと繋がっているのだろう。その距離2キロを越える。もちろんそこへ合流するつもりはない。ふだんでさえ40分余かかる家への道のりが2時間以上は当たり前だろう。旧国道の小黒川橋を渡り、すぐ南にある寂照庵横の道に左折する。道が狭いから「通れるだろうか」と不安があったが、通れそうだ。ふだんでも通る人は少ない狭い道。国道に並行して南下し、下平駅南の旧国道に合流する手前まで来ると、その先の沢渡の信号機から旧国道も車が繋がっている。もちろんそこにも合流しない。天竜川左岸に渡る選択肢として「春近大橋」を考えていた。その春近大橋から伊那市街に向かって2キロ以上渋滞しているのに、どう通過するか、と言えば、西からその交差点に合流することができる道がある。旧国道に入る手前を左折してその交差点に向かう。その道も渋滞しているのでは、と思うと1台も姿がない。その交差点に入る道が「坂である」という点も、そこに車がなかった理由かもしれない。ふだんわたしはほぼ通らない道。ちょうど「青」だったこともあり、2キロも渋滞しているその交差点をあっと言う間に通過した。伊那市街側2キロ以上先から、この交差点を通過するまで要した時間は5分くらいだろうか、幸運である。

 春近大橋を渡り、橋に向かう道は車が繋がっているというのにその先にあるコンビニに気楽く立ち寄る。この先まだ難所があることもあり、給水である。コンビニを出て、「火山峠を越えるか」あるいは「このまま東春近を南下するか」と悩んだが、「峠よりいいか」と、東春近を南下する道を選択。やはり狭い道は、大雪だと選択する人は少なく、ふだんにくらべて車は走らない。スムースに「北の城橋」までたどり着く。もちろん天竜川を渡るつもりはなく、そのまま県道車屋大久保線を直進する。ふだんはほとんどの車は北の城橋を渡る車ばかりで、この道を直進する車は少ない。スムースに駒ヶ根市大久保を通過できるかと思っていたが、さすがに「通る車が少ないと考えて、普段通らないような車がこの道に入ってくる。その先には坂があり、登れずに立ち往生している車が…。前輪駆動らしく上れずに「引き返す」とバックしている。その車をやり過ごして進むと、その先の坂でも上れずに苦労している車が…。後輪駆動の後ろにチェーンを付けているが、それでも上れないようだ。しばらく待っていたが、対向車も来ているようで、「いつになるかわからない」と思い「バック」。引き返して北の城橋を天竜川右岸に渡ることに。

 やはりこの大雪では、ふだんそこそこ通る北の城橋も「怖い」と思うのかほとんど車は来ない。右岸側に渡りスムースに宮田村の大久保を経て、大田切川の大田原橋を渡る。その先の下平は平らで道もそこそこ広い市道。遅い車は追い越して進む。小鍛冶を経て小鍛冶橋を渡って再び天竜川左岸へ。あとは主要地方道伊那生田飯田線を経て吉瀬田切大橋を渡って天竜川右岸へ。田切道の駅の交差点を直進して旧国道に入り、日影坂を上ってふだん走る県道飯島飯田線へ戻る。かなりの紆余曲折であったが、1時間余がコンビニを出てからの所要時間。県道車屋大久保線での通せんぼがなかったら、もう少し早かっただろうが、大雪の日は、誰も通らないような道を走る、に限る。もちろん4輪駆動であることが条件ではあるが…。

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今だけにしたい

2023-02-09 23:59:59 | つぶやき

 突然空白になっているからといって「死んだわけではない」。ふだんなら最も優先していた「わたしの時間」が、今はほぼ持てない。日記を始めて18年にもなるというのに、こんなことは最初で最後にしたいが、このまま「終焉」を迎えることも、けして無いわけではない。世の中には、そうしブログが、山と排出されている。

 優先順位を下げざるを得なくなったのは、精神的な余裕にもある。今は「悩む」ばかりで、何も進んでいないような状況だ。「どうやって謝れば良いか」などと、常に頭の中で描いている。それでもどうしても優先度の高いものを、少しずつでも進めていかないと、と思い手をつけるが、なかなか思うようにならず、いっぽうで「そんなこと優先していていいの?」と、もう一人の自分が問いかける。…が、彷徨っている自分は、「何かせずにはいられない」と、優先順位度外視して、手をつけてしまう。

