日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 「『海舟座談』を読む」

2019-01-21 23:00:50 | 大川周明

大川周明 「『海舟座談』を読む」

 

 巖本善治翁の『海舟座談』が、何人もたやすく手に入れ得る岩波文庫の一冊として、新たに覆刻第刊行されたことは予にとりて此頃になき喜びである。予が初めて此書を読んだのは、指折り数へて三十年にも近い昔のことであった。

 そのころの予は、到底此書の真個の価値をし味読し得べくもなかった。それにも拘らず、読み去りみ来る聞に此書から受けた深甚なる感銘は、年経たる後まで鮮かであった。物こころ付いてから予は幾たびか此の書を読みかへしたいと思ったが、その時には最早や絶版となって居て、容易に手に人れるすべもなかった。

 少年時代に感激を与へられた書籍を追慕する時、わが胸は失へる楽園を思慕する如きこころに湧きかへる。そは朗かな悲哀であり、楽しさであり、やるせなきである。予は廔々このこころに誘われ、強いて探し求めて懐かしき昔なじみの本を手にした。然るに、わが若き魂にあれはど深き感銘を刻み込んだ其本が、おほむねは些の感興を惹かぬものと成り果てて居た。このごろも『化人之奇遇』と『経国美談』とが、春陽堂から明治大正文学全集の一冊として刊行された。そは中学時代に予の魂を奪ひ去りしものであり、其後もし屢々いま一度読みかへしたいと思った本であるから、早速これを披いて見た。而して両者とも、読むこと数頁ならざるに、予をして巻きを閉ぢさせた。

 巖本翁の『海舟座談』は、もとより両書とも其の性質を異にするが故に、之を同日に談ることは当を失するものである。而も此書が、今度読みなほしたことによって、以前とは別の新しき感激を予に与へたことは担むべくもない。

 

 予は『大海を渡る巨舟』の如かりし海舟の面目を、その美醜を併せて明らかに看取することが出来た。

神品と称すべき巖本翁の文章の妙味もしみじみと味わう事が出来た。而して此書が蔵して有る数々の教訓を漸く窺ひ知ることが出来た。予は此の書を同志諸君に紹介せざるを得ない。

 

      

 明治二十年八月から、海舟が世を去りし明治三十二年一月に至る十存余年の間、わが巖本翁は少くも一週一回多きは二回に及んで海舟に親観炙し、その片言隻語みな筆記して之を筐度に蔵した、その明冶二十八年以前のものは、不幸類焼にかかりて灰燼に帰し本書に取められたるものは、明治二十九年より臨終五日前に至る談話の筆記である。

 予は先づを海舟に対するき巖本翁の敬虔なる渇仰と、講究苦学の誠心とに感動せざるを得ない。人を慕はば当に翁の如くなるべし道を学ばば当に翁の如くなるべきである。予の如きは、八代城山先生に師事する事すること十数年、獏々としてただ頑童の慈父に対するがくにして過ぎ、いま長逝に遭ひて参究の足らざりしを悔ゆるも既に遅く、ひたすら心を稚心を恥じるのみである。その予でもさへ、拝謁の頻繁なりしために、やや、先生の風格を会得することが出来たとすれば、巖本翁が海舟の真面目を把持し得たことに何の不思義もない。巻頭の序交、すでに海舟の骨格を示し、次で『先生を失ふの歎』によって皮肉を附し、更に『水川のおとづれ』に於て鬚眉を完了し去り、如意自在に英雄を紙上に霊動させて居る。

 かくの如きは独り翁のみ能くするところと言はねばならぬ。何となればを海舟の真骨頂を知れる者は他にあったとしても、それを如実に彷彿せしなら霊妙の筆を有てるものは、恐らく翁のほかにないからである。


 海舟の本領は、能く其神を視て未だ形跡あらざるに之を治医する識と徳とに存すとせる巖本翁の断案は、何人も首肯せざるにないであらう。江戸城明波しの時は言ふまでもなく明治に人りての三十年間も、一身を以て天下の重きに任じ常に手腕を人の見えざる所に施して居る。小牧枢密院書記官長が海舟に向かって『何か不平があるか』と問へるに対し『満腹の不平だ。三十年己が苦心して立ててやつたものを、みんなが寄ってたかつて、ぶちこわそうとはするから不平だ』と答えたのは、海舟の抱負と苦衷を語り尽して居る。人は多く維新当時の海舟を知りて、維新以後三十年の苦心惨憺を知らない。

