日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

笠井 孝著『裏から見た支那人』残忍と冷酷

2024-03-14 20:28:57 | 中国・中国人

  
    笠井
孝著『裏から見た支那人』 

   
 


   残忍と冷酷
 

馬革・・・・・・妊婦を裂く・・・・・・血染めの饅頭

・・・・・・人肉賣買・・・・・・屍衣・・・・・・子女賣買
・・・・・・香具師・・・・・・火事場・・・・・・ああ無情  

〔馬革〕
 支那人は、個人的にも、團體的にも、臆病で、
勇猛果敢の気象に之しく、
何ちらかと云へば、文弱の民である。
併しながらその反面に於いて、弱者に對しては、頗る残忍性を発揮する通有性がある。

 例へば官吏、土匪、兵隊、警察官などが、力を笠に着て、弱者を威圧するのは、
當然と考へられて居るのみならす、
往々平民ですらも、力のない婦女子に対してすら、
残虐を恣にするのが少なくない。

 民族の残忍性は、その因って来るところ遠く、
習び性を爲したもの
と考へられる。
 
 呉王が、その功臣呉子青を憤死せしめ、その屍を、
馬革に包んで捨てたと傳へらるる如き、
秦の始皇帝が、その儒者を坑にせしが如き、
また漢の高祖が、創業の臣梁王鼓越の肉を裂いて、
諸侯に分配した如き、斯る事例は少なくないが、
要するに人を惨殺することは、
毛虫でも踏み潰す位にしか考へては居ない
のである。
 
 彼等は何の恨みのない場合でも、
その獨特の残虐性を、發輝する場合が多い。

 大正11年(1922年)1月宣昌の上流で、
天主敎の神父チューリアが、土匪に惨殺された時は、
顔から腹部に、80餘豫個所の刃傷があった。


  

 民國8、9年(1919年、1920年)ごろと思ふが、
湖北の督軍王占元は、兵變掠奪に參加した部下2000人を、
故郷に追放すると稱し、孝感県まで連れ出して、機関銃で塵殺したことがある。
 
 先年張學良の奉天軍が、その某衛隊の武装解除をした時とか、
昭和4年張宗昌の部下を、濼州で武装解除した時には、
何れも訓示をするといふ名目で、將校等を集めて、
機関銃でバラバラとやったものである。
これは今尚ほ衆人の耳に新なることであらう。

   

 大正11年(1922年)上海で、日本人富尾某のボーイは、その兄と共謀し、
主人の不在中に、富尾の夫人を細縄で縛り、
發聲をさぬ爲め、口に石炭をつめて、これを惨殺しようとして、
絞殺未遂のまま遁げたことがある。

 唐〇(文字不明)堯に代った雲南の將軍顧品珍はその部下の爲め銃殺馘首の上、
その口に巻煙草をくはヘさせられてあった。

 以上は支那人残虐の手ほどきとして、掲げた数例に過ぎない。


 支那人は、一般に動物を馴らすことが上手であり、
取り扱ひも温和であるにも拘らず、
他の反面に於て、頗る残忍な點がある。

 牛馬を屠殺するに、頗る残忍な方法を用ひ、
豚を殺すのに、その悲鳴最中に及ぶが、
これは、悲鳴を擧げさせるにほど、
その肉が美味いと考へて居るからである。


 ボーイは、家を鴨を毅すのに、
生きながら庖丁で、首をチョン切って平気であり、
豚や、鶏の生血を吸って、婦人でも尚ほ平気の平左である。

 従って動物を愛護すると云っても、温情百草萬木に及ぶと云ふやうな、
慈育の精神から出るのではないこと、勿論である。



〔妊婦を裂く〕
 日清戰爭の際、仲満中尉以下47名の斥候が、
遼東半島で、土人にダマされて、惨殺され、耳を削がれて、
鼻をモガれ、針金で耳から耳へと貫かれて居たことは、
當時有名な話であったが、
昭和6、7年(1931,1932年)の満洲事變に於いても、
鮮人を捉へて、活きながら皮を剥ぎ、眠王を抉って、
公衆の通路に曝したのが、澤山あった。