 もはや「空白の日々」を埋め合わせることはできないし、痴呆症にかかったように、過去を片っ端から忘れている。処理能力の低下もあるだろう、昔のような自分の錯覚に陥り、やす請け合いをすることしきり。自分は「一人しかいない」のに、複製された自分が、いつの間にか「良い返事をしている」。もはや二重にも、三重にも、「自分」が重なり、彷徨うばかりである。

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酒屋と染物屋

2023-02-07 23:27:21 | つぶやき

花の舞酒造

 

「都鳥」

 

山口屋染房

 

 可睡斎という寺を訪れた。そのまま寺の名前とは知らなかったわけだが、寺の名には似合わない名前だ。可睡斎の第11代住職仙隣等膳が小僧時代に臨済寺で、今川義元の人質となっていた松平竹千代の教育を受け持ったことがあったと言われ、後に浜松城主となった家康がその恩を忘れず、旧交を温めるために等膳和尚を城に招いたところ、道中の疲れもあって当時を懐かしむ話をしている最中に、和尚は居眠りを始めてしまったという。その様子を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言い、以来和尚が「可睡和尚」と呼ばれたことから、いつしか本来東陽軒であった寺の名が可睡斎となったという。

 季節ごとに趣向を凝らした飾りがされることで知られ、ひな祭りの季節ということもあって「ひなまつり」展示がされていた。そして記憶に残るのは東司にある烏蒭沙摩明王だろうか。写真を撮り忘れたのが心残りなのだが、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」という功徳が東司の仏さまになった所以のよう。可睡斎のページに東司について触れたページがあるので参照。

 浜松市浜北区にある「花の舞酒造」という会社も訪れた。「花の舞」はいわゆる「花の舞」からきている。?と思うだろうが、この「花の舞」は花祭りなどにも登場する「花の舞」のこと。今でこそ「花の舞」という銘柄であるが、かつては「都鳥」と言った。このことは同社のホームページの歴史に触れているページにも記されていない。元は引佐酒造と称していたが昭和31年に現在の花の舞酒造に改称したという。

 さて、酒の話よりも気になったのは会社のあい向かいにあった染め物屋である。山口屋染房といい、近くに小さな店もある。祭りの袢纏などが主な仕事のようだったが、感染症の影響ですっかり祭り袢纏の仕事は少なくなって、今はいろいろな物を試しておられるよう。祭りの幟の製作もされているようで、記念に前掛けを買ってきた。

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長野で飲み会

2023-01-12 23:19:27 | つぶやき

 久しぶりの長野泊りである。こうして長野に仕事で泊るのも数えるほどになっている。ということでコロナ禍ではあるものの、懇親会があった。20人近い懇親会であるが、実は同日に地元でも懇親会の予定があったが、会議を伴う長野での懇親会を優先した。地元での懇親会はもっと多く、30人余の懇親会(新年会)であっただろう。4月以降、こうした懇親会が何度となくあったので、コロナ禍以前と同じとは言わないまでも、ほぼそれに近い頻度の懇親会があったという印象がある。いっぽうあえて「するまでもない」という判断で、会社出先での懇親会は、総勢でも10人ほどなのに、実施されたのは忘年会唯一だった。ちぐはぐさは拭えないが、実際のところ懇親会による効果が大きいことは言うまでもない。とりわけ出先では、無駄口もたたかない業務中に懇親を深めることはできない。必要以上に行うこともないが、全くないと人となりは全くわからない。とりわけ近年入社した若い人たちとは、こちらから声掛けしないかぎり会話もなく、全くの無縁だ。

 さて、宿泊だったということもあり、2次会どころか3次会まで付き合っているうちに、近年では経験のない時間にまで達していた。何よりこの時期であるだけに来年度に向けての話が多かった。通常ならこの春には退職を迎える、わたしにとっては後輩を交えての遺留話は、2次会での主たる話題であった。彼は技術系の会社だけに社内ではそうした分野に長けた存在だった。計算能力と言う面では「顔」的存在だ。特例で定年延長してもう少し力を発揮してほしい存在だが、今のポジションは「降りる」と以前から表明していた。しかし会社での存在感が強いだけに、ほかのポジションで「残ってほしい」という遺留話であったが、「肩の荷を下ろしたい」という彼の意志は強く、結果的にわたしにとっての2次会の主たる話題になり、「3次会に」と促されるまで、彼は「うん」とは言わなかった。わたしとともに遺留話に加わっていた上(役員)の判断で相応の対応をしてもらうことを望むだけだ。

