日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

魯迅『阿Q正伝』第3章 続勝利の記録

2018-11-09 22:27:23 | 中国・中国人

魯迅 『阿Q正伝』   
 
第三章 続優勝記略 

 それはそうと、阿Qはいつも勝っていたが、名前が売れ出したのは、趙太爺の御ちょうちゃくを受けてからのことだ。

 彼は二百文の酒手(さかて)を村役人に渡してしまうと、ぷんぷん腹を立てて寝転んだ。あとで思いついた。

「今の世界は話にならん。倅が親爺を打つ……」

 そこでふと趙太爺の威風を想い出し、それが現在自分の倅だと思うと我れながら嬉しくなった。彼が急に起き上って「若寡婦(ごけ)の墓参り」という歌を唱(うた)いながら酒屋へ行った。この時こそ彼は趙太爺よりも一段うわ手の人物に成り済ましていたのだ。

 

 変槓(へんてこ)なこったがそれからというものは、果してみんなが殊(こと)の外(ほか)彼を尊敬するようになった。これは阿Qとしては自分が趙太爺の父親になりすましているのだから当然のことであるが、本当の処(ところ)はそうでなかった。
 未荘の仕来(しきた)りでは、阿七(あしち)が阿八(はち)を打つような事があっても、あるいは李四(りし)が張三(ちょうさん)を打っても、そんなことは元より問題にならない。
 ぜひともある名の知れた人、たとえば趙太爺のような人と交渉があってこそ、初めて彼等の口に端(は)に掛るのだ。一遍口の端に掛れば、打っても評判になるし、打たれてもそのお蔭様で評判になるのだ。阿Qの思い違いなどもちろんどうでもいいのだ。

 

 そのわけは? 
つまり趙太爺に間違いのあるはずはなく、阿Qに間違いがあるのに、なぜみんなは殊の外彼を尊敬するようになったか? これは箆棒(べらぼう)な話だが、よく考えてみると、阿Qは趙太爺の本家だと言って打たれたのだから、ひょっとしてそれが本当だったら、彼を尊敬するのは至極穏当な話で、全くそれに越したことはない。でなければまた左(さ)のような意味があるかもしれない。
 聖廟(せいびょう)の中のお供物のように、阿Qは豬羊(ちょよう)と同様の畜生であるが、いったん聖人のお手がつくと、学者先生、なかなかそれを粗末にしない。 

 

 阿Qはそれからというものはずいぶん長いこと偉張(いば)っていた。

 ある年の春であった。彼はほろ酔い機嫌で町なかを歩いていると、垣根の下の日当りに髭の王がもろ肌ぬいで虱しらみを取っているのを見た。たちまち感じて彼も身体がむず痒がゆくなった。
 この髭の王は禿(はげ)があるのと髭が濃いのとで、人々から 「髭の禿の王」 と呼ばれていたが、阿Qだけは「禿」を抜いて呼び、しかも、非常に軽蔑していた。 阿Qだけは「禿」を抜いて呼び、しかも、非常に軽蔑していた。

 

 阿Qの意見では、禿は奇とするに足りないが、この頬から顎へかけてのひげだけは、実に奇妙千万で、実にすこぶる珍妙なもので見られたざまじゃないと思った。
 そこで彼は側そばへ行って並んで坐った。これがもしほかの人なら阿Qはもちろん滅多に坐るはずはないが、髭の王の前では何の遠慮が要るものか、正直のところ阿Qが坐ったのは、つまり彼を持上げ奉ったのだ。

 

 阿Qは破れ袷(あわせ)を脱ぎおろして一度引ッくらかえして調べてみた。洗ったばかりなんだがやはりぞんざいなのかもしれない。長いことかかって三つ四つ捉とらまえた。

彼は髭の王を見ると、一つまた一つ、二つ三つと口の中に抛(ほうり)込んでピチピチパチパチと噛み潰した。

 阿Qは最初失望してあとでは不平を起した。髭の王なんて取るに足らねえ奴でも、あんなにどっさり持っていやがる。乃公を見ろ、あるかねえか解りゃしねえ。
 こりゃどうも大いに面目のねえこった。彼はぜひとも大きな奴を捫(ひね)り出そうと思ってあちこち捜した。しばらく経ってやっと一つ捉とらまえたのは中くらいの奴で、彼は恨めしそうに厚い脣の中に押込みヤケに噛み潰すと、パチリと音がしたが髭の王の響(ひびき)には及ばなかった。

 彼は禿瘡の一つ一つを皆赤くして著物を地上に突放し、ペッと唾を吐いた。

「この毛虫め」

「やい、瘡(かさ)ッかき。てめえは誰の悪口を言うのだ」 髭の王は眼を挙げてさげすみながら言った。

 

 阿Qは近頃割合に人の尊敬を受け、自分もいささか高慢稚気(こうまんちき)になっているが、いつもやり合う人達の面を見ると、やはり心が怯(おくれ)てしまう。ところが今度に限って非常な勢だ。何だ、こんな髭だらけの代物が生意気言いやがるとばかりで

「誰のこったか、おらあ知らねえ」 阿Qは立ち上って、両手を腰の間に支えた。

「この野郎、骨が痒くなったな」 髭の王も立ち上がって着物を着た。

 

 相手が逃げ出すかと思ったら、掴み掛かかって来たので、阿Qは拳骨を固めて一突き呉くれた。その拳骨がまだ向うの身体からだに届かぬうちに、腕を抑えられ、阿Qはよろよろと腰を浮かした。たちまち辮髪(べんぱつ)を髭の王につかまれ、ねじつけられた辮子は墻(まがき)の方へと引張られて行って、いつもの通りそこで鉢合せが始まるのだ。