 四平街東北方附近に逃げた王以哲軍は、
附近の鮮人部落を燒拂ひ、妊娠中の女の腹を断割って、胎児を曳き出し、
マダ動いて居るのに、銃剣をつき刺して、
嬉々として笑って居た。

 また鮮人婦人を強姦しようとしたが、
背中の子供が餘り泣き叫ぶので、イキナリその子供を玄翁で撲り殺し、
その婦人を輪姦した上、惨殺したのやら、輪姦の上、
押切(牛馬の飼料を切るもの)で、生きたまま、
女を胴中から二つに切ったりしたのがあった。
    
 これ等の慘状を見ると、
彼等は如何にして、殘虐行爲を現はすべきかに、
努力苦心をしたのではあるまいかとさへ思はれる。



〔血染めの饅頭〕
 支那では、今尚ほ原始的な首鰔りや、
磔が、到るところ、裁判なしに行なはれて居るが、
この際に於いて、黒山の如くに、見物してる連中は、
死刑者の首が、コトリと前に落ちるや、
一斉に手を拍いて聲を立て、笑ふ習慣がある。

 これは死靈が取りつかない爲めにやる、
魔よけの迷信からだと、云ふことであるが、
如何に考へても殘忍である。
 
 また死者の局部をナイフで切り、或は胸を斷割って、
その肝臓を持ち歸ったり、或は首が落ると同時に、寄ってタカって、
各自携帯の饅頭に、流れ出る血潮を吸わせて、薬用の爲めとあって、
これを喜んで食ふ習慣がある。


 曾って山東膠州の城内で、馬賊を銃殺した際、
支那兵の一下士は、イキナリ死者の睾丸を、ナイフで切って、
手巾に包んで、平気で持ち去ったが、
これを見て居る見物人は、また平氛で笑って居た。

 さらに忌むべきことは、
廣東でも、済南でも、また満洲でも見たことであるが、
支那兵は、人を慘毅したあと、殊に婦人を強姦慘設した際は、
必ず長さ一尺ばかりの木片を局部に挿入する癖があることである。


 済南事變の時でも、満洲事變でも、
生きながら、石油を掛けて惨殺されたり(生きた者は水泡が出来るからすぐ分る)、
或は局部を切断して胸に載せられたり、
局部を持ち去られたりしたものである。
 

 これ等は、人を殺す場合に於ける、彼等の常習的習慣であるやうである。



 以上の例の如きは、
日本に對する敵愾心、愛國心の發露だと云ふ風に、考へられるかも知れないが、
生きたま面皮を剥がし、手足の指を切り、耳を削ぎ、
妊婦を、車に足を括りつけて引製き、焼篭手をあて、炮烙の刑に處する
などは、
隋の鴆帝あたりが、慰み半分に遣ったばかりではなく、
支那歴代の各所の内乱でも、滿洲事變でも、到る處で、
支那軍から見せつけられた事實であって、
単な敵愾心と云ふよりも、寧ろ残忍行爲として、分類さるべきものである。

 コンな點では、土匪はまだ穏やかな方で、
強姦、掠奪、惨殺は、支那の正規軍の方が、遥かに残酷無道であるのだから、アキれる。


 支那人の残虞行爲には、彼等の人生観、宿命観も、手傳って居るやうである。
支那人が、案外死に臨んでも、平気であるのは、轉生説を信するアキらめの結果である。
   
 中野江漢の説に従がへば、
支那人が土葬を欲するのは、體さへ滿足であれは、再び滿足な人間として、生れ替れるが、
火葬をすれば、轉生が出來ないと思って居るからださうである。

 銃殺は恐れぬが、首を切られるのをイヤがる風があるのも、
首を斬られると、來世に蝎のやうな、
首なし動物となって、生れ替ると、信じて居る爲めである。 
  

 
 