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「再変換」

2023-01-05 23:28:52 | つぶやき

 先日最近のパソコンは意図通りに文字変換候補が現れないということを記した。印象に過ぎないが、変換候補を探すためにスペースキーを何度叩いても、なかなか候補が現れないこともあれば、なかなかどころか現れずに「元に戻る」ということも珍しくない。最近パソコンを始めた人なら良いのだろうが、昔からパソコンを利用してきた者には違和感を抱くことになる。

 最近まで知らなかった(余裕がない日々を過ごしているせいなのだろうか)が、かつてのパソコンは変換確定した文字を「Ctrl」+「Backspace」キーでもとに戻して再変換できた。いつからのことか知らないが、今のパソコンでそれをやっても変換確定されたものが消滅してしまうだけ。消滅から二度と画面上に打った文字は現れない。今のパソコンの機能は違う。例えばここに記した全文をコピーしてメモ帳に貼り付ける。例えば冒頭の「先日最近のパソコンは意図通りに文字変換候補が現れない」をドラッグしてスペースキーを押すと、再変換が可能となる。ようは確定された文字をそのソフト上だけでなく、コピペした場所でも再度変換できるというわけだ。例えば直前に打った文字を長文でも記憶していて、頭文字だけ打てば同じ文が確定できる機能は、こうした記憶力からくるもの。都合良いこともあれば、不都合なこともある。いわゆるスマフォ上で文字検索する機能と、このごろのパソコンの文字変換機能が同じ土俵にあるということなのかもしれない。しかし、繰り返すが昔のパソコンの動きに慣れていた者には、「使いづらい」となるわけだ。

 世間では9割以上がパソコン上では「ローマ字変換」だという。しかし、スマフォ上では違うだろう(これもわたしがそう思っているだけでスマフォを多用しないわたしには無知な世界ではあるが)。ようは過去に捉われていると、今の機能に抵抗感を抱いてしまう(わたしはずっと「かな変換」人間である)。いろいろな機能があるだろうとは想像する。前述したように昔の癖で、急いでいると今もって「Ctrl」+「Backspace」キーを押してしまうことも…。しかし、もうずいぶん前からそんな機能はない。人間の悪習とも言えるだろうが、切り替えのできない年齢、あるいは性格もあるのだろうが、「後からなんとかなる」といういい加減さが、わたしの素性にある。果たして、これを解決できるのは余裕ができる時なのか、それとも永遠に「不可」なのか。

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神札の在り処

2023-01-03 23:45:29 | つぶやき

 年末に記した「年末年始休業」において、この休みにやらなければならないことをメモに記したと書いたのだが、その休みもお終いだ。結局いくつか完全に終わらせることができず、まったく手をつけられなかったことが1件残った。無理な計画を立てたわけではなかっのだが、どこかで自分に甘えてしまう。想定外のことが起きてしまうこともあるが、そのあたりも予測して建てた計画だったはずだ。もちろんどこかで自らに「期待」を込めた部分もあるが、現実はいつもこんな感じだ。変わり映えしない自分に落ち込んでいても仕方なく、ひとつひとつ次へと進むしかない。

 こうした現実に苛まれるたびに、「神頼みはない」と実感してきた。だから、というわけではないが、我が家はひどいもので、自治会から届けられた(最近は自治会を通して配布される)神社のお札も、何年も前のものまで、神棚にあげられず、配布されて「とりあえず」と置いておいた棚にそのままにされていて、気がつけば束になっていたということも珍しくない。我が家のある地域では氏子となっている神社が二つと、崇敬者となっている神社がひとつあって、毎年三つのお札が配布されてくる。「ありがたい」と思っていないということになるだろうか、そのまま忘れてしまうということは…。なぜそうなるかといえば、自分の意志でお札を「購入している」という印象がないからだ。したがってよそのお祭りに行って、自分の意志で手に入れてきたお札は、神棚にいまもってあがっていて、「あれはあの時にいただいてきたもの」とはっきり記憶にある。もちろん1年経てばホンヤリで焼くべきなのだろうが、思い入れがあるからそのままになっている。いっぽう地元で当たり前に配布されてくるお札には、全く思い入れがない。妻には度々「民俗やっているのに、いいの?」と言われるが、民俗を調べているからと言って信心深いわけではないし、それも「民俗」だと自ら体現している。

