夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

コンサートからの逃亡

2006-09-24 | music
 広く知られているようにビートルズは日本公演の少し後にコンサート活動をやめてしまいました。その理由は本人たちを含めていろいろな証言がありますが、客観的に言えばコンサートでは実現できないような音楽作りをするように進化したからだと思います。実際、日本公演の少し前にリリースされた「リヴォルヴァー」には実験的な手法が多く使われていて、舞台では再現できないような曲が含まれています。ファンにとっては生の演奏こそが最高と思ってしまうのは無理からぬところがありますが、実際にはコンサートは一種の重荷に過ぎず、思う存分に様々な試みのできるスタジオでこそ彼らの創造力は羽ばたいたのです。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を始めとする考え抜かれながら自由な発想を持った音楽を聴くと多くの人は「今でも新しい」と感じるでしょう。しかし、それは我々がビートルズの創り上げた音楽の枠組みを超えていないことを示しているだけなのかもしれません。もし将来、本当の意味でポップスの新しい時代を切り開く才能が現れたときになって、初めて「ビートルズはもう古い」と言えるようになるでしょう。しかし、それはたぶんコンサート会場からではなく、スタジオかあるいはコンピュータの中から現れると私は思います。……

 さて、私が書いてきたのはビートルズだけのことではありません。グレン・グールドについてもほとんどそのまま当てはまるでしょう。ところが、ビートルズ以上にグールドについてはコンサートからのリタイアがその特徴として語られてきましたが、彼のちょっと変わった性格で説明されてきた面が強いように思います。しかし、私はこれは歴史的な必然のような気がします。

 ベンヤミン(Walter Benjamin 1892-1940)は1930年代に「複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは作品のアウラである」であると言っています。Auraは彼によれば「オリジナルな作品がもつ崇高な、一回きりのもの、あるいは得体の知れないもの」だそうですが、まあ「本物のありがたみ」だと私は思っています。日常生活でも「あたし今、オーラが出てる!」って使いますけどw。彼は写真や映画産業が隆盛する一方で、絵画や舞台芸術が衰退するのを見てそう言ったみたいですが、実は近代絵画の展開は写真技術の発明・発達と深く関係しているんですね。すごく大ざっぱに言うと肖像画を描くことで食べていた画家が1830年代に開発された写真によって食えなくなった。だから、モネやルノワールらの印象派みたいに写真では捉えきれないそこはかとない一瞬を描くようになった。ところが、写真は単なる(個人の顔といった)記録から逆に印象派の絵画に学んで、一瞬の美をも捉えられるようになった。つまり写真も芸術になろうとした。じゃ、じゃあってことでセザンヌやゴッホらのPost-Impressionism(これを後期印象派と訳すのはポストモダンを後期現代と訳すのと同じくらい間違いですw)は絵画を絵画として構成しようとし、さらにキュビスムなどなどにつながっていくんですが、あっさり言ってしまえば「どうだ? これなら写真にできないだろ?」ってことだったような気がします。ついでに言ってしまうと、今名前を挙げた画家の多くに大きな影響を与えた浮世絵版画もこれまた複製技術による芸術なんですね。……

 音楽について言うとエジソンが錫箔の円筒式蓄音機を発明したのが1877年で、1897年に亡くなったブラームスの演奏が(声も)残っています。写真もご覧のように残っていますが、音楽室でもCDのジャケットでも肖像画の方がなじみがありますね。ちょっと脇道に逸れて言うと、これはブラームスの作風が古いと言うか、時代遅れだからでしょう。例えば彼の第1シンフォニーって1876年に完成したんですが、この頃ってもうベルリオーズもメンデルスゾーンもショパンもシューマンもみーんな亡くなってて、めちゃ遅咲きのブルックナーでさえ第4シンフォニーまで書いてて、ヴァーグナーの「ニーベルングの指輪」の全曲が初演された年ですよ。