〔人肉賣買〕

 支那には、仇敵の肉を啖ふとか、その骨をシャぶるとか云ふことがあるが、
これは形容詞ではなく、彼等は、實際仇敵を喰ふのである。

  蓋し仇人を食ってしまへば、未來永遠に轉生せぬ。
食はぬまでも、肉を裂き、骨を刻んで置けば、轉生し得ぬから、
仇討ちをされる心配がないと去ふ迷信からである。

 支那の刑罰に『凌遲』と云ふのがある。
手足を、一本々々斬り離し、身體を細かく刻む意味で、
斯くすれは悪人が、再びこの世に再生せぬ爲めである
と云ふ。

 
 史を按ずるに梁の武帝を餓死せしめた反將の侯景が、
後に殺害されて、市に曝された時、土民は、爭うてその肉を喰ったと云ふ話がある。
 
 また殷の紂王は、自分の不行跡を戒めた翼侯を灸(やきもの)とし、
鬼を腊(しほびき)にし、梅伯を魅して、これを臣下に分配したと云はれて居り、

 齊の桓公の易牙は、彼れの子供の肉を、桓公の食膳に上せたとあり、
その他管の文公、楚の項羽、隋末の賊朱燦、唐末の賊黄巣等も、
人肉を喰ったと傳へられ、
 
 五代の初め揚州地方では、年々の兵乱に食用足らす、
貧民は、夫はその妻を、父はその子を肉屋に賣り渡し、
彼等の目前でこれを料理して、
羊豚と並べて、人肉を賣ったことさへあると書いてある。

  
 支那人の人肉喰ひは、美食に飽きたイカモノ喰ひであるとも云へる。

 怨敵の肉を喰ふ等の外、疾病治療の目的から、
人肉を薬材として食用することは、古来公然と行はれて居る。
 
 内部廣西の苗族の一部には、自分の部落に泊った外来人の占びをして、
村に幸福が來るとあれば、優待するが、
不吉な占ひが出ると、これを殺して、その肉をたべる習俗がある。
  

〔関連記事〕桑原隲藏 『支那人の食人肉風習』

            魯迅「狂人日記」(中国の食人の風習を記述)



〔屍衣〕
 支那人は、死體に鞭つと云って、
屍體を虐遇することを以って、非常なる侮辱罪悪とするのであるが、
支那の内亂戰を通覧すれば、兵變掠奪の度ごとに、幾多の残虐が常に行なはれて居る。
   
 民國8年(1919年)、湖南の湘江道に於ける大虐殺は、
全市一空、婦女子の屍體道に横たはるもの2000と云はれ、
民國11年、河南開封に於ける掠奪の翌日、往来には、手足がバラバラになり、
局部を抉られたる婦人の屍體が、散亂して居ったことを、自分は目撃した。

 彼は、殆んど人を殺すことによりて、
愉快を感するのではあるまいかとさへ、疑がはれる。



 然して斯くの如を奪の後には、
性民は、死人の衣をぎ取り、死骸は、その着衣を全部盗まれて、
それこそ丸裸のまま捨てられ、
紅萬字會とか、その他の慈善團體等によって、埋葬せられない限り、
多くは野犬の餌食となるばかりである。

 死人の着衣を剥ぐことは、支那各地とも、民衆の通有性であるらしく、
敢えて玲らしいことではない。


 支那人の習俗で、さらに見逃がすべからざることは、
男女7歳以下で死する者は、父母に對する不孝の児として、これを土葬することなく、
屍を野原にてる棄てる習慣があることである。

 棄てられた屍は、犬や、島の餌食となって居るのだが、
これは支那内地各所で、何時も敬見することである。


 
〔子女賣買〕 
 以上は死屍に加へらる、残忍であるが、
次には生きた人間に加へられつつある残忍を紹介する。
  
 支那の奥地に行くと、今でも奴隷的のことが行なはれて居り、
4、5歳から、11、2歳までの男女を、貸金の担保に取ったり、
金で買っては謂ゆる底下人(下女、下僕)として、一生涯コキ使ふのである。

