日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

吉田松陰 「留魂録」

2023-04-10 23:14:33 | 吉田松陰

留魂録

  吉田松陰

 

身はたとひ 
  武蔵の野辺に朽ちぬとも
    留とどめ置かまし大和魂 

    十月念五日     二十一回猛士 

 

 一、  余、去年已来(いらい)心蹟百変、あげて数へがたし。
なかんづく、趙(ちよう)の貫高を希(こひねが)ひ、
(そ)の屈平を仰ぐ、諸知友の知るところなり。

ゆゑに子遠が送別の句に
「燕(えん)(ちよう)の多士一の貫高。荊楚深く憂ふるは只屈平」
といふもこのことなり。 

しかるに五月十一日関東の行を聞きしよりは、
また一(いつ)の誠字に工夫をつけたり。
ときに子遠、死字を贈る。

余これを用ひず、一白綿布を求めて、
孟子の「至誠にして動かざる者は、いまだこれ有らざるなり」の一句を書し、
手巾へ縫ひつけ、携(たづさ)へて江戸に来たり、
これを評定所に留め置きしも、わが志を表するなり。

 去年来のこと、恐れ多くも天朝・幕府の間、
誠意あひ孚(ふ)せざるところあり。

天、いやしくもわが区々の悃誠(こんせい)を諒したまはば、
幕吏かならずわが説を是ぜとせんと志を立てたれども、
「蚊蝱(ぶんばう)山を負ふ」の喩(たとへ)
つひに事をなすことあたはず今日に至る、
またわが徳の菲薄なるによれば、
いま将(は)た誰れをか尤(とが)め、かつ怨まんや。 


一、七月九日、はじめて評定所呼び出しあり。
三奉行出座、尋鞠(じんきく)の件、両条あり。
一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をなせしや。

二に曰く、御所内に落文(おとしぶみ)あり、
 その手跡汝に似たりと源次郎そのほか申し立つる者あり、覚ありや。 

 この二条のみ。
それ梅田は、もとより奸骨(かんこつ)あれば、
余ともに志を語ることを欲せざるところなり、
何の密議をなさんや。

わが性、公明正大なることを好む、
(あ)に落文なんどの隠昧(いんまい)のことをなさんや。 

 余、ここにおいて六年間幽囚中の苦心するところを陳じ、
つひに、大原公の西下を請ひ、
鯖江侯を要する等のことを自首す。

鯖江侯のことに因りて、つひに下獄とはなれり。 


一、わが性、激烈怒罵に短かし。
つとめて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。
これをもつて吏に対して幕府違勅の已(や)むをえざるを陳じ、
しかるのち当今的当の処置に及ぶ。

その説つねに講究するところにして、
つぶさに対策に載するがごとし。

これをもつて幕吏といへども甚だ怒罵することあたはず、
ただちに曰く、「汝陳白するところことごとく的当とも思はれず。

かつ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届きなり」。
余また、ふかく抗せず、
「ここをもて罪を獲るは万々辞せざるところなり」といひてやみぬ。 

 幕府の三尺(せき)、布衣(ほい)、国を憂ふることをゆるさず。
その是非、われ曽(か)つて弁争せざるなり。

聞く、薩の日下部以三次は対吏の日、
当今政治の欠失を歴詆して
「かくのごとくにては往先三五年の無事も保しがたし」
といひて鞠吏を激怒せしめ、
すなわち曰く
「これをもつて死罪をうるといへども悔いざるなり」と。 

 これ、われの及ばざるところなり。
子遠の死をもつてわれに責むるも、またこの意なるべし。
  
唐の段秀実(だんしうじつ)、郭曦(かくぎ)においては彼がごとくの誠悃、
朱泚(しゆせい)においては彼がごとくの激烈、
しからばすなはち英雄おのづから時措のよろしきあり。
  
