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ハリソンさんはカノ紳士 ーフランス通過編 ー(後半)

今は昔の18世紀欧州が舞台の歴史大河ロマン。

セルデンの中国地図に興味津々

2021年12月06日 | 各話末エッセイ
【各話末エッセイ③−2】


 カナダの歴史学者・中国学者
ティモシー・ブルック氏の著作
「セルデンの中国地図」という本によると、
ジョン・セルデンは英国サセックス州出身。
法律学者として頭角を現し、
かのグロティウスとは良きライバル同士だったようです。
 
 著書に「十分の一税の歴史」「閉鎖海論」があり、
「十分の一税の歴史」では、
国王ジェイムズ1世から尋問され、軽い罰を受けます。
そしてこの書物は禁書となってしまうのでした。

 法律畑での活躍の他にも下院議員の経験があり、
投獄もされ、東洋研究もしていたそうです。
そんな彼がある時、現在でも謎の多い中国地図をどこからか手に入れ、後に「ハリポタ」で有名になるボドリアン図書館へと死後寄贈しました。
その地図の謎を解き明かすというのが
「セルデンの中国地図」の主旨です。

 ジョン・セルデン氏の肖像画2枚が、
冒頭カラー資料ページにありました。
「日本人でもこういう顔の人いるよな」という顔立ちで、

▶ 若い頃は 痩せてる(霜降り明星のせいや+濱田岳)÷2
▶ 晩年は役所広司似

そういう人物が栗色のゆるふわ・前髪ぱっつんのセミロングの髪型してるといった所でしょうか?

それでも、真面目そうな雰囲気は相当漂わせていました。

 なので、私の「不真面目な人だったのでは?」という印象は大外れだったのです。
「セルデンの中国地図」にも冷静沈着な人だったと書かれていました。
きっと「卓上談」も報復の原則を説明するための硬めの文章だったんでしょう。

 セルデン氏の持っていた中国地図は、
日本史とも無関係ではないようです。

 「セルデンの中国地図」には
戦国末期〜江戸幕府が鎖国を始めた頃の日本が
海外とどのような関係を結んでいたのかも書かれています。
あの三浦按針も登場しています。

 驚くのは、日本の地名が当時の外国からは
何て呼ばれていたかが分かる所です。

 この本を読むと、ジョン・セルデンはローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」よりも
ジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」や、
ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」の方に縁がありそうです。


 「ガリバーが日本に上陸したのが、本当に神奈川県三浦半島の観音崎からだったのか?お隣の静岡県伊豆半島下田の爪木崎なんじゃないの?」という疑問すら湧いて来るのでした。(観音崎の「ガリバー祭り」には行ってみたいんですが…)

 あとこの本には、ヨーロッパにおける中国の孔子受容の歴史も書かれています。
「トリストラム・シャンディ」の中で〈孔子〉は
「話を難しくして訳を分から無くする人」という意味で使われているのですが、
「何でこの人が孔子を知ってんの?」
と思うほどの異様さです。

 中国布教に向かい、孔子の教えと出会ったイエズス会宣教師達が、17世紀に儒教経典を翻訳・出版していて、
ヨーロッパ諸国の貿易での東洋進出と相まって、
人々の東洋への関心を掻き立てたという歴史があったからのようです。

 それにしても、鹿児島県の古名「薩摩」は、
セルデン地図では「殺身」なんて書かれてあるのでした。
著者は〈ノストラダムス超絶解釈第一人者と称えられる川尻徹博士ばりの〉暗号解読みたいな事をしていましたが、
日本人からすると「そのままでも、ただの訛なんだって事でOK」なんじゃないかと思えちゃいます。
「幕末〜明治初期に20世紀末の暴走族のセンスを持つ事ができた反薩摩派の人」が使いそうな漢字だけど。

 平戸を意味する「魚鱗島」も
著者は色々考察していますが、
やはり日本人からすると、オランダかホランドが
地図製作者でニホン語少シワカルアルヨな中国人には「ウォリンド」か「ウォリン」と聞こえ、
『「うおりん 🐟(何かカワイイぞ!) 」(の人達)が住んでいる島』→オランダ島(勝手に別名付けられてた?!)って意味に、テケトーに漢字当てはめて
平戸島って事にしてたんじゃないの?って思えてしまいます。

 「十分の一税の歴史」
日本でもこのタイトルで本書いてくれる人いないかな〜?
日本の場合では現在の消費税の事なんだよね?
そもそも消費税の始まりから書き起こしてほしい!



ジョン・セルデンって、どんな人だったのだろう?