 
 飢饉の際などには、食に窮した親が、各地で子供を賣る。

 上海閘北では、一人7、8元で賣られて居たのを、私も目撃したことがある。
民國9、10年(1920、1921年)ごろであったか、
河南の田舍では、飢饉の為め、子供一人と、饅頭2つと交換したのもある。
またヒモジさの餘り、子供を殺して、その肉を喰った支那人もあった。

 親子の情愛の薄い支那人にあっては、此の種のことは幾つもある。

 父母が、その子女を懲戒するのに、鞭撻數十、悲鳴庄里に徹し、
衆人黒山をなすも、誰しもこれを止める者がない。

 又Y頭(下女)を虐待する惨状は、言語に絶し、
半死半生のまま路上に投げ出したりするが、
衆人みな累の身に及ばんことを恐れて、敢えて口を抉む者さへもないのである。



〔香具師〕
 親子でも、冷酷情愛のないこと、
これでも人類かと、アキれるやうなのが沢山ある。

 先年山東鐡道の沿線で、一轢死人があったので、
その16歳の實子を、現場に連れて行ったとこら、
彼は毫も愁傷の色をしないで、反って斯の如き場合には、イクラの慰籍料を貰へるかと、
聞かれたのには、一同亜然たるものがあった。

 また反對に子供が重病で、手當て不十分の爲め、瀕死の状態になって仕舞ふと、
最早天命なりとして、落命を目の前に路房に置いて、省みない親がある。 

 
 民國9年(1920年)、山東郭店で、重傷をした一支那人があった。
中に若千金もあるから、警察に引き取って、個人的に世話をしてやっては、何うかと勧めたところ
『若し死ねば、その所特金だけでは不足である』と云って、取り合はない。

 傷も致命的ではないから、その内住所も分るだらうし、
相當の商人らしいから、謝禧もするだらうではないかと、勧めたけれども、
『それは未定のことである』と云って、敢えて應じなかった例もある。

 
 支那の田舎を歩くと、子供を誘拐し、手や、足を切断し、
まは関節を捻轉して、不具廃疾とし、これに乞食を稼がせ、
或は見世物に使ふことが數次ある


 子供の四肢の閼を、反対の方向に抂げて、獣類に似せ、
所々の皮膚を剥ぎ取って、豚毛を植ゑ、豚の聲色を使はせて、
人と豚との混血児で御座ると稱したのを、大正10年(1921年)坊子で見たことがある。
 
 確か大正15年(1926年)頃満州でも、
子供の顔や、背中に獣毛を植ゑて、見世物にして居た香具師の残虐が、
新聞にあったと、覺えて居る。

 
 それから大正13年(1924年)杭州で、
10歳位の子供に、棒を兩手に握らせたまま、
頭上から背中を経て、兩足を通じて回轉させて、見物の金を集めて居ったが、
その子供は、兩方の肩が、半脱臼状態になって居って、
涙をボロボロ出しながら遣って居た。
 いま思び出しても、悲慘な感じがする。



〔火事場〕
 さらに見遁がすべからざることは、火事場に於ける彼等の冷酷な態度である。
  
 普通何處でも、支那人は、火災等の場合、
自分の家が危險でない限りは、決して消防に努めたり、手傳びなどはしないで、
大きな口を開いて、笑って見物をして居るのが、風習ではあるが、
家人は煙の渦く内から、必死となって荷物を運搬して居るのに、
見物人は手傳はないのみならす、
には未だホヤホヤ暖かみのある焼殘りの反物等を盗んで来て、
見物人に賣って居るのに、警官も、また黙って居る
などは、
到底支那でなくては、見られない図である。

 大正13年(1924年)3月のこと。
本渓湖太子河の坑木會社が燒けた時である。
會社では、折柄居合せた支那苦力30名に、應援を求めたところ、
彼等は『賃銀は幾何出すか』と云って、頑として應じない。
會社は已むを得す、別に賃銀を仕拂ふことを約して、手傳はせたことがある。