要は内に省(かへりみ)て疚(やま)しからざるにあり。

 そもそもまた人を知り幾を見ることを尊ぶ。
 
われの得失、まさに蓋棺(がいくわん)の後を待ちて議すべきのみ。 


一、この回の口書(くちがき)、はなはだ草々なり。
七月九日ひととほり申し立てたる後、
九月五日、十月五日両度の呼び出しもさしたる鞠問もなくして、
十月十六日に至り、口書読み聞かせありて、
ただちに書判(かきはん)せよとのことなり。
 余が苦心せし墨使応接・航海雄略等の論、一も書載せず。

ただ数個所開港のことをほどよく申し述べて、
国力充実の後、お打ち払ひしかるべくなど、
わが心にもあらざる迂腐(うふ)の論を書きつけて口書となす。

われ、言ひて益なきを知る。
ゆゑにあへていはず。
不満のはなはだしきなり。
甲寅の歳、航海一条の口書に比するときは雲泥(うんでい)の違ひといふべし。


一、七月九日、ひととほり大原公のこと、
鯖江要駕のことなど申し立てたり。
はじめ意(おも)へらく、これらのこと、
幕にもすでに諜知すべければ、
明白に申し立てたる方、かへつてよろしきなりと。

すでにして逐一(ちくいち)口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。

よつて意へらく、幕にて知らぬところを強ひて申し立て、
多人数に株蓮(しゆれん)蔓延(まんえん)せば、
善類を傷(そこな)ふこと、すくなからず、
毛を吹いて瘡を求むるにひとしと。 

 ここにおいて鯖江要撃のことも要諌とはいひかへたり。

また京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名など、
なるべきだけは隠して具白せず。

これ、われ後起人のためにする区々の婆心なり。
しかして幕裁、はたしてわれ一人を罰して、
一人も他に連及なきは実に大慶といふべし。

同志の諸友、ふかく考思せよ。 


一、要諌一条につき、事遂げざるときは鯖候と刺(さし)ちがへて死し、
警衛の者要蔽(ようへい)するときは切り払ふべきとのこと、
実に吾がいはざるところなり。
しかるに三奉行強ひて書載して誣服(ぶふく)せしめんと欲す。
 
誣服は吾れあへて受けんや。
ここをもつて十六日、
書判の席にのぞみて石谷・池田の両奉行と大いに争弁す。
吾れあへて一死を惜しまんや。
両奉行の権詐に伏せざるなり。 


 これよりさき九月五日、十月五日、両度の吟味に、
吟味役までつぶさに申し立てたるに、死を決して要諌す、
かならずしも刺しちがへ、切り払ひなどの策あるにあらず。

 吟味役つぶさにこれを諾して、
しかもかつ口書に書載するは権詐にあらずや。

 しかれどもことすでに爰(ここ)に至れば、
刺しちがへ・切り払ひの両事を受けざるは、かへつて激烈を欠き、
同志の諸友また惜しむなるべし。

 吾れといへども、また惜しまざるにあらず。
しかれども反復これを思へば、成仁の一死、区々一言の得失にあらず。

 今日、義卿、奸権のために死す、
天地神明照鑑上にあり、なに惜しむことかあらん。 


一、吾れ、この回はじめ、もとより生を謀(はか)らず、また死を必せず。
ただ誠の通塞をもつて天命の自然に委したるなり。
七月九日に至りてはほぼ一死を期す。

ゆゑにその詩にいふ、
「継盛ただまさに市戮に甘んずべし、倉公いづくんぞまた生還を望まんや」と。 

 その後、九月五日、十月五日、吟味の寛容なるにあざむかれ、
また必生を期す、またすこぶる慶幸の心あり。
この心、吾れこの身を惜しむために発するにあらず。

そもそも故あり。
 
 去臘大晦、朝議すでに幕府に貸(ゆる)す。
今春三月五日、吾が公の駕、すでに萩府を発す。
吾が策ここにおいて尽き果てたれば、死を求むることきわめて急なり。

 六月の末、江戸に来たるにおよんで夷人の情態を見聞し、
七月九日獄に来たり、天下の形勢を考察し、
神国の事、なほなすべきものあるを悟り、
はじめて生を幸とするの念勃々ぼつぼつたり。 