 週末にはホンヤリがあることから、束になっているお札は、神棚にあげられることなく、そのままお焚き上げということになる、というよりは忘れずに「持って行かなくては」と思っている。加えて年明けに配布されるだろうお札2枚、今年は忘れずに神棚にあげるようにと、今は思っている。

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区切りの年が始まる

2023-01-02 23:55:03 | つぶやき

 今年も始まった。区切りの年に向かうわけだが、何度も記している通り、きれいさっぱり整理できるか微妙だ。「あけましておめでとうございます、本年もよろしくお願いいたします」と人と会うたびに挨拶することの「面倒くささ」が性格上こたえる。前向きのなさが顔にも出てしまうのだが、正月からこのようなことを思っているのも、性格上の問題なのかも。コロナ禍で人との接触がないことへの疑問を呈しながらも、こうしたことを記す自分なのだから、コロナ禍幸いということになるのに、やはり疑問は疑問として口にする。二つの顔を持つ自分は、結局悪い性格を補うようにさまざまな接触からもう一人の自分を持ち合わせることができた要因なのだろう。

 とはいえ、歳にもかかわらず、仕事でも家でもずっとパソコンを覗いているせいなのか、視力の変化は著しい。少し前までは近視用のメガネをかけていてもキーを打てたのに、このごろはメガネの隙間からディスプレイを覗いて文字を打つことがほとんどとなった。そのため打ち間違えが多くなった。校正しないと打ったものをそのまま公開すると誤字だらけだ。このごろはここに書いているようなどうでも良いことは気にせず載せてしまうが、少し内容のあるものは、ワードへコピペして校正機能で確認した後に公開するようになった。どんどん機械頼みになっていくが、そもそも最近のパソコン、というか日本語変換機能は思うような文字に変換されなくなった。時代背景があるのかないのか、そのあたりはよくわからないが、すべてにおいてパソコンが使いづらくなりつつある。手で、指先で、全てを処理していた時代から、パソコンに全てをゆだねる時代に変わり、その両者を持ち合わせた世代。一昨年の年末に業務上のことで記したが、線を引く際のアプローチが今の若者は違うと気づいたとき、それも当たり前かと思った。そもそも手で線を引いたことがほとんどないのだから、定規を使うということもよく解っていない。自分の手先で線が引かれるのではなく、パソコン上のソフトが引いてくれる。確かにマウスに指先を託して引くのだが、かつてのように定規をあてて引くのとは全く世界が違う。世間では同じような出来事や、行為がたくさん発生しているのだろうが、気づいていないことが多い。にもかかわらず、意外に昔の人と同じような意識を持ち合わせている若者に出会うと、その背景に何があるのか、興味深く思う。そうした違和感を楽しみたいと思っているが、なかなか時間はない。

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断層に沿って崩落か

2023-01-01 23:34:14 | つぶやき

図1 ハザードマップ

 

YBCより

PressYamashinより

毎日新聞より

 「なぜ」という言葉を地元の方たちも発せられていた。山形県鶴岡市での土砂崩れ。12月の降雨量が多かったという報道はあるものの、直近で降雨が多くあったわけではない。何といっても土砂崩れを起こした背後の山がそれほど高いというわけではない。同じような背景を持つ場面は、日本中いたるところにある。例えばグーグルマップで確認してみよう。まず上空からの全容である。日本海に面した鶴岡市であるが、海岸沿いに低山帯がある。その南東側にある同市西目の水田地帯にぽつんと低い山が独立している。どうやってこの山ができたのか、不思議な山であるが、この地域にはそうした低い山が低山帯に沿って点々としている。土砂崩れ発生現場の南東側から望んでみよう。斜面がそれほど急と言う印象ではない。そして中央左手の道を挟んだ宅地まで土砂は押し寄せている。他方南西から望んでみよう。テレビの実況でよく捉えられているアングルになる。もともと山肌が見えていたことはここからはっきりするわけだが、繰り返すがそれほど高い山、崖ではない。道路まで押し寄せるという土砂崩れが発生する印象は全くない。図1は鶴岡市のハザードマップの該当箇所を捉えたもの。この図でもわかるように、青い囲いがされている範囲は、土砂災害警戒区域(がけ崩れが発生する危険性のある範囲)に当り、その範囲は道路まで達していない。想定以上に土砂が大きく崩れたといえるだう。ちなみにこのマークは避難場所を示す。このハザードマップ上では、土砂が押し寄せた場所に避難場所が指定されている。

