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Tosh!'s Blog

ただ生きるな善く生きよ(ソクラテス)

石榴

2012-06-22 14:03:47 | 人生


私の家では石榴が枯れて いいえ すべてが枯れて
隣の家では石榴が実り いいえ 養分奪い
私の家では灯りも暗く...
若林ケン「石榴」より

18日(月曜日)に、市役所にて在宅(者)福祉相談の面談をして来た。精神保健福祉士さんには何時も近々のBlogのプリントアウトを読んで貰い、心理の変化を診て頂いている。精神科医は処方薬を貰うだけで、「暖簾に腕押し」役に立たない。私の場合は精神保健福祉士さんの心理分析が、自分の症状を客観的に知る上で非常に重要だ。精神科医が駄目だと云う事ではなく、どんな職業であれ、熱意のある人でないと意思疎通は出来ずに、意味をなさないと思う。

先月、寝られない日々が続き、とことん「うつ」に陥ったが、百数十時間も意識が連続していると理性を維持するのも辛く、幻聴や幻覚に襲われ、幻覚と現実の見境がつかなくなる程疲れる。そう云う極限になると一瞬意識が飛ぶ。その瞬間に10m程落下する幻覚を見て、地面に叩き付けられたが同様、手足が跳ね上がる。被っていた掛け布団を弾き飛ばす。

その話を精神保健福祉士さんに話したら「うん、そうなんだよね...」と、驚く様子もない。あぁ、精神疾患の症例をちゃんと理解されていらっしゃると、それだけ多くの症例を見て来られたんだなと、私は安堵した。私がアクセス出来る範囲に、理解者が一人でも居る事が嬉しかった。

前エントリで記したBlogの感想も、今迄押し殺して来た「感情を比較的ストレートに出されている」と評価して頂いた。無くしていた自尊心を引上げる事に成功したのだろうと思う。私は自尊心の位置付けは低い方が良いと思っている。自尊心は1割から2割辺りにとどめ、それ以外は愛情や慈しみや尊厳や忖度やら、8割から9割は先ずはFor the people.でありたい。自尊心を引上げても損得は二の次である事は変わらないし、変えてはいけないと思う。

私利私欲は他人の普通の生活さえも奪う。他人の幸福を不幸にして、自分の幸とする。他人を踏み台にする事で生きて行く。それが、諸悪の根源。それを私は許せないと云うよりは認めない。見方を変えれば、或る意味、心が貧しい人であり、惨めな人間に見えてしまう。

天皇陛下が「国民の為に...」と任命した大臣達は国民虐めに躍起になっている。どの面下げて改造内閣で、再度天皇陛下に同じ言葉を言わせるのか?本当にこの人達には「心」があるのかと訝ってしまう。震災後、天皇陛下は避難所で膝を落とし、国民と目線の高さを合わせ労いの言葉を掛けられるのに、東電の役員社員達は事故責任当事者なのに、立ったまま頭を垂れる(被災者が座っているから自然と俯き加減にもなるのだが...)のみ。その差は一体何だろうか?やはり、心の持ち様ではなかろうか。

YouTubeで東電を辞めて高知県で自給自足の生活をしている人を見つけた。東電では福島第一原子力発電所での勤務経験もある人。地下にある非常用ディーゼル発電機も津波が来たら役に立たないと上司に提言したが、梨の礫。組織の体質、社風の異様さに疑問を抱き、引き止められても辞職した。

私も異様な社風を変えるべく闘って来たが、「うつ」を患い、結局は変えられずに退社した。未だにリコールが絶えない。誓って言うが、私の担当した仕事の範囲で私の在任中のリコールは一つも無い。リコール制度に甘んじ、リコールを出してはならないと云う気概が無い。前述、東電を辞めた人に共感する処は多い。

一人一人ならば、良い処も勿論ある人間なのに、いざ組織になると「心」を何処かに鍵を掛けてしまってしまう。それが、ユーザー、コンスーマ、国民、人類(人類と云うよりは動植物含め環境かな?)の為にならない事を忘れてしまうのだから、私には理解し難い。何れ、そう云う行為が自分に帰ってくる事さえも想像出来ない様だ。過去を振り返ると、廻り廻って自分にしっぺ返しが来る事は、山程事例があるのに、自分だけにはそれが起こらないと根拠の無い自信があるのだから困る。その時には自分だけでなく多くの被害者を出し、独りでは責任を取れない程問題が大きくなっているのに。

