日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

福沢諭吉『福翁自伝』大村益次郎)の変態、下ノ関の攘夷  

2019-02-02 21:57:25 | 福澤諭吉

福沢諭吉『福翁自伝』

 

緒方先生の急病村田蔵六(後に大村益次郎)の変態 
 所で京都の方では愈(いよい)よ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。
ソレで和蘭
(オランダ)の商船が下ノ関を通ると、
下ノ関から鉄砲を打掛
(うちか)けた。
けれども幸に和蘭船は沈みもせずに通ったが、
ソレがなかなか大騒ぎになって、
世の中は益々恐ろしい事になって来た。
所でその歳の六月十日に緒方洪庵先生の不幸。

 その前から江戸に出て来て下谷(したや)に居た緒方先生が、
急病で大層吐血(とけつ)したと云う急使(きゅうつかい)に、
私は実に胆を潰(つぶ)した。

 その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子を知って居るのに、
急病とは何事であろうと、
取るものも取り敢えずえず即刻 宅(うち)を駈出して、
その時分には人力車も何もありはしないから、
新銭座から下谷まで駈詰(かけづめ)で緒方の内に飛込んだ所が、
もう縡切(ことき)れて仕舞った跡。

 是れはマア如何(どう)したら宜かろうかと丸で夢を見たような訳け。

 

 道の近い門人共は疾(と)く先に来て、
後から来る者も多い。

 三十人も五十人も詰掛けて、
外に用事もなし、
今夜は先ずお通夜として皆起きて居る。

 所が狭い家だから大勢座るる処もないような次第で、
その時は恐ろしい暑い時節で、
坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、
私は夜半玄関の敷台(しきだい)の処に腰を掛けて居たら、
その時に村田蔵六(後に大村益次郎)が私の隣に来て居たから、
「オイ村田君――君は何時(いつ)長州から帰って来たか。」
「この間帰えった。」
「ドウダエ馬関では大変な事を遣(やっ)たじゃないか。」
「何をするのか気狂(きぐるい)共が、呆返(あきれかえっ)た話じゃないか」と云うと、

村田が眼に角を立て、
「何だと、遣たら如何(どう)だ。」
「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。」

「気狂いとは何だ、怪(け)しからん事を云うな。
  長州ではチャント国是(こくぜ)が極まってある。
  あんな奴原(やつばら)に我儘(わがまま)をされて堪(たま)るものか。
 殊(こと)に和蘭(オランダ)の奴が何だ、
 小さい癖に横風な面(つら)して居る。
 之(これ)を打攘(うちはら)うのは当然(あたりまえ)だ。
 モウ防長の士民は悉(ことごと)く死尽(しにつく)しても許しはせぬ、
 何処(どこ)までも遣るのだ」と云う
その剣幕は以前の村田ではない。

 実に思掛けもない事で、
是れは変なことだ、
妙なことだと思うたから、
私は宜加減(いいかげん)に話を結んで、
夫れから箕作の処に来て、大変だ大変だ、
村田の剣幕は是れ是れの話だ、
実に驚いた、

と云うのはその前から村田が長州に行ったと云うことを聞いて、
朋友は皆心配して、
あの攘夷の真盛(まっさか)りに村田がその中に呼び込まれては身が危うい、
どうか径我のないようにしたいものだと、
寄ると触ると噂をして居る其処(そこ)に、
本人の村田の話を聞て見れば今の次第、
実に訳けが分らぬ。

 一体村田は長州に行て如何にも怖いと云うことを知て、
そうして攘夷の仮面を冠(かぶっ)て態(わざ)とりきんで居るのだろうか、
本心からあんな馬鹿を云う気遣(きづかい)はあるまい、
どうも彼(あれ)の気が知れない。

「そうだ、実に分らない事だ。
  兎にも角にも一切彼(あ)の男の相手になるな。
  下手な事を云うとどんな間違いになるか知れぬから、
  暫(しばら)く別ものにして置くが宜い」と、
箕作(みつくり)と私と二人云い合して、

夫れから外の朋友にも、
村田は変だ、滅多な事を云うな、
何をするか知れないからと気を付けた。

 是れがその時の実事談で、
今でも不審が晴れぬ。
当時村田は自身防禦の為めに攘夷の仮面を冠て居たのか、
又は長州に行て、
どうせ毒を舐めれば皿までと云うような訳けで、
本当に攘夷主義になったのか分りませぬが、
何しろ私を始め箕作秋坪その外(ほか)の者は、
一時彼に驚かされてその儘(まま)ソーッと棄置(すておい)たことがあります。


外交機密を写取る

 文久三年癸亥(みずのとい)の歳は一番喧しい歳で、
日本では攘夷をすると云い、
又英の軍艦は生麦一件に就ついて大造(たいそう)な償金を申し出しだして幕府に迫ると云う、
外交の難局と云うたらば、
恐ろしい怖い事であった。

 その時に私は幕府の外務省の飜訳局に居たから、
その外国との往復書翰は皆見て悉(ことごと)く知って居る。

 即、ち英仏その他の国々から斯う云う書翰が来た、
ソレに対して幕府から斯う返辞を遣った。

 又 此方(こっち)から斯う云う事を諸外国の公使に掛合(かけあい)付けると、
彼方(あっち)から斯う返答して来たと云う次第、
即ち外交秘密が明かに分かって居なければならぬ筈。

 勿論その外交秘密の書翰を宅に持って帰ることは出来ない、
けれども役所に出て飜訳するか或(あるい)は又外国奉行の宅に行って飜訳するときに、
私はちゃんとソレを暗記して置いて、
宅に帰ってからその大意を書いて置く。