 現場西側の県道上から望んだものがこれである。見づらいが、山肌の茶色い元々の崩落面が見えている。表層が崩れただけではこれほどの被害にはならないだろうから、かなり大きな亀裂が背面にあったと予想される。通常言われる安定勾配以上になだらかな斜面の崩壊が発生したようだ。ハザードマップの字地名に「中山前」と記載されているところから、この山を「中山」と称しているのだろうが、等高線から推定すると高さ40メートル程度の山だろうか。国土地理院の図には、その山の標高54メートルと表示されている。道路面の高さが17メートル程度だからやはり40メートル弱といったところだろう。山だらけの長野県の環境からしたら、何ともない地形であるが、そこで土砂崩壊が発生している。地質的な要因があるのだろう。ということで、公開されている地質図を探してみた。国土交通省の表層地質図を見てみよう。公開されているものは詳細がはっきりしないが、「三瀬・温海」によると、中山の南東側と北西側で地質が異なるようだ。分けているのは断層である。この断層は「中山断層」といわれているようだから、地質専門家ならすぐにこの崩壊を解いているのかもしれないが、そこまで今回わたしは調べていない。南東側は泥岩主体の砂岩、礫岩という。いっぽう北西側は凝灰質泥岩・砂岩・礫岩のようだ。日本海に沿って低山帯が出来上がったのも、この断層の影響なのだろう。断層に沿って南東側が崩壊した、という私見である。

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50歳未婚率のはなし

2022-12-30 12:18:09 | つぶやき

 本日の信濃毎日新聞に「50歳未婚率急上昇」という記事が掲載された。その値は男性゜28.25パーセント、女性17.81パーセントという。この未婚率に関する報道は、国立社会保障・人口問題研究所が2020年の国勢調査をもとに算出したもので、本年の7月に既に日本経済新聞で報道されていたものである。

 例年に比べると少し早めではあるが、昨日年賀状を書いた。書きながら感じたことは、未婚者への宛名を書いている際に危惧感が漂ったこと。50歳を過ぎればもう結婚が将来的にあるとは予想つかない。まだ50歳に到達していない宛名をいくつも書くが、この先を考えれば「難しいのか」と考える。そう思いながら今日の報道を読んでいて思うのは、3割近い男性の未婚率に驚きを覚える。いくら未婚者が多いと言えど、3割という印象はない。「未婚」ということは離婚された方たちは該当しない。そう考えるとこの比率はかなり高い。この未婚率、今回の公表で跳ね上がったという。この公表値は2020年の国勢調査をもとに算出したもので、5年に一度のもの。10年前は2割程度だったというから、この10年で1割近く上がっている。同じことは女性にも言えるようだが、その差に1割の差があるということの説明はない。ちなみに1990年には男性5.57パーセント、女性4.33パーセントだったという。2020年に算出方法が変わったと言うから、単純比較はできないと述べているが、女性は200年まで一桁代だったという。女性の就業率の高まりが原因ともいうが、もともと「一人前」の基準に「結婚」という見方があった。いまやそうした見方は「差別」と指摘され、さらには個人情報保護の観点から、既婚、未婚を口にすることもはばかれるようになった。「まだ結婚しないの」などという言葉が頻繁に飛び交った時代は過去のもの。「結婚」を世間話に遡上させるのも蔑視の観点から安易に口にできない。結婚を促す世間がかつてはあったが、今はタブー的な雰囲気さえある。裏を返せば「結婚」に縛られる必要もなく、生きやすいといわれれば、そうかもしれない。そもそも「彼は(彼女は)、結婚しているのだろうか」などと想像することはあるが、あえて聞くこともできなくなった。これでは、若い世代においても相手を探しづらくなっている、と言えるのかもしれない。

 世話をしてくれればできたものが、「できなくなっている」という例もあるのだろう。けして「したくない」わけではなくても、「できない」環境が、今の世の中には当たり前に漂っている。