自尊心の高いもの程、自責を他責にすり替え責任を取らずに、責められると逃避する。哀れな人間よ、のぅ。

昔のアメコミは善悪の闘いがメインで興味もなかったが、最近のリメイクされたアメコミ実写映画は自己犠牲を厭わない姿勢を描き、私も思わず涙する。決闘はあってもコミック所以か血を流すシーンは極力抑えられている。アメコミと馬鹿に出来ない作品に変化して来ている。

日本は先の大戦で、国を想う志を持ち自己犠牲を厭わない者が、先陣を切って散ってしまった。姑息にも懲役を逃れ自己保身を優先する者が生き延び、この国を支配してしまったのではないかと思えてしまう。アメリカの犬と揶揄される所以も其処にあるのではなかろうか。

私は「日本人」である事を恥じている。情けない国だと思う。

( ´ー`)yー-~

一文字しか違わないけれど、精神に於いて「気概」と「気違い」は似て非なるもの。
by Tosh!

万葉集 巻16・3852

2012-06-05 05:54:59 | 人生

鯨魚(いさな)取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干(しほひ)て 山は枯れすれ
作者不詳

鯨魚(いさな)とはクジラの事で、海を指します。依って解釈は、海は死にますか?山は死にますか?死ぬからこそ、潮が引き、山は枯れるのです。

「自然」と云う言葉は明治以降に出来た言葉で、万葉の時代にはありませんでした。と或る東大卒の日本文化・日本精神史を研究して居られる方が云って居られます。「道法自然」と老子が使っていますから、それは俄には信じ難い。でも、万葉人は人間も自然も分け隔てなく、万物には平等に普遍(例外なく)的な命があると考えていた様で、私もそう思います。私が万葉集を度々引き合いに出すのはその為です。

おしえてください
この世に生きとし生けるものの すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか 風はどうですか 空もそうですか...
さだまさし「防人の詩」より

辞書を紐解けば「生(まれる)」の対語は「死」であるが、生と死は対で一生・生命だと思う。

星雲で星々が生まれ、オリオン座の左肩である「ペテルギウス」は赤色超巨星で変光星であり、近々超新星爆発が起きると予測されている。地球から640光年だから、もしかしたらもう既に消滅している可能性もある。

中国の記録「宋史」や藤原定家の「明月記」にも記されている(恐らく「天文寮」の引用)のが超新星爆発であろう事は恐らく間違いないだろう。地球から7,000光年先の「かに星雲」が1054年に超新星として現れた(地球から肉眼で見えた)のが記されている。

カミオカンデで大マゼラン雲の中の超新星爆発(SN 1987A)から生じた素粒子ニュートリノを捉え、小柴昌俊氏がノーベル物理学賞を受賞したのは記憶に新しい。

星ですら生まれ終焉を迎えるのだから、万葉人の考え方が古臭いものとは思えない。現代人が忘れてしまった物が其処にあるとも思う。万葉集にも僅か乍ら「神」なる言葉が出て来るが、自然を侮るなと云う啓示だと私は思う。

星ですらと記したが、この世の万物は原子の賜物。(陽子・中性子とまだまだ細分化出来るが...)その組合わせで、星から植物・鉱物・動物やら多種多様に生まれ変わる。単純に物質と生物を区別する意味に於ける「生命」と云う言葉も、「生命とは何か?」と突き詰めると定義するのは難しい。

生と死は対で一生・生命だと記した。ならば、星にも一生があり、生命であると考えても無理があるとは思わない。命あるものは「魂」があると云う解釈は宗教的思想だろう。

ウイルスを考えてみると良い。ウイルスは増殖するが代謝を行わない。食事もしないし、呼吸もしないし、排泄もしないし、結晶化するものまでいる。生物か物質かすら定義出来ない。結晶化するのだから石の中にウイルスが居ても不思議ではない。それを不思議だと思うのは恐らく「固定観念」に捉われている所為だろう。自ら移動出来るものを生物だとか生命だと思っている人には、私の概念は荒唐無稽に思えるだろうし、木の枝を折っても平気なのだろうが、私は心が痛む。

木の枝を折った事で心が痛むのなら、食事等摂れないだろうとは、それもまた「固定観念」だと反論するしかあるまい。宗教での精進料理もベジタリアンも、私に言わせれば偏屈だ。何事もバランスが肝要であると思う。人間が全人口草食ならば、草食動物や昆虫等を脅かすか絶滅種が増える。やはり、バランスが取れていてこそ自然が成り立つと私は思う。