 巖本翁日く『維新の先生の地位を逆境といふのが通例であるが、金権の局に当って処置せられたのであるから、其の力量を施すの途から言へば、むしら順境である。維新後の三十二年間こそ、先生の逆であらう。この逆境に居て裏面に経営し、機鋒功績を没して、未発に大事を処置せられた苦心は、とても維新前の比ではないと信じている』と。まさしく其の通りである。


 予は必ずしも海舟の先見が悉く的中して居るとも思はない。また支那及び露西亜に対する意見にも、同意し難きふしぶしがある。さり乍らそれは決して海舟の偉大を高下するものでない。海舟の偉大は、終始一代の救済を以て任とし、確然として大本を守り、事に当れば至誠一發、驚くべき細心と大胆不敵とを以て断行し善処し去るところにある。

 

そは巖本翁が言へる如く、天凛すでに凡ならざる上に、之を磨くに五十年の境を以てし、六十年の苦学を以てせる鍛練の結果に外ならない。智略に富む者は胆力に乏しく、剛胆なる者は思慮を欠く、滾々不尽の智略と、寸隙も遅疑せざる果敢の決意とを兼備せる海舟の如きは真に希有非常の人物とせねばならない。

 

     

 巖本翁の『海舟座談』は、かくの如キ偉人の談話を筆記せるもの。日く『先生の高談、興来り意気隆んなれば奔馬の如く、其の閑寂なるや少言深沈、千斤の重きを引くが如し。茲に清話の調を見めす。其の勃率として起る所、もしくは聯想連感、縄々転々として次々の題目に移る所、一に当現の風状を写す。故に暫く忌避すべき条目の外、一句を増減せず。

 語辞は萇の日直ちに筆記したるものなれに、大抵真に違はじと思へり、然れども余が先生高談の調を感銘して毎夜之を其儘に筆記したる習慣は、歳月と共に練熟し、後年に及んでは稍や自ら許すと雖も、前年の品に至りては、単に筋骨理路を写すに止まりたるものあり、頗る安んせす。故に左に編載するに於て、近きを先にし、遠きを後にして、倒叙の方を用ゆ。読者をして先生高談の声調に慣れしめ、而して後らに他に及ばんと欲するが為め也』と。

 

 語る人と書く人と、意気投合して互に感応道交せること斯くの如くなるは、是亦希有珍重の沙汰と言にねばならぬ。此書が世上の所謂談話筆記ものと、截然その選を異にする所以である。予は若干の章句を下に引用して、此書が如何に海舟の面目を躍如たらしめて居るかの実証を示すであらう。

 

 海舟日く、若い時は本が嫌ひで、手紙でも書きはしなかった。元、剣術の方だからネ。四年ほど押込められている時に、隙で仕様ないから読書したのサ。朝は西洋サ、昼は漢書、夜は日本の書で、雑書で、大抵読だよ。もう四年もやれば、余程の学者になる、本読みになるのは楽なものだと、さう思ったよ。剣術の前は禅学サ。夫でも、今の様な禅学ではないよ。夫でも技には限りがあるから、其上は心法だ。至誠を明かにせねばならぬ。後にはつまらない事をしたと思ったが、事に当った時役に立ったよ。

 

――己は先づ五十年で、これが家の難局に一番長く当ったものだ。田舎の議員が来て生意気なことを言ふから、『馬鹿奴、うぬ等にわかってたまるものか』と怒ってやった。『お前に己が米の事を言っても信じやすまい。笑ふだらう。己に政治の事を言ふのは、お前に米の事を言ふやうなものだ。こっちは五十年政治で飯を食ってるものだ』言ってやった。大臣になるのならんのって、そんな事より外に御奉公がしてある。先々月も、お上へそう申上げたのサ。徳川家から献上ものをする筈でありますが、夫は致しません。こう勤倹をして慎んで居りますのが、御奉公と思ひますからと言ったのだ。此でも夫相応の奉公はしてあるよ。

――此間も、国家の大事だと言って来て言ふ人があるからハアそうですかと言ったのサ。スルト、あなたは枢密顧問で居て、国家の大事をお構ひななさらんと言うから、お前方がそう構ふから、私等は構わんでもいいと言ふたのサ。

 内の権助が、飯もたかないで、勝家の一大事と言って騒ぎ廻って、其上スリコギを振り廻して、お三と喧嘩をやら貸すと困るよ。飯をたく事は善くたいて、其上の心配は、忠実に、心の中で仕て居れば、いいではないか。