 吾れもし死せずんば、勃々たるもの決して汨没(こつぼつ)せざるなり。
しかれども十六日の口書、三奉行の権詐、
吾れを死地におかんとするを知りてより、
さらに生を幸ねがふの心なし、これまた平生学問の得力しかるなり。 


一、今日死を決するの安心は四時の順環において得るところあり。 
けだし彼の禾稼(くわか)を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。
秋冬に至れば人みなその歳功の成るを悦び、
酒を造り醴(れい)を為(つく)り、村野歓声あり。
いまだかつて西成にのぞんで歳功の終はるを哀かなしむものを聞かず。 

 吾れ行年三十。
一事成ることなくして死して、禾稼のいまだ秀でず実らざるに似たれば、
惜しむべきに似たり。

しかれども義卿の身をもつていへば、これまた秀実のときなり、
何ぞかならずしも哀しまん。
何となれば人寿は定まりなし。

禾稼のかならず四時を経るごときにあらず。
十歳にして死する者は十歳中おのづから四時あり。

二十はおのづから二十の四時あり。
三十はおのづから三十の四時あり。
五十、百はおのずから五十、百の四時あり。

十歳をもつて短しとするは、蟪蛄(けいこ)をして霊椿たらしめんと欲するなり。
百歳をもつて長しとするは、霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。
斉しく命に達せずとす。

 

 義卿三十、四時すでにそなはる、また秀でまた実る。
その秕(しひな)たるとその粟たると、わが知るところにあらず。

もし同志の士、その微衷をあわれみ継紹(けいせう)の人あらば、
すなはち後来の種子いまだ絶えず、おのづから禾稼の有年に恥ぢざるなり。
同志それ、これを考思せよ。 


一、東口揚屋(あがりや)に居る水戸の郷士堀江克之助、
余いまだ一面なしといへども真に知己なり、真に益友なり。

余に謂(い)つて曰く、
「昔、矢部駿州は桑名侯へお預けの日より絶食して敵讐を詛(のろ)ひて死し、
 果たして敵讐を退けたり。
 いま足下もみづから一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払はれよ、
 一心を残し置きて給はれよ」
 と丁寧に告戒せり。 

 吾れ、まことにこの言に感服す。
また鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。

 余に告げて曰く、
「いま足下の御沙汰もいまだ測られず、
 小子は海外におもむけば、天下のことすべて天命に付せんのみ。
 ただし天下の益となるべきことは同志に托し後輩に残したきことなり」と。 

 この言、大いに吾が志を得たり。
 吾れの祈念を籠むるところは、
同志のかひがひしく吾が志を継紹して尊攘の大功を建てよかし、なり。

 吾れ死すとも堀・鮎二子のごときは海外にありとも獄中にありとも、
吾が同志たらん者、願はくは交を結べかし。

 また本所亀沢町に山口三蟪といふ医者あり。
義を好む人と見えて、堀・鮎二子のことなど外間にありて大いに周旋せり。 

とても及ぶべからざるは、
いまだ一面もなき小林民部のこと、二子より申しつかはしたれば、
小林のためにもまた大いに周旋せり。

この人、想ふに不凡ならん、かつ三子への通路はこの三輶老に托すべし。 


一、堀江、つねに神道をあがめ、天皇を尊び、
大道を天下に明白にし、異端邪説を排せんと欲す。

 謂(おも)へらく、天朝より教書を開板して天下に頒示するに如しかずと。
余謂(おも)へらく、教書を開板するに一策なかるべからず。

京師において大学校を興し、上、天朝の御学風を天下に示し、
また天下の奇材異能を京師に貢し、
しかるのち天下古今の正論確議を輯集(いしふ)して書となし、
天朝御教書の余を天下にわかつときは、天下の人心おのづから一定すべしと。 