 

「君子は口を動かして手を動かさず」と阿Qは首を歪めながら言った。

髭の王は君子でないと見え、遠慮会釈もなく彼の頭を五つほど壁にぶっつけて力任せに突放つっぱなすと、阿Qはふらふらと六尺余り遠ざかった。そこで髭の王は大おおいに満足して立去った。

 

 阿Qの記憶ではおおかたこれは生れて初めての屈辱といってもいい、髭の王は顋あごに絡まる髭の欠点で前から阿Qに侮られていたが、阿Qを侮ったことは無かった。

むろん手出しなど出来るはずの者ではなかったが、ところが現在遂に手出しをしたから妙だ。まさか世間の噂のように皇帝が登用試験をやめて秀才も挙人(きょじん)も不用になり、それで趙家の威風が減じ、それで彼等も阿Qに対して見下すようになったのか。そんなことはありそうにも思われない。

 

 阿Qは拠所(よんどころ)なくたたずんだ。

 遠くの方から歩いて来た一人は彼の真正面に向っていた。これも阿Qの大嫌いの一人で、すなわち錢太爺の総領息子だ。彼は以前城内の耶蘇(やそ)学校に通学していたが、なぜかしらんまた日本へ行った。半年あとで彼が家に帰って来た時には膝が真直ぐになり、頭の上の辮子が無くなっていた。彼の母親は大泣きに泣いて十幾幕も愁歎場(しゅうたんば) を見せた。彼の祖母は三度井戸に飛び込んで三度引上げらた。あとで彼の母親はいたるところで説明した。

 

 「あの辮子は悪い人から酒に盛りつぶされて剪きり取られたんです。本来あれがあればこそ大官(たいかん)になれるんですが、今となっては仕方がありません。長く伸びるのを待つばかりです」

 さはいえ阿Qは承知せず、一途に彼を「偽毛唐(けとう)」「外国人の犬」と思い込み、彼を見るたんびに肚(はら)の中で罵り悪にくんだ。

 阿Qが最も忌み嫌ったのは、彼の一本のまがい辮子だ。擬まがい物と来てはそれこそ人間の資格がない。彼の祖母が四度目の投身をしなかったのは善良の女でないと阿Qは思った。

 その「偽毛唐」が今近づいて来た。 「禿はげ、驢(ろ)……」 阿Qは今まで肚の中で罵るだけで口へ出して言ったことはなかったが、今度は正義の憤どおりでもあるし、復讐の観念もあったかた、思わず知らず出てしまった。

 

 ところがこの禿の奴、一本のニス塗りのステッキを持っていて――それこそ阿Qに言わせると葬式の泣き杖だ――大跨(おおまた)に歩いて来た。この一刹那(せつな)に阿Qは打たれるような気がして、筋骨を引締(ひきし)め肩を聳(そび)やかして待っていると果して

 ピシャリ。 

 確かに自分の頭に違いない。

「あいつのことを言ったんです」 と阿Qは、そばに遊んでいる一人の子供を指さした。

 ピシャリ、ピシャリ。

 

 阿Qの記憶ではおおかたこれが今まであった第二の屈辱といってもいい。幸いピシャリ、ピシャリの響(ひびき)のあとは、彼に関する一事件が完了したように、かえって非常に気楽になった。

 それにまた 「すぐ忘れてしまう」 という先祖伝来の宝物が利き目をあらわし、ぶらぶら歩いて酒屋の門口(かどぐち)まで来た時にはもうすこぶる元気なものであった。

 

 おりから向うから来たのは、靜修庵(せいしゅうあん)の若い尼であった。阿Qはふだんでも彼女を見るときっと悪態をつくのだ。ましてや屈辱のあとだったから、いつものことを想い出すと共に敵愾心を喚起(よびお)こした。

「今日はなぜこんなに運が悪いかと思ったら、さてこそてめえを見たからだ」 と彼は独りでそう極めて、わざと彼女にきこえるように大唾を吐いた。

「ペッ、プッ」

 

 若い尼は皆目眼も呉れず頭をさげてひたすら歩いた。すれちがいに阿Qは突然手を伸ばして彼女の剃り立ての頭を撫でた。

「から坊主! 早く帰れ。和尚が待っているぞ」

「お前は何だって手出しをするの」

 尼は顔じゅう真赤にして早足で歩き出した。

 

 酒屋の中の人は大笑いした。己れの手柄を認めた阿Qはますますいい気になってハシャギ出した。

「和尚はやるかもしれねえが、おらあやらねえ」 彼は、彼女の頬(ほっぺた)をつまんだ。

 酒屋の中の人はまた大笑いした。阿Qはいっそう得意になり、見物人を満足させるために力任せに一捻りして彼女を突放した。

 

 彼はこの一戦によって。彼は髭の王のことをきれいに忘れた。偽毛唐のことも皆忘れてしまって、きょうの一切の不運が報いられたように見えた。不思議なことにはピシャリ、ピシャリのあの時よりも全身が軽く爽やかになって、ふらふらと今にも飛び出しそうに見えた。

「阿Qの罰(ばち)当りめ。お前の世継ぎは堪えてしまうぞ」 遠くの方で尼の泣声がきこえた。

「ハハハ」 阿Qは十分得意になった。

「ハハハ」 酒屋の中の人も九分通り得意になって笑った。 


               〔続〕

〔関連生地〕
 『阿Q正伝』 第一章 序 
 『阿Q正伝』 第二章 勝利の記録



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