日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

坂本龍馬 木戸孝允への手紙(慶応2年2月5日,2月6日,7月4日,7月27日)

2020-09-19 21:12:41 | 坂本龍馬

                坂本龍馬  (ウィキペディア)



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ (28) ・・・・・・・・・・・・・・・・・

木戸孝允あて    慶応二年二月五日 

坂本龍馬
表に御記被成候六条ハ、小、西、両氏及老兄、
龍等も御同席ニて談論セシ所ニて、
(すこし)も相違無之候。

後来といへども決して変り候事無之ハ、
神明の知る所ニ御座候。

  丙寅 
    二月五日
                       坂本龍 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (29) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木戸孝允あて   慶応二年二月六日 

坂本龍馬 
此度の使者村新(村田新八)同行ニて参上可仕なれども、
実ニ心ニ不(まかせざる)義在之、
故ハ去月廿三日夜伏水(見)ニ一宿仕候所、
(はからず)も幕府より人数さし立、
龍を打取るとて夜八ツ時頃二十人計寝所ニ押込ミ、
皆手ごとニ鎗とり持、
口々ニ上意/\と申候ニ付、少
論弁も致し候得ども、
早も殺候勢相見へ候故、
是非彼高杉より被送候ビストールを以て打払、

一人を打たをし候。何レ近間ニ候得バ、さらにあだ射不仕候得ども、
玉目少く候得バ、手をを(負)いながら引取候者四人御座候。

此時初三発致し候時、
ビストールを持し手を切られ候得ども浅手ニて候。
其ひを(まカ)ニ隣家の家をたゝき破り、
うしろの町ニ出候て、
薩の伏水(見)屋鋪ニ引取申候。

唯今ハ其手きず養生中ニて、
参上とゝのハず何卒、
御仁免奉
願候。
何レ近拝顔万奉謝候。謹言々。

   二月六夕
                         龍 
         木圭先生 机下 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (32) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木戸孝允あて    慶応二年七月四日 

坂本龍馬

御別後お郡まで参り候所、
下の関ハ又戦争と弟思ふに、
どふぞ又やジ馬ハさしてく礼(れ)まいかと、
道お急ぎ度、
御さしそへの人ニ相談仕候所、
随分よろしかるべしとて夜おかけて道お急ぎ申、
四日朝関ニ参申候、
何レ近日拝顔の時ニ残し申候。

    七月四日
                         龍 
        木圭先生  左右
猶此度の戦争ハおりから又英船が見物して、長崎の方へ参り候ハおもしろき事ニ候。

追白
  先日御咄しの英仏の軍艦の関に参候ものハ兼而参ると申軍艦ニてハなし。
  (飛脚艦のよふなるものと相見へ候よし。)


此軍艦ニハ「アドミラール」及「ミニストル」も参り候ヤに承り候。
先日参候船ハ是ハおらざりしよし。
兼而来ると申舶ハ二舷砲門の艦にて是ハ近日又参り可申か、
弟思ふに村田新八が不来ハ此故にてハなきか。
早々。
是も又思ふべし。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (33) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木戸孝允あて    慶応二年七月二十七日 
坂本龍馬

五大才(五代才助)にハ火薬千金斗(ばかり)云云頼置候。

一、小松、西郷などハ国ニ居申候。
 大坂の方ハ大久保(利通)、岩下(佐次右衛門)がうけ持なりとて、
 彼レ両人の周旋のよしなり。

一、人数ハ七八百上りたりと聞ユ。

一、幕の翔鶴丸艦ハ長州より帰り、
 又先日出帆致し、
 道中ニて船をす(洲)にのりかけて、
 今長崎へ帰りたり。

一、幕ハ夷艦を買入致す事を大ニ周旋、
 今又、二艘斗(ばかり)取入ニなるよふす(様子)

一、幕船たいてい水夫共何故にや、
 将の命令を用ひず。
  先日モ翔鶴丸ハ水夫頭及び其外十八人一同にに(逃)げだし行方不知。

一、私共の水夫一人(随分気強キ者ナリ)幕船へのりたれバ(夫もまだたしかにハ知れず。)もし関の方へ行よふなる事なれバ、
 平生(常)の幕船とはちがい候かもしれず、
 御心得可
然哉、為之申上る。

  七月廿七日  
                         坂本龍馬 
     木圭先生  
            左右



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