 よつて平生子遠と密議するところの尊攘堂の議と合はせ堀江に謀り、
これを子遠に任ずることに決す。

子遠もしよく同志と謀り、内外志をかなへ、
このことをしてすこしく端緒あらしめば、
吾れの志とするところもまた荒せずといふべし。 

 去年、勅諚綸旨のこと一跌すと雖も、
尊皇攘夷いやしくも已やむべきにあらざれば、
また善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。
京師学校の論、また奇ならずや。 

一、小林民部いふ、
京師の学習院は定日ありて、
百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる。

講日には公卿方出座にて、
講師菅家・清家および地下(ぢげ)の儒者あひ混ずるなり。
しからばこの基によりて、さらに斟酌を加へば幾等も妙策あるべし。

また懐徳堂には霊元上皇宸筆の勅額あり、
この基により、さらに一堂を興すもまた妙なり、
と小林いへり。

 小林は鷹司家の諸太夫にて、このたび遠島の罪科に処せらる。
京師諸人中、罪責きはめて重し。

その人、多材多芸、ただ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。
西奥揚屋にて余と同居す。のち東口に移る。
京師にて吉田の鈴鹿石州・同筑州別して知己の由。

また山口三輶も小林のために大いに周旋したれば、
鈴鹿か山口かの手をもつて、海外までも吾が同志の士、通信をなすべし。
京師のことについては後来かならず力を得るところあらん。 

一、讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諌め、
宗藩水家と親睦のことにつきて苦心せし人なり。

東奥揚屋にあり。
その子速水、余と西奥に同居す。
この父子の罪科いかん、いまだ知るべからず。
同志の諸友、切に記念せよ。  

 予はじめて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。
法、隻語をまじふることを得ず。

翁、独語するもののごとくして曰く、
「むしろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」と。
吾れはなはだその意に感ず。
同志それ、これを察せよ。 


一、右数条、余いたづらに書するにあらず。
天下のことを成すは天下有志の士と志を通ずるにあらざれば得ず。
しかして右数人、余この回あらたに得るところの人なるをもつて、
これを同志に告示するなり。 


 また勝野保三郎、はやすでに出牢す。
つきてその詳を問知すべし。
勝野の父、豊作、いま潜伏すといへども有志の士と聞けり。
他日ことたひらぐを待ちて物色すべし。

今日のこと、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同士を問訊するごとくすべし。
一敗すなはち挫折する、あに勇士のことならんや。
切に嘱す、切に嘱す。


一、越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。
左内東奥に坐する、五六日のみ。
勝保同居せり。
後、勝保西奥に来たり予と同居す。
予、勝保の談を聞きてますます左内と半面なきを嘆ず。


 左内幽囚邸居中、資治通鑑(しぢつがん)を読み、註を作り漢紀を終はる。
また獄中、教学工作等のことを論ぜし由、勝保、予がためにこれを語る。
獄の論、大いに吾が意を得たり。
予、ますます左内を起して一議を発せんことを思ふ。
嗟夫ああ。


一、清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。
ゆゑに余、これを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。
同志それ、吾れにかはりてこの言をふまば幸甚なり。


一、同志諸友の内、小田村・中谷・久保・久坂・子遠兄弟等のこと、
鮎沢・堀江・長谷川・小林・勝野等へ告知しおきぬ。

 村塾のこと、須佐・阿月等のことも告げおけり。

 飯田・尾寺・高杉および利輔のことも諸人に告げおきしなり。
これみな吾がいやしくもこれをなすにあらず。 

かきつけ終りて後
  心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ
  思い残せることなかりけり 

呼びだしの声まつほかに今の世に
  待つべきことのなかりけるかな  

討たれたる吾れをあはれと見ん人は 
  君を崇めて夷(えびす)払へよ  

愚なる吾れをも友とめづ人は 
  わがとも友(ども)とめでよ人々   

七たびも生きかへりつつ夷をば  
  攘はんこころ吾れ忘れめや  

十月二十六日黄昏書す    二十一回猛士   

  



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