 それはともかく、音楽の歴史において蓄音機、SP、LP、CDといった複製技術は絵画における写真ほどは影響がなかった、あったとしても第2次大戦以降じゃないかなって思います。いろんな理由が考えられますが、一つにはオリジナルのあり方が絵画と音楽では全く違うからでしょう。モネの「印象~日の出」っていう絵はこの世に一枚しかありませんが、ブラームスの交響曲がこの世に一つしかないなんて誰も思いませんから。……「自筆の楽譜は一つしかないだろ」って言う人には「じゃあ、自筆譜で演奏してないものはニセモノですか?」って言うしかないですね。そうすると音楽におけるオリジナルは作曲家の自筆譜を忠実に演奏することでしょうか? ところが演奏家なら誰でも知ってるはずですが、忠実な演奏といっても、バッハだと強弱の指定もないし、ベートーヴェンだと速度の指定はめちゃくちゃだし、シューベルトだと書き間違いは多いしといったことで、とてもマトモな演奏にはなりません。だいいちそんな文句を彼らに言ったら口を揃えてこう言われるでしょう。「そんなことも自分でちゃんとできなくて、私の作品を演奏しようとするのかね?」とw。

 音楽においては大衆化の方が大きな影響があったように思います。大衆化とは読んで字の如しで、私は大勢の人が聴衆になることだと思っています。バッハよりモーツァルト、ベートーヴェン、マーラーと時代が下るにつれて、楽器編成はだんだん大きくなりますが、それ以上に彼らの音楽を聴く人は大勢になったはずです。バッハだと数十人、モーツァルトで数百人、マーラーで千人をはるかに超えたでしょう。だって演奏する人の方が多くちゃ商売になりませんからね。ただそれにつれて自分では楽器を触らない聴くだけの人が増えていったのです。……ベートーヴェンは第3シンフォニーや第9シンフォニーを聴くと民主主義的な、悪く言うと大衆迎合的な作曲家のようですが、ヴァルトシュタインとかラズモフスキーなんて貴族の名前のついたピアノや室内楽の曲を作曲しています。で、たぶんこういう貴族を始めとした上流階級の人たちはうまい下手は別として、楽器を嗜んだはずです。つまり器楽曲や室内楽は聴くだけの聴衆のためのものではなく、それなりの音楽的素養のある人のために書かれていたんです。ヨーロッパではアドルノが嫌味たらしく書いていることから推測できるように第2次大戦まではそういう伝統が色濃く残っていたようです。

 いずれにしてもシンフォニーやオペラといった大掛かりな音楽が19世紀以降のクラシックの歴史の中心ですが、それは大衆化そのものだったわけです。でも、それも2回の大戦でヨーロッパが没落し、アメリカが勃興したことで、ジャズやミュージカル、さらにポップスにマーケットの中心を奪われてしまったんです。ポップスはAMラジオとドーナッツ盤(知らない人はお父さんに訊きましょうw)という複製技術で何十万、何百万という聴衆を獲得しました。

 ところがここで奇妙なことにオリジナルという問題が生じます。ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」って1億枚売れたそうで、今でもあの曲は彼の歌がいちばんって思ってる人が多いでしょう。ちなみにあれは1942年の映画の主題歌だったんですね。プレスリーの曲も彼の歌でなきゃダメですね。「イエスタデイ」はたぶん最も多くカヴァーされた曲ですが、いくら上手な人が歌ってもポールのよりいいって言う人はまずいないでしょう。つまり複製技術によって大量生産された物が「アウラを持つもの=オリジナル」になったわけです。ポール・マッカートニーは齢60を超えてもコンサートで「イエスタディ」を歌わされています。20代の頃の自分を複製させられているんですねw。

 ベンヤミンの定義には「一回きりの」というのが入っていて、一回性Einmaligkeitをなんだか大層なもののように奉る向きもあるようですが、私はこれはアウラの定義に必須なものとは思いません。だって、1回しか聴けないコンサートでもつまんないアウラ(ありがたみ)のないものはいくらでもありますし、CDでも最初に聴いたときにはなんとも思わなくても、あるときふと聴き返して忘れられないような感動を覚え、アウラを感じることもありますからね。たぶんベンヤミンは作品=客体に備わっているモノとそれを聴く側=主体の事情とをきちんと整理していないように思います。もちろんアウラは主体が感じ取って始めて「ある」と言えるものですが、それをすべて主体側に還元してしまってはアウラというもったいぶった概念を立てる必要がなくなって、例えば「感動」といったふつうの概念で十分じゃないのってことになるでしょう。

