パル判事の碑文 (靖国神社)
東條英機 宣誓供述書
ソ連並びにコミンターンとの関係
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日本は未だ嘗て検察側の主張するが如き、
ソ連邦に対し、侵略を為せることは勿論、之を意図したこともありません。
我が国は寧ろソ連邦の東亜侵略に対し戦々競々其の防衛に腐心し続けて来たのであります。
殊に昭和7年(1932年)満州国の成立後に於いては、日本はその防衛の必要と、
日満共同防衛の盟約とに基づき同国と協力し、
隣邦ソ連に対し、満州国の治安確保とその防衛に専念し来たのであります。
而して日本陸軍としては、
此の目的を達成するための軍備整備の目標を主としてソ連極東軍に置いて居たのであります。
従って、日本陸軍の対「ソ」作戦計画の本質は対「ソ」防衛であります。
其の計画の内容に攻撃の手段を含んで居りますが、
之は国家が万が一開戦を強いられた場合に於て採るべき戦闘手段を準備計画せるものであり、
我方より進んで戦争することを意味するものではありません。
又、決して侵略を目的にしたものでないことは勿論であります。
尚ほ大東亜共栄圏に西シベリア地域を国家の意思として考えたこともありません。
本法廷に於て検察側より所謂『関特演』計画に関することが証拠として提示されて居りますが、
これとても此の範囲に出づるものでなく、且これは一に資財、人員の補充を計ったものであります。
他面日本の対ソ外交は常にソ連邦との間に『静謐保持』を以て一貫して居ったのであります。
支那事変次で太平洋戦争発生以後に於ては、日本は北辺に事無からんことを常に細心の注意を払ひ
殊に1940年(昭和15年)4月、ソ連邦との間に、日ソ中立条約の締結を見たる以後に於ては、
これが堅持を基本として対「ソ」平和政策を律し来たのでありまして、
1945年(昭和20年)8月同条約の有効期間に之を破って侵略を行ったのは日本ではありませんでした。
他面帝国は第三「インターナショナル」の勢力が東亜に進出し来ることに関し深き関心を払ってきました。
蓋し、共産主義政策の東亜への浸透を防衛にあらざれば、
国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を撹乱し、
延いて世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。
之がため、国内政策としては1925年(大正14年)治安維持法を制定し(若槻内閣時代)
1941年(昭和16年)更に之を改定し、
以て国体変革を戒め、私有財産の保護を目的として共産主義による破壊に備へ、
又対外政策としては、支那事変に於て中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるに鑑み、
共同防衛を事変解決の一条件とせることも、
又東亜各独立国家間に於て『防共』を以て共通の需要政策の一つとしたることも、
之はいづれも東亜各国協同して東亜を赤化の危険より救ひ、且自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。
此等障壁が世界平和のため如何に重要であったかは、
第二次世界大戦終了後此の障壁が崩壊せし2年後の今日の状況が雄弁に之を物語って居ります。