2021年12月05日 | 各話末エッセイ



【各話末エッセイ③−1】


 ジョン・セルデン(1584〜1654)という人物、
「トリストラム・シャンディ」4巻29章で、ただ一度だけ
名前が出て来ます。

 シャンディ家滅亡の要因が付け足されて行く中、
取り消せる知恵は無いのか?
ウォルターとトゥビー兄弟は識者達が参加する
とある宴会に出席して意見を聞こうとします。

 しかし、識者達の意見は的外れのまま。
話題は法律方面へと流れて行きます。
遂には親子間の血縁関係についての激論となり、

「近過ぎる親等間での婚姻は自然の掟では許される」
「故に自分の祖母との間に子を産ませる事も可能だ」
「その子供が女児の場合、父親にとっては娘でもあれば母でもある」

…と、こんな仰天発言をする者まで出て来るのでした。

 これに対し、
「そんな事を実行する者がいるものか!」と、
当然ながら否定の叫びを上げる者がいました。

 そこへ ▲ 上記の如く、物語の主要人物の一人のヨリック牧師が加わり、最終爆弾をぶち込んで終会へと一気に導いてしまいます。

 祖母との不適切な関係が父に露見した若い男性が、

“ You lay'd, Sir, with my mother, said the ladーwhy may not I lay yours? ”

と言ったという話が、セルデンの書いた本の中にあったそうなのです。

〈近親相関がバレた息子がトンデモ理屈で父親を言い負かす〉のは、中世艶話集(ハリソンさんが22話9ページ目で力説する所の「巷談集」)あるあるパターンのようで、
第24話「悲運の商人アントニオと20個の卵の物語」の元になったフランコ・サケッティ作の「巷談集」中にもあります。もっともこちらの若者の相手は継母でしたが。

 こういう内容が内容なだけに、
セルデンという人物も、件の話があるという「卓上談」も、
とうてい真面目なものでは無かろうと思っていたのですが――。

 


 

ALWAYS 賛否両論?!〜ジェンナーの天然痘ワクチンもそうだった〜

2021年09月02日 | 各話末エッセイ
【各話末エッセイ②の2】


 18世紀にはぺストよりも天然痘が恐れられていた
ように見えます。

 天然痘自体は太古の時代からあったらしく、
患者の膿やかさぶたから取れた汁を
切り傷に塗る人痘種痘が紀元前から
行われていたようです。

 1720年〜22年の間、デフォーが恐れたぺスト流行は
ありませんでしたが、21年に天然痘が大流行し、
英国では最初の人痘種痘が行われました。
現在コロナのワクチンで死亡者が出る可能性が
問題になっていますが、
人痘種痘の致死率は約2%だったとの事です。

 その上、大変な高額で、
物語の頃には、現在の日本の金額に換算すると、
一人20万円もかかりました。
当然ながら現代日本のような健康保険制度は無いので、
実費払いです。
そして、医者は儲けのために
施術方法を秘密にしていました。

 この物語が完結するのと同じ1768年の英国では、
国民の約半数が罹患し、
約20%が亡くなっている状況でした。
そんな時代に医学の修行をしていたジェンナー。
皮膚の化膿を治療に来た乳搾りの女性から
「自分は牛痘に何度も罹っているので天然痘ではない」
と言われ、牛痘に興味を持ち始めます。

 その後ジェンナーはドリトル先生のモデルになった人物の
元で更に学び、生まれ故郷に戻って内科・外科兼任の
診療を行っていました。

 1778年にジェンナーは、牛痘の病歴がある女性に
人痘種痘をし、天然痘の発病が無い事を確かめました。
「牛痘になった人は天然痘にならない」という
データ収集も行います。
実験も繰り返され、牛痘種痘は人痘種痘より安全との
結論が出ました。

 ジェンナー本人の広報活動や、
低所得家庭の子供への無料接種の働きもあり、
ワクチン接種が広まって行きました。
19世紀初頭には、英国全土で10万人以上が
ワクチン接種を受け、陸軍や海軍でも、
今で言う所の職域接種が行われていました。

 それでも、18世紀末のヨーロッパでは毎年約40万人が
天然痘で死亡していたといいます。
こちらのワクチンでも効果に疑問を呈する人がいました。
政府の強力な「ワクチン推し」への反対・拒否運動も起こり、ジェンナー個人への批判も含めて20世紀まで続いたそうです。
 
 19世紀に種痘は、ナショナリズムの高まりも越えて
世界中に広まって行き、幕末日本にも入って来ました。
一方で病原菌も、しぶとく生き残り広がり続けて、
根絶宣言が出たのは1980年の事。
ジェンナーが病気消滅を予言してから
200年が経って
いました。

 前回の話に戻りますが、
デフォーの本によると、伝染病終息の兆しは
死亡者数が減り、療養者の回復速度が上がる時
だとの事で、
主人公は、これを
「神の全能の力による御業(みわざ)」と呼んでいます。
17世紀には、こう思うしかなかったのでしょう。