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年末年始休業

2022-12-29 23:45:06 | つぶやき

 それほど前のことではない、つい先日考えていて「こんなことをやっていたんだ」と知って「調べたい」と思っていたことが、どこで聞いたことだったか思い出せない。こんなことがけっこう頻繁だ。「痴ほうなのか」と心配してしまうが、年老いた証拠と言えば、そうなのかもしれない。が、せっかく考えていたことが「飛んでしまう」ことで、苛立ちやら、情けなさやら、そうした心意的な落ち込みに繋がる。それを解消するためにも「メモ」なのだろうが、きっとそのうちに「メモしたこと」も忘れてしまう、あるいはどこにメモしたかを思い出せなくなるのかもしれない。残念な現状であるが、とはいえ、では昔の自分はどうだったかと思い出せば、メモもしなければ、思ったことを「記憶にとどめておこう」とも思わなかった。忘れてもさほど「大きなことではない」と捉えていたのかもしれないが、繰り返すがこの心持ちが、蓄積の薄さを露呈している。昔から今ほど思ったことを「残そう」と思っていたら、たくさんの記録が残っただろう。そういう意味では、記憶のどこかに残っていさえすれば、すぐに検索できるこの日記を始めたことは「大きい」。とりあえず2005年の夏から、おおよその記録は残されている。もちろん何を記したかの記憶は、これほど長いとほとんど「無い」に等しいが…。

 とりあえず行き当たりばったりの性格だから、考えている処理量がこなせないといけないと考えて、当面の「やらなくてはいけないこと」を細かいところまで書き上げてみた。それをこの年末年始の休みに当てはめてみたら、とても濃密な年末年始になった。こんな年の瀬は初めて、いや昔もあったのかもしれないが、あえてメモ帳の予定に書き入れたことがなかっただけかもしれない。以前は年末と言えば、掃除をして、綺麗になって新年を迎えるという「意識」があったが、今やそんな考えは少しも浮かばない。とりあえず仕事始めまでに「これだけはしておかなければ」という思いに追われた。変わりがしないが、思いだけでは達成できないと思い、日々処理するべく事項を予定に書き入れたというわけだ。

 残念ながら、コロナの波は消えることなく、「子供会主催のホンヤリは中止になりました」というローカル放送が遠くに聞こえた。相も変わらず自粛の流れは止まず、いっぽうでふだんに近い生活は戻っている。ちぐはぐな日々は、いまもって継続中であるが、とりわけ足元の地域の交流は激減したままだ。これがけっこうわたし的には応える。毎月の日課となっている原稿ネタに困るのだ。もう3年、あと何年?、などと予想もつかぬ中で模索する時間の無駄さに、ひとり言を吐いているばかり。

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令和4年を振り返り

2022-12-28 23:50:14 | つぶやき

 今年は10月まで欠かさず毎日日記を綴ってきたのに、11月に入ってから空白日が続くようになった。後日「埋め合わせ」も効かなくなり、諦めてしまっているが、書き込む予定で書き込んでいないものもあるので、思い出せれば年越しでも「埋め合わせ」を「したい」とは思っているが、果たして……。

 ということで、少し今年を振り返ってみよう。

 コロナ禍であることに変わりない。気管支系に弱点のあるわたしには、マスク生活は応える。できればマスクのない世界に戻ってほしいが、とりわけもともとマスクを掛ける傾向のあった日本では、容易にはノーマスク環境に戻らないのは確実だ。コロナ渦中にマスク不足になった社会背景は、そう考えるととても滑稽だった。いまだわたしの身近では、地域行事の自粛は変わっていない。おそらくこのまま多くの行事が消滅しかねない雰囲気さえ漂う。たまたまサラリーマンは会社に通い、会社のために交流を持たざるを得ないが、そうでもなければ人との交流は容易ではなくなった。社会を退いた人たちには、きっとつらい時代に違いないし、それを当たり前と思うようになった時、わたしたちは多くの事象を失うのかもしれない。

 こうした状況下では、止まったままの課題が続出している。処理しようと思っても世間が動かなければ「何もできない」ということも多い。安曇野市誌編さんに関わるようになってすでに2年を経た。しかし、会議は重ねられたが、調査はいまだ皆無に近い。それでいて「原稿提出」と迫られるのだから、話にならない。最近伊那市誌にもかかわるようになった。あくまでも「側面支援」と当初言われたわたしの立場からすれば、気に留めることもないだろうが、「これで本当にできるのか」と思うことが多く、とりあえず自分に課せられたことだけ処理するしかないのが現実だ。先ごろも記したが、この手の「仕事」(会社の人たちには「趣味」と言われるが、「仕事」である)は会議出席の手当はいただけるが、自宅で検討する手間暇に手当てはない。そこに時間を掛けるだけボランティアが増幅していくというわけで、明らかに趣味ではない。捉え方であって、そうした「経験」から得るものをもって「得」と思うしかない。