 
 故に火災の場合、何等関係のない日本人が、必死になって手傳ふのを見て、
彼等が不思議がるのは、無理もない話である。


 所は山東鐵道の一駅柳家荘、時は大正10年(1921年)のことである。

 タマタマ、火事があって、近所の井戸を使用しようとしたところが、
井戸の水が減ると云って、何うしても使用を肯じない。
 後で謝禧をするからとの約束で、漸く火を消し止めたことがある。

 火事場で、桶一杯の水を、イクラといふ代金をセシめて、賣る
と云ふのは、
支那各地に行はれることで、自分も杭州で見たことがある。


 
〔ああ無情〕
 確か大正5年(1926年)のことであった。
 暮の12月25日に、大連から芝罘へ入稿せんとする阪鶴丸が、
折柄の大吹雪を喰って、咫尺を解ぜす、遂にその進路を誤り、
島の東端、裏勾の沖合にある小岩石に座礁し、
船員等400餘名が、救助を受くるを得ずして、70餘名を除いて、
総てが凍死するに至った大悲慘事があった。
 
 ところが、その當時、該船の遭難が、全市に傳はるも、
支那の官民は、袖手傍観、一人のこれを救はんと、弃走するものがない。
全く以って馬耳東風である。



 北海を、急激に襲った烈風と、大吹雪は、當船よりの通報により、
翌日救助のため、旅順より駆け付けた我が千代田艦をして、
阪鶴丸に近づくことを得せしめず、
またポートを下すに由なからしめ、
救助の目的を達することなくして、旅順に引返へさしめたほどであったが、
何とかして、この多数の同胞の難境を救はむとする義気と、意志の閃きは、
同市の支那人間には、徴塵だも動くを見なかった
のである。


 幸ひにして、この遭難者の中で、27日まで生残った70名は、
義侠に富む我が在留邦人の、非常なる苦心と、献身的手段によりて、
瀕死の際に救助されたのであるが、
是等邦人の義勇なかりせば、残った人々も、また見殺しにされたことであらう。

  
 斯う云ったことから推断すると、
支那人には、何うも義侠的精神など云ふものはないやうである。
身を殺して仁を爲す底の義に勇むことは、
到底支那人に、見られざるものである
と云って、
差支へがないと思ふ。
 
 『君子は危きに近よらず』とは、
何等の例外をも設けすに、如何なる場合にも、
一般支那人に遵奉されて居ると見て善いと思はれる。


 これも阪鶴丸の時の出來事であるが、
我が日本領事の勧告と、慫慂とによりて、
支那側に、漸く官民合同の救済會なるものが設立され、
船上、海底の幾百の死屍を陸上に移し、
それぞれの処分を講ずることとなった。

 ところが支那の水上警察の巡警共は、
これ等死屍をジャンクで運搬途中、死屍の身體を檢し、
目ぼしい携帯品や、金員を、殆んど全部橫奪し、
甚だしきは、衣類までもぎ剥ぎ取った
のである。

 これ等の死屍は、多くは出稼苦力と、出稼商人で、
皆相當の金品を懐にしての歸郷の途上であったから、
巡警は、非常なる不義の収穫を掴んだ譯である。

  
 然ればその直後水に濡れたロシア紙幣の500ルーブルのものを、行使した巡査もあり、
また2萬ルーブルを携帯して、歸芝した某店員の全額の有金を盗み取り、
これを多人數で分配し、水上廳の重もだったもの共も、
殆んどその分割に與ったことが曇露された。

 これ等のことを見ても、彼等が如何に平気に、
かつ當り前のことのやうに、
この残酷事を行なったかを知ることを得よう。

 要するに彼等は、些の憐憫の情をも持たない
のである。

 彼等は、知人朋友にあらざる他鄕の者に對しては一點の人間味すら持合せて居ないのである。
何處に仁があり、何處に義があらう。 



   裏から見た支那人 終 



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