第24話「悲運の商人アントニオと20個の卵の物語」
は9月7日(火)より開始の予定です。




疫病禍の市中各所に出没する「ロビンソン・クルーソー」作者親戚

2021年08月25日 | 各話末エッセイ
【各話末エッセイ②の1】


 あまりにも有名なダニエル・デフォー作
「ロビンソン・クルーソー」。
それがあまりにも有名すぎて、
同じ作者が他の小説や政治・報道関係の文章も
沢山書いているのに、案外知られていないようです。

 そんな中でも1665年の英国を舞台に書いた、
ペストについての作品は、コロナ禍によって、
カミュ作の「ペスト」と共に注目されるようになりました。

 昨年秋にはNHK の「100分 de 名著」で
4週に渡り紹介され、番組内でも言われていたのですが、
当時の人々がペスト蔓延下で取った行動が、
現代コロナ禍真っ只中の人々と一々ソックリなのです。

 現在、医療機関が逼迫し、自宅療養中の死亡者の続出が問題になっています。
ペスト禍当時のロンドンでは、法令により感染者の出た家を
「監視人付きの家屋封鎖」にしていました。
感染者の家族も共に閉じ込められ、同じ病に感染して
〈大勢の人々が悲惨な監禁状態で死んでいった〉
とあります。

 また、

●飲食店・娯楽施設の取り締まり
●罹患した人が焼けっぱちになって取った行動
●町から逃げ出す富裕層
●職を失う人々
●人間不信
●危険と隣り合わせの買い物
●好転の兆しに浮かれて次の伝染の波を招いてしまう人々

等、「これ、今回もあったな」と思ってしまうような事が、
日本では4代将軍徳川家綱が治めていたのと
同じ頃の英国で次々と起こるのです。

 時の行政が、その当時にできる事を必死にしていたが、
人々が従わなかったり、効果が上がらなかったり
しているのも似ています。
そんな中でも、自発的に助け合う人達が当時もいた
という事が、この淀んだ雰囲気の作品中でも清涼感を放って
いるのでした。

 個人的に気になったのは、
占い師や予言者が現れ、ニセ医者は怪しい薬を売ったり治療を施したという箇所。
 護符もあったらしく、あの
「アブラカダブラ」ABRACADABRA
の文字をピラミッド型に並べた物
が効くとされていた
らしいのです。
これって、こういう風に使えるんだ。
そして…当時もやっぱり詐欺を働く人々がいたようです。

 病状が急激に悪化して死亡する人が、
やはりいたそうですが、今まだコロナで出ているとは聞かない、
無症状のまま最後まで気付かず突然死する人
がいたとの事で、
このタイプが今後の変位株で出て来たら、
もう最恐・最凶でしょう。

 疫病終息後の人々の心のケアの問題も出て来るだろう
という事も書かれていました。

 全編の語り手はデフォーの父の兄が
モデルと言われているらしく、
この人が見聞した事という設定で描かれています。
様々な場所に出没し、様々な人達と話をするのですが、
主人公格だけあって(!)最後まで生き残ります。

 翌年ロンドンは浄化の如き大火に見舞われ、
町の大半が焼け落ちてしまいます。
再建された町は以前とは全く違う姿に生まれ変わりました。

 NHK の番組にはデフォーのこの作品の新訳
「ペストの記憶」を出した方、
武田将明氏が出演していました。
私がよく行く図書館にもありましたが、
実はまだ借りて読んでいません。
 家には栗本慎一郎氏が訳した本があり、
これは全訳ではありませんが読了しています。
こちらは図書館の蔵書で一定期間が経った物を
無料で来館者に譲渡するサービスで入手しました。
なので背の部分にシールがあります。

 NHK のテキストは本屋で気になって購入したのですが、
終わりの方に英国18世紀文学の翻訳シリーズ本
(「ペストの記憶」はその中の第3巻)の広告が
掲載されていました。
…そこには、この漫画の前編で活躍していた、
ウォルポールさん(後編では出番ないかも)の
モデルになった人物が書いた小説が、
「オトラント城」のタイトルで入っていたのです。

 ぺストは18世紀にも発生しました。
1720年のマルセイユでの発生がきっかけとなり、
デフォーが1722年にペストについての書を執筆したのでした。

 デフォーの危機感は杞憂に終わりましたが、
英国の政財界では大事件が起こりました。
株価が大暴落してバブルが崩壊、
後始末のためにウォルポールさんのお父上が大奮闘。
世界初の総理大臣が誕生したのです。

 その他の大事件といえば、イースター島が発見され、
モアイ像がミステリー界デビューを果たしたのでした!

 デフォーの書はフィクションとノンフィクションが
取り混ぜてありますが、「ピープス氏の日記」は
実在の人物が書いたリアル日記です。
 この中にもペスト禍での日々の生活が描かれていますが、
こういう状況下でも幸運に恵まれる人はいるものです。
彼の貯金は、この期間に増え続け、
その後、サミュエル・ピープス氏は海軍大臣にまで
出世するのです。
そして、19世紀になるまで解読者が現れないような
謎の暗号文日記を残して18世紀の初めに世を去りました。

小説「緩慢の発見」主人公ジョン・フランクリン隊長のモデルなのかシンクロなのか?