利根川水系の浄水場で「ホルムアルデヒド」が検出されたと云う報道があったね。原因は浄水場で殺菌に使われる塩素に反応する、それ自体には毒性の無い「ヘキサメチレンテトラミン」が川に廃棄されたからだが、これも規制官庁がバラバラだから起こる問題。ただ、水の専門家が一同に某県に集まっていた最中でもあり、放射能汚染地域だから将来起こるであろう癌の原因を放射線に依るものだと云う根拠を曖昧にする為の策略かとも疑ってしまう。

川には下水処理した水も流される訳だが、浄水場で全ての化学物質が取り除かれる訳ではないし、何千種類もある化学物質を全て検出出来る訳もない。海外での話だが、上流に麻薬まみれの村があり、下流で麻薬を使用していない人達が中毒を起こした例もある。私達が使う服用薬も排泄によって川に流れる。私が薬を嫌う理由の一つだ。兎角、薬に頼る人が居るが、下流の人達の健康を害しているのかもしれないよ。環境ホルモン汚染の原因になっているのかも。

「ヘキサメチレンテトラミン」は焼却すべきだった。因に、「ホルムアルデヒド」は水溶性だが、水に溶かせば(37%以上)「ホルマリン」となる。

( ´ー`)yー-~

A Pole sent ten thousand septic tanks to Poland as an appreciation of the country of his birth. Two weeks later a message comes back:
"Thank you for your wonderful gift. As soon as we learn how to drive them, we're going to invade Russia."

万葉集 巻20・4476

2012-03-30 19:33:44 | 人生


奥山の 樒の花の 名のごとや しくしく君に 恋ひ渡りなむ
大原今城(おおはらのいまき)

今日の花はあまり馴染みのない「シキミ(樒)」と云う木の花。近縁種にトウシキミと云う木が有り、その実は中華食材(香辛料)の八角なのですが、この「シキミ」は有毒種です。実は植物としては唯一、劇物に指定されるほどで、それは誤って食すと死亡する事を意味します。花は前エントリのコブシに似ていますね。嘗てはコブシが属するモクレン科に分類されていましたが、現在はシキミ科となっています。

香木で、天竺から来たとされ仏教と縁(ゆかり)があり、仏前草とも云い、仏前に供えられたりもします。京都のお寺さんの墓所に咲いていたりもします。が、関東に来て見つけたのは初めて。

今日の天気予報は晴れで出掛ける6:00頃は7℃(度)で17℃(度)まで上がる予報でした。出掛けたのは5:50で、何時もの出立ちですから、左程寒くは感じませんでしたし、予報通りだと帰宅する頃には汗をかくかもと思っていました。

今日は資源ゴミを出す日なので、何時もとは別ルートですから、Mサイズのレジ袋でゴミ拾いし乍ら公園に向うのですが、公園に着く前にほぼ満杯。今日も2袋かと懸念したものの、何とか押し込んで公園内も綺麗に。空はどんよりしているものの雨は降らないだろうけれども、気温は上がりそうもない感じ。

紫陽花の下草取りも、1株奇麗にしただけで、大きなレジ袋も満タンです。あと数日で何とか一区切り、それ以外はまだ芽を出したばかりですから、もう少し育つのを待って、また150m忽忽とやろうかと。紫陽花の咲く頃には終らせたいなぁとは思っていますけれど、雨が降ると2~3日は出来ませんから、多分無理な計画です。

一時期痩せ細っていた足も、だいぶ筋肉が付いて来て、良い感じになって来ました。と云っても膝から下の平目筋ですけれど。太ももの方は走らないと筋肉は付きません。それでも意識し乍ら太ももの筋肉も使い乍ら少し早歩きですから、普通に歩く人よりは幾分筋力はアップします。

「うつ」で寝込んでいた1年半の間は、週に1回食事を摂る位で、水分は汗となって出て行きますから、小便も殆ど出ません。人間と云うのはそう簡単に死ねないものだなと思いましたもの。その頃は、家賃を含め全て銀行振替でしたから、外に出る事もありませんでしたし、食事もCoCo壱番屋の出前カレーでしたね。で、その空き容器は枕元に積上って行くのです。

寝たきりから、動き出した時には掃除が大変でした。切っ掛けは確か賃貸契約の更新だった様な気がします。もうその頃は頬は痩けて、身体もガリガリ君。痩せる時は筋肉から痩せて行きますから、歩くにもフラフラ。頭では普通に歩いているイメージしか在りませんから、外を歩くとあちこちにぶつかる始末。

その後は、筋肉の回復よりも脂肪が溜まります。身体が飢餓状態になるとエネルギーを溜める為に、脂肪に変化させ蓄え様とするのです。貧困国の子供がお腹ポッコリなのは、そう云う理由からです。私も「うつ」の前はウエスト63cmだったのですが、25cmは増えましたね。嘘じゃないですよ、ジーンズは25インチを履いていましたから。服はJUN MENと決まっているのですが、既製品はSサイズでもウエストは70cm、それを詰めて貰っていましたから。今はMサイズが何とか入る様になって来ました。