――時勢の変りといふものは、妙なもので、人物の値打ちがガラリと変わって来るよ。どうも其事が分からな勝田がネ。今から三十二年前に、初めて分かったよ。ワシガ抜擢されて、其ころ上の者と初めて一つの会議などに出た処が、カラキシ一つも知らない。夫は夫はひどいものだ。どうして之で事が出来たものかと思って、不思議なほどであつたが、その時切めて、勢いの転ずる具合が分かった。

 

―― 一つ大本を守って、しっかりした所さへあれば、騒ぎのあるのは反って善いのだと言ふけれども、どうも分からないネ。一つ大本を守って、夫から変化して行くのだ。その変化が出来にくいものと見える。

―― 古庄等は、川上玄哉の仲間サ。東北連合は、実に彼等の謀略サ。いよいよ連合も出来ましたと言ふて、帰りに来たから善く分かったよ。東北は、少なくとも二年位は持つと思って居たヨ。スルト薩長が力を尽してあちらに向かふから其虚に乗じて大阪に打って出て、良堂を絶ち、西京の天子を抱くといふ虚講だつた。あの当時、アア云う計画をしたのは、アノ仲間ばかしだつたよ。川上と云ふのは、夫はひどい奴サ。コワクテコワクテならなかつたよ。たとへば斯う話して居てサ。嚴本と云ふものは野心があるなどと云ふ話が出ると、ハハアそうですかなどと空●(不鮮明、文字不明)いてとぼけて居るが、其日、スグと切れて仕舞ふ。そしてあくる日は、例の如くチャンとすまして来て少しも変らない。喜怒色に現はれずだよ。あまり多く殺すから、或日ワシはそう言った。『あなたのように多く殺しては、実に可哀相でありませんか』と、言ふと『ハハアあなたは御存じですか』と言ふから、『夫は分かって居ます』と云ふと、落付き払ってネ。 

『それはあなたいけません、あなたの畠に作った茄子や胡爪は、どうなさいます。善い加減のトキにちぎって、沢庵にでもおつけなさるでせう。アイツらは夫と同じことです。どうせあれこれと言ふて聞かせてはダメデス、早くチギッテ仕舞ふのが一番です。アイツらは幾ら殺したからと言って、何でもありまん』と言ふのよ。己れにそう言った『あなた、そう無第作に人を殺すのだから、或いは己などもネラワレルことがあらうから、そう言つて置きますが、だまって殺されては困るから、ソンナ時は左様言ふて下さい。尋常に勝負しませう』と言ふとネ、『ハハア、御じやうだん斗り』と言つて笑ふのだ。仕末にいけやしない。
 竹添などにそう話すとネ、少しも信じないよ。『アナタはそう仰るけど、そう云ふ人物ではありません』テツて少しも疑わない。夫はひどい人物だよ。

 

     

 

 以上の引例は、僅かに片鱗を示せるに過ぎない。巖本翁が刻苦して筆録せる海舟の数々の談話のうちには、江戸城明渡し前後の若心談がある。維新元勲並びに明治政治家諸公の人物月旦がある。徳川政治の本質に関する説明がある。

 事に対する辛辣なる批判がある。泥棒仲間の生活についての講釈もある。明治以来徳川家の為に尽せる濃かな心づ可否についての述懐もある。話台複雑にして豊富なる、語調の活殺自在なる、諷刺の適切なる、まことに応説に遑なからしれるものがある。而して全篇を貫いて最も冷厳にして、而も最も熱烈なる憂国至誠の心が周流して居る。

 

 附録として海舟の近侍者思出でを聴取り、其儘筆記したるを取載して居るのも、また親切なる用意である。情脆いたちであり乍ら、どこか意地悪く、無類に辛抱強くて同時に激しい癇癪持ちであり、大局に通ずると共に何な細かいことにも気がつき、世態人情を知り抜いて居る『人間勝安房』の面目を、飾りなく述べて居るので、此の偉大なる江戸児の面影が、ありありと眼前に浮んで来る。

 予は同志諸君が此の書を一読せられんことを望んで止まない。之を読む者は、其人の性格境遇に応じて、必すそれそれ適切なる教訓を得るであらう。海舟の所謂『時勢の転変』が切迫しつつある時、維新の転変に善処せる此の英雄の行蔵を知ることは、吾等にとりて切実なる修行の一である。

               (昭和五年十一月『月刊日本』第六十八号)



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