日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その24 陸軍と政治との関係

2023-12-25 23:26:32 | 東條英機  

                                      パル判事の碑文 (靖国神社)


東條英機 宣誓供述書 

 
               

陸軍と政治との関係
 

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〔「犯罪的軍閥」〕
 起訴状に於ては1928年(昭和3年)より1945年(昭和20年)に至る間
日本の内外政策は「犯罪的軍閥」に依り支配せられ且つ指導せられたりと主張されて居ります。

 然し乍ら日本に於ては「犯罪的軍閥」は勿論、
所謂 「軍閥」なるものは遠い過去は別として起訴状に示されたる期間中には存在して居つた事実はありません。

 尤も明治時代の初期に於て封建制度の延長として「藩閥」なるものが実際政治を支配した時代に於ては
此等藩閥は同時に軍閥でもあったのであります。
 
 當時此等の者は「閥」即ち徒党的素質をもつて居ったたとも言へます。
然るに政党政治の発達に伴ひ斯る軍閥は藩閥と共に日本の政界より姿を消したのであります。
その時期は起訴状に言及した時期よりは依然の事であります。

 その後帝国陸海軍は国家の組織的機関として制度的に確立し自由思想の発生するに及び
最早、事実的に斯の如き徒党的存在は許されざるに至りました。
その後政党勢力の凋落に伴ひ軍部が政治面に擡頭した事はあります。

 しかし、それは過去の軍閥が再起したものではありません。
仮に検察側が之を指して居るのであったならば軍閥という言葉は當ません。
それは軍そのものであり徒党的存在でないからであります。
而しそれは日本の内外より受くる政治情勢の所産であり
ます。

 彼の「ナチス」又は「ファッショ」のような一部政治家により先ず徒党を組織し、構成して、
国政を壟断せる者とは全然その本質及び政治的意義を異にして居ります。


  153  

〔軍の政治面に擡頭せる政治情勢〕
 軍が政治面に擡頭せることについては次の如き政治情勢が大きな関係をもって居ります。

(一) 満州事変前後に於ける日本の国民生活の窮乏と、
  赤化の危険の対応する革新的気運の擡頭と、陸海軍の之に対する同情

(二) 支那事変の長期化に伴ひ日本の国家体制が次第に総動員体制に移り、
  太平洋戦争以後は寒山なる戦時体制に移り、軍部の発言権の増大せること。 

(三) 右と関連し日本独特の制度たる統帥権の独立が発言権を政治面に増大せること。  
  

 右の中(一)の事柄、即ち満州事変前後の事について私自身の責任時代のことではあまりせんが、
我が国の運命に関する事柄の観察として之を述べることができます。
 
 第一次世界大戦後の生産過剰と列強の極端なる利己的保護政策とに依り自由貿易は破綻を来したのであります。
此の自由貿易の破綻は惹いては自由主義を基礎とせる資本主義の行詰りといふ一大変革期に日本は當面したのであります。

 斯くて日本の国民経済に大打撃を與へ国民生活は極度の窮乏に陥りました。
而も當時世界的不安の風潮は日本にも蕩々として流れ込んだのであります。
斯くして日本は一種の革命期に探入しました。

  
〔革命期の二つの運動〕
 此の革命期には日本には大別して二種の運動がおこりました。
その一つは急進的な暴力革命の運動であります。
他の一つは斬新的で資本主義を是正せんとする所謂革新運動であります。
  
 急進的暴力革命派は軍人若くは軍隊を利用せんとし、青年将校等を扇動し且つ巻込まんとしました。
その現れが五・一五事件(1932年即ち昭和7年)に 二・二六事件(1936年、即ち昭和11年)等でありました。

 蓋し、農村漁村困窮の実情が農山漁村の子弟たる兵士を通じ
軍に反映して青年将校等が之に同情したことに端を発したのであります。

 而して軍は二・二六事件の如き暴力行為は軍紀を破壊し国憲を紊乱し其の余弊の恐るべきものあるに鑑み、
廣田内閣時代寺内陸相に依り粛軍を断行し之を処断すると共に、
軍人個々の政治干與を厳禁しました。