体重は増える、筋肉は付いていないとなると、足腰に負担が掛かります。だから、膝を痛めるのだと思います。あと、踵も痛い。私は倦怠感や頭が廻らないのにはめっぽう弱いのですが、痛みには意外と強く我慢出来るのです。強いと云っても椎間板ヘルニアのあの激痛は唸ってしまいます。それ以外は所謂ポーカーフェイスを通せるのです。鎖骨を折った時も平然としていましたし、膝を擦り剥いて骨が見えて血だらけでも平然としていましたし、顎下の麻酔なしでの切開後もポーカーフェイスで仕事をしていましたし、「うつ」でも外ではそう見えないと言われます。気を許したヘルパーさんだけは調子の善し悪しが判る様です。

今日も湿布を貼って、その上にサポーターをしてのボランティアも、膝が痛くても誰も気付きません。小さい頃からめそめそしていると母親から余計に怒られて来ましたからね。子供が泣くのって、愛情が欲しいのもあるのだと思いますけれど、悉く拒否されて育ちましたからね。何時しか同情も期待しなくなり、そう云う仕草さえも封印してしまいました。まぁ、泣き言云う男性もあまり居ませんからね。私だけじゃありません。皆、そうなのだと思います。

若い頃、慣れていない仕事で、親指の付け根が腱鞘炎でパンパンに腫上がって、ライン作業でしたが、間に合わなくなるのでリーダー呼んで診療所に行かせて貰ったんです。診療所で鎮痛剤を注射し様にも、固くて針が入らなく「こりゃ、痛いわ」と医者も言うくらいでしたが、職場に戻ると有無を言わせずまたライン作業でしたからね。こっちも意地になって、やり遂げましたよ。会社とは厳しい世界です。

お陰様で鍛えられましたから、少々煽って、ライン稼働中でも余裕でトイレに行っていましたからね。任された仕事は誰にも負けない程、余裕で仕事をする術を得ました。余裕があると、仕事を増やそうとあれもやってくれ、これもやってくれと次々仕事が増えます。それでも、或る程度までは引き受けます。でも、私が休んだりしたら他の誰も同じ仕事を出来ませんから、限度があります。だから、私が休んでも出来るの?と聞き返すと「出来ない」と諦めてくれます。それでも、余裕を作ってライン稼働中に帰り支度まで済ませますから、正社員でなくとも正社員にならないかと、何処でも言われます。

それでも、欲が無いから「器用貧乏」は私のライフスタイルなのです。

さて、紫陽花の下草取りも終える頃、シンさんが折り畳み傘を持ってやって来まして、小一時間お喋りしました。私は外から見ていても判っているのですが、何処も彼処も補助金目当てに色んな団体を立ち上げ、懐を温める輩は居るものです。私が潰しに掛かっている公園愛護会もそうですし、シンさんも内情を知って、今期で辞めたとか、辞めるとかそう云う話をしてくれます。シンさんはシルバーですけれど、そう云う世代の人達はそう云う世界に浸りっ放しで生きて来た訳で、定年退職しても小遣い稼ぎに税金を良い様に使うのです。だから国や地方自治体の借金も今の様な状態になる訳で。

日本の基幹産業が疲弊するのも他国に追い抜かれるのも、ぬるま湯に浸りっ放しだからで、真っ当な競争をしていないから負けるのです。で、消費税増税などまたお湯を注ごうとするのだから、増々競争力は落ち、よっぽど理屈の判っている確りしたリーダーを立てないと再生出来ません。

帰路では風が強くなり、飛び立ったP3-Cも風に流され乍ら飛んでいましたねぇ。春一番かしら。

( ´ー`)yー-~

或る男が、自分を愛している3人の女の中で誰を結婚相手にするか長い事考えていた。
そこで彼は3人に5,000ドルずつ渡し、彼女らがその金をどう使うか見る事にした。
1人目の女は、高価な服と高級な化粧品を買い、最高の美容院に行き、自分を完璧に見せる為にその金を全て使ってこう言った。
「私は貴方をとても愛しているの。だから、貴方が町で一番の美人を妻に持っていると皆に思って欲しいのよ」
2人目の女は、夫になるかも知れないその男のために新しいスーツやシャツ、車の整備用品を買って、 残らず使いきるとこう言った。
「私にとっては貴方が一番大切な人なの。だからお金は全部貴方の為に使ったわ」
3人目の女は、5,000ドルを利殖に回し、倍にして男に返した。
「私は貴方をとても愛しているわ。お金は、私が浪費をしない、賢い女である事を貴方に判って貰える様に使ったのよ」
男は考え、3人の中で一番おっぱいの大きい女を妻にした。

