夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

被災地再訪5:南相馬、浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉、再びいわき

2015-01-05 | diary
一ノ関辺りから急に吐き気を感じた。疲れが出たのだろうか、昼に食べたものがもたれている。SAで眠ろうとするが、ほとんど眠れない。耳鳴りがし、足元がふらつく。何よりこれからどうしようか考えがまとまらない。
やっとの思いで仙台南で降りてネットカフェに泊まる。精神的な緊張は電車と車では大きく違うことを思い知る。食事も酒も摂ることなく横になる。
それなり眠ることができ、4時半頃に出発する。吐き気はだいぶましになっているが、空腹は感じない。



7時頃に南相馬に着く。仮設住宅の向うに日が昇ってくる。



南相馬の中心部はすたれている。原発事故によって住民が流出し、若い人たちは帰って来ない。いわきからの浜通りも断たれてしまったままだ。
ぼくが今回の旅を思い立ったのは原発付近が通行止めになっていた国道6号線が9月から通れるようになったと聞いたからだ。



歯科医院だが、凝ったデザインの洋館。残すのに値する建築はモダニズム以前だと思う。
ようやく食欲が出てきて、この近くのミニストップでサンドイッチと飲み物を買った。昨日の昼以来とは健啖家のぼくとしては尋常ではない。



こうした看板を今回の旅で何回も見かけるうちに車が黒い水の中に沈んで行くのを想像するようになった。



浪江町に入って海の方へ行こうと思ったら警官に止められた。住民以外は入れないのだろう。国道が通れるようになったというのは、それ以外は通れないという意味なのだ。警察車両や歩哨の警官をよく見かける。



帰還困難区域だから無人の人家への窃盗や放火、破壊を防ぐという大義名分はあるのかもしれないが、何か不愉快だ。
右手に見える仮設住宅のような建物は除染などの作業従事者の宿泊施設だろう。



バリケードの向うには何の変哲もない住宅地が見える。帰還封鎖区域と言った方がいいような気がする。政府は「まち・ひと・しごと創生」などと言っているが、まちもひともしごとも朽ちていくのをじっと待っているような気がする。



とは言え、双葉町の「原子力 明るい未来のエネルギー」という看板を見るとこの地域の住民に対し反発があるのもわかる。今回のタイトルに示したようにこの近辺の小さな市町村が合併もせずに不相応な庁舎を建てることができたのも原発のもたらす交付金のお蔭だったわけだ。



双葉町体育館前のバリケードの上には監視カメラがあった。バリケードは国道沿いの民家にも1つずつ丁寧に設けられていた。



大熊町の第1原発への入り口。言うまでもなく曲がることはできない。再稼働を望んでいる原発立地自治体の人びとはここに来たことがあるのだろうか。



あの山の向うだろうか、まったく見えない。牡鹿半島からは遠く女川原発が見えた。そこにも原子力が未来を拓くといった看板があった。



鉄腕アトムがお腹に小型原子炉を持っていたのを思い出す。原発や東電を非難する看板はこの旅のどこにも見かけなかった。





帰宅困難地域を過ぎるとバリケードがなくなる。左折して海の方へ行くと時が止まった町があった。富岡町だ。3年前の記憶が蘇る。





人は誰もいない。3.11のまま放置されている。





ぼくのような見物人のための仮設トイレが町の見どころの前に設置されている。
福島第2原発(F2)はこの富岡町と次の楢葉町にある。さっきFMラジオが所長と所員が必死で電源を保ったお蔭で、福島第1原発(F1)のようなことにならなかったと伝えていた。亡くなったF1の所長はあれほどの津波は全く想定できなかったと言っていたそうだが、それは他の原発も同じように設計されていることを明らかにしているわけだ。



モニタリングポストは0.311を示している。その意味は知らない。双葉町や大熊町と違ってこの地域には入れるが、南相馬の中心部やいわきのように住む人はいないという事実で十分だ。



ささやかな慰霊碑がある。どこか釜石で見た水子地蔵を連想させる。
いつからに日本人はこうしたものにペットボトルや缶コーヒ-を供えるようになったのだろう。現代の宗教的風習として興味深い。定期的にゴミとして処理しているのだろうか。



線路のすぐ向うは目線の高さの海だ。釜石や宮古のような湾ではないけれど、静かな海なのがここからでもわかる。





何年後かにまたここに来ることになりそうな気がする。
車に乗ってすぐに富岡町の話がFMラジオから聞こえてきた。駅付近を残したらどうかと言っていた。その偶然にちょっと驚いた。



3年前に原発事故対応の最前線基地として消防車や自衛隊の車両であふれていた楢葉町のJヴィレッジは今も同じ機能を果たしていた。サッカー場は原発労働者のための仮設住宅がびっしり建っていた。
廃炉に何十年もかかると聞いて今までは暗澹たる気持ちになっていたが、考えてみればそれだけ地元にまたカネが落ち続けるわけだ。被災地の多くの民宿、ホテルは作業員のため長期間借り上げられている。



労働者をF1に運ぶバスがひっきりなしに出入りする。警備体制はずっと厳しくなっている。この現状を知られたくないのだろうか。Jヴィレッジのサイトには何も触れられていない。副社長の「未だ多くの方々が避難を余儀なくされ、株式会社日本フットボールヴィレッジにおいても、従来のような営業活動再開の目処は立っておりません。…いつの日か、緑に輝く芝生と、サッカーボールが飛び交う風景を取り戻す事を信じて」というメッセージが空しい。すぐそばにはホテルが建設中だった。
中間処理施設にしても政府にも地元にもなしくずしに続いていくという暗黙の了解があるだろう。



被災地再訪の旅も終わりだ。旅の初めだった道の駅四倉はきれいに再建されていた。



レンタカーを返すために4回目の給油をした。3泊4日で1205.9キロとはよく走ったものだ。総走行距離がちょうど5万キロになっているのはできすぎだが。
11時少し前の電車に乗るとぐっすり眠ることができた。



前と同様、旅程を日ごとに色分けした地図を描いてみた。
またどこか旅に行ってみたくなる。



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