 例えば生麦の一件に就て英の公使から来たその書翰の大意は斯様(かよう)斯様、
ソレに向かって此方から斯う返辞を遣(つか)わしたと云うその大意、
一切外交上往復した書翰の大意を、
宅に帰ては薄葉(うすよう)の罫紙に書き記しるして置いた。

 ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。
唯 親友間の話の種にする位の事にして置たが、
随分面白いものである。

 所が私はその書き付けを一日(あるひ)不意と焼いて仕舞った。


脇屋卯三郎の切腹

 焼て仕舞たと云うことに就て話がある。
その時に何とも云われぬ恐ろしい事が起こった、
と云うのは神奈川奉行組頭、
今で云えば次官と云うような役で、
脇屋卯三郎と云う人があった。

 その人は次官であるから随分身分のある人で、
その人の親類が長州に在って、
之に手紙を遣った所が、
その手紙を不意と探偵に取られた。

 その手紙は普通の親類に遣る手紙であるから何でもない事で、
その文句の中に、
誠に穏やかならぬ御時節柄で心配の事だ、
どうか明君賢相が出て来て何とか始末をしなければならぬ云々と書いてあった。

 

 ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、
何々、天下が騒々敷(そうぞうし)い、
ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいと云えば、
是れは公方様を蔑(ないがし)ろにしたものだ、
即ち公方様を無きものにして明君を欲すると云う所謂、
謀反人(むほんにん)だと云う説になって、
直ぐに脇屋を幕府の城中で捕縛して仕舞った。

 丁度私が城中の外務省に出て居た日で、
大変だ、
今脇屋が捕縛(ほばく)されたと云う中に、
縛られては居ないが同心を見たような者が付いて脇屋が廊下を通って行った。

 何(いず)れも皆驚いて、
神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だと云いて、
その翌日になって聞いた所が、
今の手紙の一件で斯(こ)う斯う云う嫌疑だそうだと云う。

 夫れから脇屋を捕まえると同時に家捜(やさが)しをして、
そうしてその儘(まま)当人は伝馬町に入牢を申付けられ、
何かタワイもない吟味の末、
牢中で切腹を申付られた。

 その時に検視に行った高松彦三郎と云う人は
御小人目付(おこびとめつけ)で私の知人だ。

 伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、
後で彦三郎が私に話しました。

 ソコで私も脇屋卯三郎がいよいよ殺されたと云うことを聞て酷(ひど)く恐れた、
その恐れたと云うのは外ではない、
明君 云々と云った丈けの話で彼が伝馬町の牢に入れられて殺されて仕舞た、

  爾(そ)うすると私の書き記(しる)して置たものは外交の機密に係(かか)る恐ろしいものである。

 若しこれが分りでもすれば直ぐに牢に打込(ぶちこ)まれて首を斬られて仕舞うに違いないと斯(こ)う思ったから、
その時は私は鉄砲洲に居たが、
早々その書き付を焼て仕舞ったけれども、
何分気になって堪(たま)らぬと云うのは、
私がその書付の写しか何かを親類の者に遣ったことがある、
夫れから又肥後の細川藩の人にソレを貸したことがある、
貸したその時にアレを写しはしなかったろうかと如何(どう)も気になって堪(たま)らない、
と云って今頃からソレを荒立てゝ聞きに遣(や)れば又その手紙が邪魔になる、
既に原本は焼て仕舞たがその写しなどが出て呉(く)れなければ宜(よ)いが、
出て来られた日には大変な事になると思(おもっ)て誠に気懸(きがか)りであった。

 

 所が幸に何事もなく王政維新になったので、
大きに安堵して、
今では颯々(さっさつ)とそんな事を人に話したりこの通りに速記することも出来るようになったけれども、
幕府の末年には決して爾(そ)うでない、
自分から作った災いで、
文久三年亥歳(いどし)から明治元年まで五、六年の間と云うものは、
時の政府に対して恰(あたか)も首の負債を背負(しょい)ながら、
他人に言われず家内にも語らず、
自分で自分の身を窘(くるし)めて居たのは随分悪い心持でした。

 

 脇屋の罪に較(くら)べて五十歩百歩でない、
外交機密を漏らした奴の方が余程の重罪なるに、
その罪の重い方は旨く免かれて、
何でもない親類に文通した者は首を取られたこそ気の毒ではないか、
無惨ではないか。

  人間の幸不幸は何処(どこ)に在るか分らない、
所謂因縁でしょう。この一事でも王政維新は私の身の為めに難有(ありがた)い。
 

 夫れは扨(さて)置き、
今日でも彼の書いたものを見れば、
文久三年
の事情はよく分って、
外交歴史の材料にもなり、
(すこぶ)る面白いものであるが、
何分にも首には易(か)えられず焼いて仕舞ったが、
若しも今の世の中に誰か持って居る人があるなら見たいものと思います。

 

下ノ関の攘夷  

 夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、
長州の下ノ関では只和蘭船を撃つばかりでなく、
その後(のち)亜米利加の軍艦にも発砲すれば、
英吉利の軍艦にも発砲すると云うような訳けで、
到頭その尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に捩込(ねじこ)んで、
三百万円の償金を出せと云うことになって、
捫着(もんちゃく)の末、遂にその償金を払うことになった。

 けれども国内の攘夷論はなかなか収まりが付かないで、
到頭仕 舞いには鎖国攘夷と云うことを云わずに新たに鎖港と云う名を案じ出して、
ソレで幕府から態々(わざわざ)池田播磨守と云う外国奉行を使節として仏蘭西まで
鎖港の談判に遣わすと云うような騒ぎで、
一切 滅茶苦茶、
暗殺は殆んど毎日の如く、実に恐ろしい世の中になって仕舞った。

 爾(そ)う云う時勢であるから、
私は唯一身を慎しんでドウでもして
(わざわい)を逭(のが)れさえすれば宜いと云うことに心掛けて居ました。



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