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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

石原莞爾著『非常時と日本の国防』 山口白雲 『我觀 石原莞爾』

2022-09-05 11:36:42 | 石原莞爾

   
  

 我觀石原莞爾 山口白雲 
  


人を知るといふことは容易の事でない。面談二三回を以て、石原氐のやうな巨材を云為することは、無責任であって自らの軽薄を世に廣告するやうなものだ。私は彼をば寧ろ驚異の眼をみはつて、其の將來を嘱望してゐるだけである。

 

圖南榊原政雄氏は、私の最も尊敬する大先輦であるが,一昨年の春,岡由氏は私に「是非石原君に會って見てくれ、彼位の巨材は現代日本に稀有だたから」とすすめてくれたので、たうとう其の氣になって靑山の寓居を訪ねた。

 

それは石原氏が滿洲事變に大功を樹て、凱旋し、更に壽府に使ひして、その大任を果たして帰朝した直後である。青山の寓居は圖南氏から聞かされた通り驚く可き簡素なものであった。これが世界的雷名を轟かした石原参謀の宅かと思ふと、敬畏の念が先立って、未如の人物ながらも喜ばしく思へた。

 

案内された二階の客室でいよく談話を交はして見ると、何処かにたつぶりしたゆとりがあって、のびのびした氣分が、先づ甚だ私の気に入った。浪人肌で書生氣質で、一切虚飾虚勢をぬきにしたザックバランの中にも、風雲を喚んで、事を一擲に間に决めつけやうとする英雄児の気魄か流露して來る。「体じゆうう皆な何うかしてゐるらしいので医者通ひです」と二三度腹をなでて、時局の事、政界の事をぽつりぽつり談る。

 

渡欧中各地から買込んで來たといふナポレオンに関する十枚か、数百枚かの写真や繪画を座敷ーぱいに拡げて整理していたが、私は、其の前に聞いたが、大ナポレオン研究者だといふ。ナポレオンは理知性の大英雄だが、石原氏の性格はどうもナポレオンのそれとは違って居るらしいなどと考へながら、用談と雑談で思はず時間をつぶした。

これが初對面、その後をまた訪問したが、多く談る機会を得ず、先達來鶴した時も一寸挨拶をかはしただけで別れてしまった。 其後手紙をやつたり、貰ったりしたが、氏と私の間柄はただそれだけのものである。

 

ところが此の間、私の一先輩たる住藤啓代議士から「講演の友」といふ一雑誌を送ってくれた。それに添えた一文の中に「英雄、英雄を知るとは即ちこちとれか」とある。といふのは、これも私の先輩で長い間交際して來た中野正剛氏の教育家の一團に講演した畤の速記中に、偶々石原氏に関する逸話に言及して居る一段についてである。此の中にしみじみと考へさせらるる所があったので、茲に詳解して置かう。

      ×  

昨秋の陸軍大演習は、あらゆる意味に於て最もすぐれた新戰術の応用として注目されたものである。石原氏は第四聯隊長として東軍の阿部信行大將の軍に属した。戦况が漸次高調して、戦雲萬化して行くと、石原軍は一畫夜に亘る強行長駆をなし、疾風迅雷の勢ひを以て敵の中央突破を敢行した。しかもこれは大成功となって、敵軍の行動の自由は奪ひ、赫々たる偉動を奏したのである。然るに此の石原軍の行動は、指令宮の〇〇通りにしなかったといふので問題を惹起した。これに對し氏は次ぎの如くに釈明した。

 

我が第四聯隊は素より指令官の〇〇通りにしやうと心がけてゐたが、刻々變化して行く目前の戦況が、遂に我が軍をして敵の中央突破を敢行させてししまったのである。あの場合、聯隊長たる自分の軍治的良心が、〇〇通りにする事を許さなかったものである。

 

これに對して上官は如何樣に取計らつたかは知らないが、當時各武官は悉く舌を卷いて其の大胆果敢なるに驚いたといふ事である。こんなことは石原氏としてはケロリとやってのけたのであらう。しかも戦ひは右の如く大成功に終はったのだからケチのつけやうがない。

        ×

また此の演習中に石原軍は、糧食を農民に與へたといふことが傳へられた。これも問題となって質問されると、氏は「自分は聯隊長としてそんな命令を下さなかった」といふ。そこでだんだん調べて見ると、さういふ命令は下ってゐないが、部下の將士が農家に泊って非常な優遇を受けた。が、よく見ると農家は極度の窮狀で氣の毒でたまらない。これに感激した將士達は、これでは相済まねといふわけで糧食を分けてやったものと判った。

 

石原軍には常にさういふ精神的調練が徹底されてゐて、農民をあはれむ、農民を助けたい、そして彼等と一枚になって行かないと戦爭には勝てない。從って一毫と雖も農民を侵してはならぬ、寧ろ積極的に庇ふといふ精神が、石原軍の建前となって居たので、それがたまたま糧食問題となってあらはれたものらしい。
更に氏の部下を思う眞情は,荒木大將が特命検閲使として第四聯隊を検閲した時に,遺憾なく事實となって物語られた。

