こんにちは!
最近、実に良く感じている事がある。毎朝、山羊の世話をしながら、冷たい風を感じ、雄大な海を見ていると、これから私が進む道は果てしなく自然と共存する事で何かを思い出させようとしている様に感じるのだ!
40歳を過ぎて急に自然を大切にしなければならないと思いたってから、5年目の今年なのだが、今まで蓄えてきた知識や経験が流れに逆らう事なく過していると、場面場面でリンクし、なにをするにも スムーズに行く事に気が付いた。
まるで 今進んでいる道は、生まれる前から自身で決めていたかのようにである。本当はこれをする為に今までの経験があり知識があり、いよいよ、時 来たれり!と言う風に感じるのである。
しかし思い立ってから、5年間近くの間は棄てなくてはならないものも数多くあった。その間 悩み 苦しみ 怒り と様々な感情の嵐が襲ってきたのも事実である。頭で思考し考えれば考えるほど、様々な感情に振り回され、自身を追い込み、イライラしていたのも事実だ!
これら負の感情を手放す事は決して容易い事ではなく、風水の理に耳を傾け、自身を信じるようにしていると、ある日 突然 なんの前触れも無く、それは やって来るのである。今までの人間関係が一掃され、傷口の舐めあいもなくなり、同じ仲間が集まるようになるのである。
価値感が変わり、本当の価値あるものが何なのか?と言う事が胸の奥底から湧き上がり、いてもたってもいられなくなる様に感じるのだ。時には、白い光に優しく包み込まれるように感じたり自身が金色の光に包み込まれている様に感じたり、手放した負の感情の変わりにまるで穴埋めをするかのごとくに楽しくワクワクする感情が湧き出してきたり、そこにはなんの不安や恐れもなく、唯 楽しむだけで良い!と言う事を自身が教えてくれたりもするのである。
人類は神という存在を敬い 崇めてきたのだが、実はこの神仏自体が地球の事であり、我々 自身と言う事をあらためて 諭された!人は自然とは切ってもきれない関係にあり、昔から神仏(自然)を感じる為に深い山に入ったりしたものであるが、今は都会という人工物に囲われて暮らしている人々が多く自然との共存が出来ないでいる。又、そのためにいらない病気や心の病を患っている人が多いのも事実なのである。
人類は自然の事を分かっているフリをしているだけで破壊ばかりをしている。どんなに偉い学者さん達でも分かったフリなのである。自然と共にくらしている人達の方が余程分かっているのである。私は色々なものからそれら本当に大切な事を今教わっている最中なのである。木や草や岩等はそこにあるから調和が取れるのであり、そこに一陣の風が吹く事で 命を感じ、雨が降ることで生命の育みを感じる。それらを感じていると人はまだまだ新米の生き物なのであり、犬や猫達の方が遥かに命を感じているのである。
謙虚になり、しがらみや、虚栄心、等を捨て去ると 自然や動物達からの語りかけが理解できるようになる。彼らはいつも私達に語りかけているのですが、聞かないフリをしているのは私達のほうであった!と言う事も気づかされました。
分かっているつもり と言う事にも そろそろ 気づかなければならないですね!大地の暖かさが伝わり、人の心の温もりを感じ、みずからの内側を感じていると、何とも言えない程の安寧な気持ちになるものです。
昨今、世界情勢が厳しく国内に於いても非常に暗鬱とするニュースばかりですが、今こそ基本に立ち返り 我々はなにをする為にこの世に生を授かったのだろう?というような事を考え感じてみるのも良い機会かも知れません!そうすれば世の中の矛盾が浮き出てくる事でしょう。相撲の八百長等が良い例です。昔からあるものなのですが・・・今さら鬼の首を取った様に騒がなくてもいい様な感もあるのですが、世の中の流れが、それらを許さないのか?他に国民の目を向けていたいのか?どうでもいい様なことばかりですが、こう言うときこそ、最大のチャンスだと感じております。
この不況を吹き飛ばすのは企業でも政治でもなく、我々個人の心が変われば、自ずと地域が日本が世界が地球が良い方向に変わる事だと感じます。一番 危険なのは 何事に於いても 分かったふり; つもり; が混乱を招き、間違った 信念体系を生み出してしまいます。柔軟な思考が消えてしまい我執にこりかたまった頭では、この先に待ち受けている時代に馴染む事等到底出来る事はなく、常に謙虚な姿勢こそが人々を導き、導かれもする事だと感じております。良い例が戒名を決めるときに、どうしてお布施の値段で戒名が決まるのでしょう?私は真言宗ですが(僧侶の資格も持っている)同じように、値段で決まってしまう事が多いです。他の宗派も例外では無いでしょう!間違った信念を持ってしまうと回りが見えなくなり、他を踏み台にして自分だけが良くなると回りも良く成っている様に勘違いをしてしまう。競争という螺旋の中に入ってしまうと、見える物も見えなくなり、全体の姿すら忘れてしまう事にもなりかねない!現代の医学がそうであるように!我執にとらわれずに全体を見るとも無く見るという心の余裕が必要なのではなかろうか!一枚の葉を見ていては木が見えず、木だけを見ていては、山が見えず、全体を揺ったりとした心持ちで自然に見る事!とは私の武道の先代のお言葉であるが、今だもって 難しい限りであります。