 コロナ禍にあって御柱年であった。地元の御柱は一般人の参加はもちろん、見学も自粛された。いっぽう他地域の御柱では、ある程度例年に近い形で実施されたものも多い。コロナ禍の捉え方も、平常化する過程で地域差を生んできたと言える。その意識の背景には何があるのか、その理由にも民俗があるのかもしれない。行動制限のない正月を3年ぶりに迎えるなかで、来年がどのようになるのか、平穏であってほしいのは言うまでもない。

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人手不足

2022-12-26 23:39:23 | つぶやき

 会社の来年度に向けて課題を話し合う飲み会があった。たまたま飲み会ではあるが、打合せ会と言った方が正しいだろうか。

 聞くところによれば、今年度末で辞める若者はもちろん、中堅やベテランもいるという。近年若者が数年で退職に至る例が多い。「耐える」というのは若者には苦痛なのだろう、「昔はこうだった」などという事例を口にする時代ではない。口にしただけで若者にとっては「押しつけ」になるのだろう。当たり前だが、一人前に働かないと一人前と認められない。私的には「昔ほどではない」と思うものの、今もって業務量の多さに疑問視する声が多い。それでいて業務量に照らし合わせて人員を配置する(これも当たり前だろうが)から、一人前でない人員を配置される出先は、文句が多い。そこで登場するのがこれまでの人員配置に対する計算式への修正議論だ。とりわけ若者を入社1年から一人前に勘定することへの修正論だ。

 冷静さに欠ける、わたしにはそう思う。そもそも中間層の薄いわが社は、彼らが若かった時代に首切りをして人員削減を図った。採算が取れないと予測されたから当たり前のことだったが、そのせいで中間層は多々悩んだだろう。中間層に限らない、高齢層も同じだ。しかし、居残った社員は苦労したが、仕事を背負う経験はした。大きくない会社だから、一人ひとりがそれなりに悩んだ末にたどりついた考え方があって当然だ。したがって、あれから20年近くを経て、経験値は業務上でも大きく役立っているはず。ようは昔にくらべたら、環境を十二分に利用すれば、現在「一人前」として捉えている業務は、容易に処理できるはず。それでもできない背景には、新たな課題があるはず。ようは若者が一人前の仕事ができなかったのは、昔も同じである。経験することによって業務の処理能力が上がるわけで、個人差はあっても、いずれ一人前になる時がある。それを数値化するとなれば、結果的に「押しつけ」感は増幅する。

 いまだ年功序列の給与体系であることに変わりない。にもかかわらず若者は一人前に仕事ができないから、と数値化するのであれば、給与も出来高払いにしなければ、整合しない。そして若者が努力しなくなる。あくまでも将来を見据えた育成が年功序列の背景にはある。

 さて、若者だけならいざ知らず、薄い中堅層などそうした経験値を持った人材にも退職者が少なからずみられる今、若者への視線だけではなく、働きやすい環境づくりが急がれる。しかし、なにより人員確保できない今、世間同様に「できない」というお客さんへの回答も致し方ないのかもしれない。もはや社会構造問題である。

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近ごろ「寒い」

2022-12-23 23:32:53 | つぶやき

 寒くなってきてけっこう身に沁みる。歳のせいだろうか。年末になり、残すところ数日となってきた。気がつけば冬至になり、そしてクリスマスだと世間は言う。我が家は珍しく、冬至にカボチャが食卓にあがらなかった。そこそこそうした意識の高い妻にしては珍しかったが、昨夜風呂に入ろうとすると、蓋の上に柚子がいくつか並べられていて、気がついた。「冬至だから」と。ということで柚子湯に浸かったわけだが、とはいえ、世間は凍てつくいている。

 年末もそうだが、年度末も年が開けるとすぐにやってくる。もはやわたしにとっては繰り返しの年度末だが、もう「お終いの」年度末も近い。「始末をしなくては」と思いながら続けられてきた「みっともない」姿がそこにある。性格と言えば性格だが、きりをつけなくてはならない。