          ×

荒木大將がいよいよ第四聯隊に行って見ると,聯隊の空地に藥草が植えられ,アンゴラ兎が澤山飼育されて居る。そして兵隊にそれ等の栽培法や飼育を教へて居るのであった。石原氏は笑ひながらそれ等を紹介して「軍隊でかういふ様なことをやってゐるのは,何うか思ひますが、ととに角當聯隊ではやって居ります」とありのままに検閲を請ふた。氏は兵が隊を出て家に帰ってからも斯ういふこと位は知って居るがいいと思ったらうし,戦争が長びくゆや、滿洲のやうな土地に駐在するときに役立つとも考へてやった事であらう。が、軍隊としては破天荒のことで、果してそんなことが規定上許されるか、どうかわからないとすると隠して置くのが普通の人情たが、氏は頓着なしに赤裸々に見て貰ったのである。

其の他色々質問を受けたが、すべてザックバランである。荒木大將はいよいよ「將校の成績表は?」とうながした。これは聯隊内の全將校の成績性能を書いた表であって、検閲使にとって最も大切な資料の一つである。

           ×  

ところが「ハイ」といって早速持ち出したのを見ると全くの白紙である。さすがの荒木大將も驚いて「これはどうしたことじゃ,白紙でないか」といへば、「ご覧の通り白紙であります」と答へ、次いで説明する所によると次ぎのやうであった。

 

『親であっても予供の性能を知悉することは非常に困難である。まして自分がこの聯隊に 赴任してから一二年しかたってゐない。この短日月で聯隊中の將校全部の性能を知り悉くすことは出來なかった。かりに前任者の調査したものを其の儘提出するとせば、誠に簡単あるが、それは到底自分には出來ない。且つ自分は何十人といふ將校に對して、眞にその性能にマークを打って誤まる所なき程の見識を持ってゐないし、それで居て無理にマークを打つて人の一生の運命をわやまらしてはならぬと信じたので、此の通りに白紙にして置く外はなかった。今暫くジッとして見て居たいと思ふが、強いて申上げやうものなら當聯隊の気風は少し鈍重ではあるが、精神も紀律も確かりして居る』
体、右のような説明をして平然として居る。この型破りの報告を受けた検閲は、さすがは荒木大将であった。
「うん,さうであるか」とたった一言いつた切りで、白紙の成績表を畳んだ。そして最後にに於ける講評に於いて大将は次の如く結論した。

『第四聯隊の訓練法はすべて尋常一様でなく,常規を以て律すべからざるものあるも、其 の成績抜群なるもあるをを思はざるを得ない』 
荒木大将は夙に石原氏の巨材なるを知って居る。特に満洲事變第一の殊勲者として敬意も払って居るし、それに大將それ自身がまたあの通りすぐれた人物だったから事なきを得たたであらうが、もし兩方のうちどちらかが間違ったら大燮な事になったかも知れない。だが自分をまげて都合のいい樣な事を報告する人物とは全くケタが違う。しかもこれなども部下を思ふ至情から出發したものであって、一つの美談として永遠に傳へてもいいことである。中野氏が感激して之を教育家の一群に話したのも、よき引例として私は敬服した。

                X

白井重士氏は、時々私に石原氏のことを話してくれるが、白井氏はいふ迄もなく石原氏の叔父さんだ。その叔父さんの白井氏のいふには

『石原は、甥ではあるがすぐれた男だと思ってゐる。滿洲事燮前などは、長い間行衛を家人にすら晦まして画策してゐた。書物も非常に讀むが、一讀してこれはいい本だと思ふと友人や部下にわけてやる。蔵って置くなどといふ事は殆んどしない。無慾で片端から自分のものをどしどし呉れてやって、遺して置くといふやうなことはしない。思った事は飽く迄で実践断行する。だから上官の覚えなどはよからうはずがないし,自由経済打倒といふ建前から、現時代の支配階級、特に財閥からは睨まれてゐる。戦爭中は働くが戦爭が濟むと敬遠されて了ひさうた。それは止むを得ない』

と氏の將來を案じながら觀てゐるやうである。事責あのやうな非凡な人物になると「髙木風あたり強し」で、運命の波に非常な高下あるは免れ難いだらう。人物が偉ければ偉いほど,無限に高く飛躍し、またときには底なしの谷に落ちる、石原氏の崇敬してゐるナポレオンなども,實をいふとその好模範だった。人間それでよろしい。石原氏などは志にして容れられずんは、去って更に別天地に自由な活躍をして皇國の爲めに盡くすだらう、それもいいことであり、事實さういふ肚で居るかも知れない。少將となり,中將となり、大將となって大きな風のやうな勲章をブラ下げて見たいなどといふやうな子供らしい考えを持って居ない所に、石原莞爾の本領がある。

           ×

前述したやうに當代政界の風雲児中野正剛氏などは、随分と石原氏に接近し、到る所で氏の億材なる所以を吹聴して居るやうだがその中野氏をすら石原氏は「あの男にもっと勇氣があるとよいが……」と白井の叔父さんに談ったさうだ。あの無類の豪傑の中野氏がこれを聞いたら何と云ふだらうと思ふと愉快なことである。それ程石原氏は勇断の士でもあるのだ。情・知・勇の三つがとに角に兼ね備なはつている。天才的軍人ではあるが、普通の天才でない。いな軍人としての天才としてよりも、私は人側として彼は巨材だと思ってゐる。それは恐らくここ十年と立たずに,事實となって世に現はれるだらうことを私は信じてゐる。   
 
    (完)

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