 他面陸軍大臣は国務大臣たる資格と責任に於て
政治的に社会不安(即ち国民生活の窮乏と思想の混乱)を除去する政策の実行を政府に要求いたしました。


 検察側の問題とする陸海軍現役制の復活も此の必要と粛軍の要求とより出たものであります。
斯の如き関係が政治的発言を為すに至ったのであります。
検察側の考ふるが如く暴力的処置に依り軍が政治を支配せんとしたものではないのであって、
以上の政治情勢が自ら然らしむるに至ったのであります。


〔総動員体制への移行、戦時体制〕
 次に(二)の理由即ち支那事変の長期化に伴ひ総動員体制に移行したとき、
又太平洋戦争勃発以後の戦時体制と共に軍の発言権の増大につき私は関係者の一人としてここに説明を加へます。

 以上の事変並びに戦争のため国家の運営が戦争の指導を中心とするに至りました。
そして、それは當然に軍事中心となりました。

 殊に1937年(昭和12年)11月大本営の設置せられたる以来、
次に述ぶる第三の理由とも関連して政治的に影響力を持つに至りました。


 この傾向は太平洋戦争勃発後に於て戦争の目的を達するため
国家の総力を挙げて完勝の一点に集中せしむる必要より発した當然の帰結であります。

 之を以て軍の横暴といふならばそれは情報の欠如に基く見解の相違であります。
之を犯罪的軍閥が日本の政治をしはいしたといふことは事実を了知せる私としては到底承服し得ざるところであります。


〔統帥権の独立〕 
 第三の点、即ち統帥権の独立について陳述いたします。 
 旧憲法に於ては国防用兵即ち統帥のことは憲法上の国務の内には包含せらるることなく、
国務の範囲外に独立して存在し、国務の干渉を排撃することを通年として居りました。
このことは現在では他国にその例を見ざる日本独特の制度であります。
従って軍事、統帥行為に関するものに対しては政府としては之を抑制し又は指導する力は持たなかつたのであります。

 唯、単に連絡会議、御前会議党の手段に依り之との調整を図るに過ぎませんでした。
而も其の調整たるや戦争の指導の本体たる作戦用兵に触れることは許されなかつたのであります。

 その結果一度作戦の開始せらるるや、作戦の進行は往々統帥機関の一方的意思に依って遂行せられ、
之に関係を有する国務としてはその要求を充足し又は之に追随して進む外なき状態を呈したことも少しと致しません。
 
 然るに近代戦争に於ては此の制度の制定當時とは異なり
国家は総力戦体制をもつて運営せらるるを要するに至りたる関係上
斯かる統帥行為は直接間接に重要なる関係を国務に及ぼすに至りました。
  
 又統帥行為が微妙なる影響を国政上に及ぼすに至りたるに拘らず、
而も日本に於ける以上の制度の存在は統帥が国家を戦争に施行する軍を抑制する機関を欠き、
殊に之に対し政治的抑制を加へ之を自由に駆使する機関とてはなしといふ関係に置かれました。

 これが歴代内閣が国務と統帥の調整に常に苦心した所以であります。
又私が1944年(昭和19年)2月、総理大臣たる自分の外に参謀総長を拝命するの措置に出たのも
此の苦悩より脱するための一方法として考へたものであって、
唯、その遅かりしは寧ろ遺憾とする所でありました。

 然も此の処置に於ても海軍統帥には一手をも染め得ぬのでありました。

 斯くの如き関係より軍部、殊に大本営として事実的には政治上に影響力を持つに至ったのであります。
 
 此の事は戦争指導の仕事の中に於ける作戦の持つ重要さの所産であつて
戦争の本質上已むを得ざる所であると共に制度上の問題であります。

軍閥が対外、対内政策を支配し指導せりといふ如き皮相的観察とは大に異なって居ります。  

  



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