 そう思いながらあらためてこれまでを振り返ると、わたしを創り上げた原点は、やはり北の県境域に身を置いた若いころにある。社会を知り、一人前を知り、そして葛藤しながら若い時代を経た。いまのような意識が、あのころからあったら、まったくわたしの今は違っていたかもしれないが、それが「年齢を重ねた」ということなのだろう。誰もが同じように若いころを振り返るのだろう。とはいえ、世間には若くしてリーダー的存在になれる人もいるし、年齢を重ねた人間より「多くを語る」人はたくさんいる。きっとそうした人たちは、わたしがそう感じたように、若いころから年齢を重ねた人の意識がどこかに備わっていたのかもしれない。いかにしたらそうした人が育てられるのか、知りたいところだが、万人には到底たどり着けないものなのだろう。

 紆余曲折、そして葛藤、そうした重なりがあって今がある自分を思い、さらにはそこへライフワークが多様性を重ねてくれた。会社での考え方にも、十二分にそれは影響している。そしてその原点も、北の果てで葛藤した数年が礎となっている。終末期をどのように括るのか、わたしに課せられた残されたわずかな時間への宿題だ。もはや宿題は限られた時間の中では消化できないかもしれないが、後味の悪いものにしてはならないとは考えている。

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昭和13年(1938)12月7日のある紙面

2022-12-18 23:41:08 | つぶやき

 

 ある家を訪れ、古い時代のものを調べていた。それらを包むように使われていた新聞は、昭和60年ころのものだったが、衣装を納めていた木箱の底に敷かれていた新聞は、それら新聞と変色具合はそっくりだったので、同じ時代の新聞かと思って確認してみると、戦前の新聞であった。表題には「新愛知」とあり、1888年(明治21年)創刊の日刊新聞で現在の中日新聞であった。実は昭和60年ころの新聞も「中日新聞」であって、その家では大昔から中日新聞を購読していたことがわかる。

 新聞は昭和13年(1938)12月7日のもの。9面右上には「両軍メンバー交換」という見出しが見え、金鯱対名古屋のプロ野球戦の結果が掲載されている。「金鯱」は「名古屋金鯱軍」といって昭和11年(1936)から同15年(1940)まで存在していたチーム。いっぽう「名古屋」は現在の中日にあたる。かつては野球のチームを「軍」と呼んでいたことがわかるが、いまもって「巨人軍」と称しているのも当時の名残なのだろうが、さすがに「軍」と呼んでいるのは巨人だけのこと。記事上位にスポーツ関係の記事が並ぶことからスポーツ記事専用の紙面かと思うとそうでもなく、朝比奈策太郎の「訪獨の旅を終えて」という紀行文や軍事の記事も掲載されている。

 9面の裏側、ようは10面は一面広告である。『キング』新年号の広告であるが、『キング』は大正13年(1924)11月に創刊して雑誌で、昭和32年(1957)に廃刊したもの。大日本雄辯會講談社(現在の講談社)の看板雑誌であるとともに、日本出版史上初めて発行部数100万部を突破した国民的雑誌だという。定価80銭と記されている。大きな見出しには「最新世界大地圖」とあり、付録として世界地図が付いていたようで「畳一枚にも近い豪華地圖」と宣伝している。当時は満州国が存在しており、「支那全土並に付近大地圖」について「支那全土を中心に満州国、ソ聯、印度、佛領印度支那等東洋の大勢明示」と解説している。小説がたくさん掲載されているようで、「菊池寛の「海軍武士道」と「愛憎の書」という小説や、吉川英治の「魔粧佛身」という小説のタイトルが見える。

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あれから2年

2022-12-13 23:41:39 | つぶやき

 

 シロが肺水腫を患って「もうダメかも」と思ったのは2年前の11月末だった。危篤状態だったからそれほど長くは生きられない、とも思った。当時のことは「シロの肺水腫」に記した。

 あれからまる2年が過ぎた。かつてのようなはつらつさはないが、今も元気だ。とはいえ獣医さんには「よく頑張っているね」と、常に心配な言葉をいただく。もちろん歳も嵩んでいるからいつまでも昔のようなわけにはいかないが、ふだんの見た目は心配はいらないほど元気。本当によく頑張ったし、この後も長く頑張ってほしい。それほど我が家でのシロの存在は大きい。

 妻にとっては親の介護が終わった後にも、シロの介護が「待っていた」というほど、シロは妻にべったりだ。食事は食べさせないと口にしない。おかげでこのごろは、寝床に入らず、こたつ周りで寝入ることしばしば。そして妻とともに毎日妻の実家通い。我が家に帰って来ると、わたしの横に来てはスリスリである。相変わらずわたしのお腹に乗るのが大好きである。

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