 さて、「ホワイト・クリスマス」や「イエスタディ」のようなことはクラシックの世界ではありえません。ラフマニノフやクライスラーが自作を演奏したレコードが残ってますが、別に絶対的な価値を持っているわけではありません。ブラームスの演奏なんて、当時はこんな弾き方だったんだという感想しか持てないでしょう。

 もしクラシックにオリジナルがあるとすれば、グールドの弾く「ゴルドベルク変奏曲」こそがそれなんです。名演だからとかそんな理由ではありません。そんなものは「レコード芸術」を見ると毎月発売されていることがわかりますw。そうではなく、彼だけがコンサートから逃亡したからです。「あの時の演奏の方がよかった。実際に聴いた自分が言うんだから間違いない」といった言い分を封じてしまったからです。複製され、大量生産されるものがオリジナルとしてアウラを持つためには余計なナマの自分は消さなければなりません。……彼は1955年にこの曲の最初の録音をし、64年からはコンサートをしなくなりました。ビートルズがコンサートをしなくなったのは66年です。これは偶然でしょうか?


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4 コメント

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難しいっ…ところもありました (ぽけっと)
2006-09-25 23:36:36
いえ、概ね大変よくわかり、絵画と写真のせめぎ合いのわかりやすさなどは感動的なくらいです。お互い切磋琢磨してそれぞれの表現力を確立してきたんでしょうね。



楽器の編成が大きくなったから聴衆増やしたのー、ほんとお?という気はしないでもないですが大衆化というのも音楽のあり方に関わる大変大きな要素でしょうね。



ビートルズやグールドがコンサートをしなくなった理由の本当のところはわかりませんが、マスコミによるますますの大衆化、交通手段の発達、などにも関係しているような気がします。でも彼らにはコンサートをやめても録音という表現手段があったわけで、それが歴史の必然というわけですね?



と、ここまで考えてきて最後で思考が止まりました。オリジナルというのはグールドによるゴルドベルグの、てことですか?ライブを含む数々の演奏のうちのひとつ、ということではなく、グールドのゴルドベルクはこれしかないんだよ、という意味で?
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確かに (夢のもつれ)
2006-09-26 08:23:16
わかりにくいですね。。。ちょっと発想に無理がありますから。。説明しましょう。



楽器の編成と聴衆の関係は、因果関係として捉えていないんです。どっちが先とか後とかじゃなく互いに関係しあうようなものだと思います。ミクロな事象では因果関係はわかりやすいですが、マクロな事象では因果関係はしばしば見えにくくなると思うので。……これはメールとケータイのようなコミュニケーションとそのツールの関係や需要と供給の関係なんかを考えていただければよくわかると思います。



ビートルズやグールドのコンサートからの逃亡も同じようなところがあって、技術の進歩や社会の変化が複合的に関係しあってそれが可能にもなり、適合的な表現方法でもあったんじゃないかなと考えています。



最後の「オリジナル」の意味は「アウラを持つもの=ありがたみのあるもの」ということです。つまりベンヤミンの定義を逆手に取っているんですが、ここは本文を補足します。。お蔭さまで自分の頭ではずいぶん整理ができました

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すっきりーっ (ぽけっと)
2006-09-26 11:36:53
まあ、補足までしていただいて、何だか卒論指導の教官になったような気分ですw

そうですね、大衆化やコンサートからの逃亡はいろんな条件が複合的に絡み合ってのことだと思います。

余計なナマの自分を消す…なるほど。

時々演奏家が「充電のため」て姿を消すことがありますが、確かにそれでありがたみが増すことありますね。また出てくるからグールドみたいには徹底してないんだろうけど。また出てこれる、ていうのも大したもんだと思いますが。



とにかくガッテンガッテン!
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血液サラサラになりました?w (夢のもつれ)
2006-09-26 15:31:22
教官これからもよろしくお願いします<これがわかると年もバレますけどw。



やっぱし充電すると「ありがたみ」も増すんでしょう



もちろん「あの人は今」みたいになっちゃうリスクもあるんでしょうけど



どっちにしてもコンサートを自分の表現の場と考えている以上は、ここの話とは関係ないんですが

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