2019年07月15日 | 各話末エッセイ
【各話末エッセイ①】


 18世紀の歴史上の人物でフランクリンといえば、
アメリカ合衆国独立にも貢献した
ベンジャミン・フランクリン氏(1706-90)が
一番有名ではないでしょうか?

 ところが、18世紀生まれという点では、
もう一人有名なフランクリンがいました。
こちらは英国海軍指揮官サ―・ジョン・フランクリン
(1786-1847)。


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 少年時代に海軍入隊。
ナポレオンの脅威去りし後は、北極方面の探検へと幾度も出かけた。
1845年出発の探検を最後に消息を絶ち、
14年後、1847年6月11日に病死した事が捜索隊により確認された。
同行した隊員達も極寒の地で全滅した事が分かった。
彼らが「生き延びる最終手段として死亡隊員を食べた」事も明らかとなり、
探検史上最も衝撃的な結末として語り継がれている。
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 この人物を主人公にした小説に「緩慢の発見」という作品があり、
作者はドイツ人のシュテン・ナドルニー氏。

 この小説内で、2回目の極地探検時のエピソード。
何と、フランクリン隊長は「トリストラム・シャンディ」の
トゥビー叔父さんと「ソックリ言動」をしていたのです!

 意外な事に、北極圏以北でも虫は生息し、越冬もする。
蝶が壁に貼り付き、過酷な冬を耐え忍ぶ姿が、
アラスカ在住者が書いている本で描かれている。
蚊もちゃんといて、大群で行く手を遮ったりもする。

 フランクリン隊長は、蚊に刺されても、軽く息をかけて飛ばし、

「この世界には、私達のどちらも生きて行くだけの場所は充分にある」

と言っていたのです。

 一方、トゥビー叔父さんのお言葉。

Go.
I'll not hurt thee.
I'll not hurt a hair of thy head.
Go poor Devil,get thee gone,why should I hurt thee?
This world surely is wide enough to hold both thee and me.

 食事中、自分の顔の周りで飛び回る蠅を捕まえ、
上記の台詞を言いながら、窓から逃がした出来事が、
叔父は勇気があり、平和を望む温和さも兼ね備えていたという、
甥のトリストラムの証言として、
第2巻第12章中で語られているのでした。

 フランクリン隊長についても、
同じような性質の持ち主だったと想像できる描写が、
「緩慢の発見」中に何箇所かあります。

 そして、トゥビー叔父さんには、トリムという忠実な召使いがいました。
フランクリン隊長には、若い頃に可愛がっていた雄猫がいたのですが、
名前がトリムでした。

 そんな所から、
「『緩慢の発見』作者は、ひょっとして、
トゥビー叔父さんをキャラ造形の参考にしたのでは?」
という考えが、私の頭に浮かんだくらいなのです。

 ところが、二人にはハッキリとした違いというのもあって、
それは、二人の婚姻・女性経験歴でした。

 トゥビー叔父さんは生涯独身率100パーセント。
一方、フランクリン隊長は2婚が成立しています。
小説中では専門職の方々がいる場所へも遠征しているのでした。

 トゥビー叔父さんには、17世紀末に参加した戦闘に伴う婦女暴行の描写は無く、
婚姻不成立となったウォドマン夫人や兄嫁のエリザベス義姉さんとすら、
必要最低限の会話しかしておりません。

 そこんとこを抜かせば、二人とも将校の階級を持つ軍人ながら、
傍から見れば愚鈍にすら見られかねないくらいの、
のんびりした雰囲気を共通して漂わせています。

 そんな所から、私の上記の説が出て来たのですが、
真相は分かりません。
単に偶然の一致、「シンクロニシティ」なのかもしれません。

 比較文学を専門とする方に、おまかせするか、
直接ナドルニー氏に問い合わせるしかありません。
しかし、私がそうできる程度のドイツ語を習得してる間に、
両名とも「緩慢な死」を迎えている可能性が高いです。

 ところで、「緩慢の発見」の方では、フランクリン隊長の
続きの言葉がありました。

「虫は食べる事も、打ち負かす事もできないからね」

 極地探検には白熊・狼などの脅威があり、
現代の探検家・角幡唯介氏の極地探検記にも出てきます。
そういった経験からフランクリン隊長は、こういう言葉を続けたのでしょう。

 そして、それを聞いた若い隊員の一人が、こう呟きました。

「あれほどのろまじゃ、蚊一匹殺せやしないさ!」

 スターン師は基本、意地悪・冷酷な人、そして残酷な場面は描けなかったのね〜。