時には昔の話を

2012-03-03 19:18:52 | 人生

一枚残った写真をごらんよ ひげづらの男は君だね
どこにいるのか今ではわからない 友達もいく人かいるけど
あの日のすべてが空しいものだと それは誰にも言えない
加藤登紀子「時には昔の話を」より

人生をやり直したいと思う事はなかろうか。私はある。それは主に後悔を伴う。

私が一番生き生きと過ごしていたのは中学生の頃だろう。私に取っては大きな存在だった父親を亡くした時期でもあるが、私の人格形成が出来つつある時期だった。愛情を感じなかった母親との対立の時期でもあり、その対立が大きく私の人生を変えた。人生をやり直すなら父親を亡くした後からだ。

父親は寡黙な人だったが、休みの日でも仕事があれば私を連れて仕事に行き、父親の仕事振りを背な背な見て育ったし、父親の人徳はその葬儀で汲み取れた。戒名には居士号がついている。私一人病院に見舞いに行き、酸素マスクをした父親が手を差しのべた時に、手を握り、死に対する覚悟と云うものを手を通じて教えられた。

意気地なしで、甘えん坊で、軟弱な私が変わったのは父親から覚悟を教わってから。程なくして早朝起こされ、家族皆でタクシーに乗り、病院の地階はと或る部屋に訳も判らず入って行く。父親が勤めていた会社の社長である遠縁の小母さんの横に立ち、皆が泣きじゃくる中、私だけが泣かなかった。小母さんに「泣きなさい、何故に泣かない」と言われた事は今でも良く覚えている。葬儀でも泣かなかった。

父親が病院の床に伏している最中にあった中学の体育祭で、嫌々乍らも出た1,500m走では2位に半周の差を付けゴールした私をクラスメートが感極まったのだろう、胴上げしてくれた。体育祭での胴上げなど後にも先にも無かったと思う。私はただただ皆が喜んでくれた事に、照れ乍ら感謝しただけで、その後もその事を鼻に掛ける事など一度もなかったし、父親もそう云う人だったからだろう、父親にも報告しなかった。

父親を亡くした後の中学2年生の頃は、先輩達も入試に忙しくなるから、クラブ活動や生徒会の引き継ぎがある。私は表に出るのは好きでないが、周りから押され陸上部はキャプテンを、生徒会も立候補させられと或る委員長をする事となる。私は成績もそこそこ、所謂勉強が出来てスポーツも出来ての優等生じゃない。単なるお人好しである。が、生徒会の投票では生徒会長を押しのけ得票数が一番多かったのには驚いた。

得票数が一番だった事は父親のお陰だろう。父親の背なを見て育ち、父親の人徳を知らず知らずの内に模倣していたのだと思う。父親の様な生き方が間違いでない事を得票数が教えてくれた。そうして確認作業をし乍ら自分の行く道が間違いでないよねと信念に組み込まれて行く事となる。

例えばクラブ活動の陸上部。専門書を読み、綺麗なフォームを習得する。走る為の無駄な動きを省き、速く走る為に必要な動きに修正する。それがタイムとなって結果を確認出来る。腰の高さもあるハードルも2~3度試して、本気モードにスイッチすると先輩も驚いて「綺麗なフォームだ」と誉めてくれる。走り幅跳びも皆に合わせ踏切ラインを引くと、砂場を飛び越え危ない危ないと、跳んでいる最中に着地で怪我しない様に体勢を変え、着地後走り抜ける。精一杯走っていても何だかまだまだ余裕を感じ、まだまだ速く走れると改善点を探す。

兎に角、自分に限界を感じなかった。が、良い事ばかりではない。自分が求めなくとも周りが好感を抱いてくれる程、妬み、嫉妬も買う。殺意さえ覚える程、ボコボコにされた事もある。生徒会の委員長をしている手前、こちらは手を出せないが、堪忍袋の緒が切れる寸前で同級生が止めに入った。でなければ、そいつの顔をブロックの塀に何度も打ち付け顔面血だらけにし、半殺しにする処だ。

柔道を習っていたから急所を守る術を知っている。裏を返せば何処が急所かも知っている。が、柔道は相手の攻撃を往なすのが基本。「柔能く剛を制す」なのだ。だから、ボコボコと云っても怪我をした訳でない。しつこい位に攻撃を止めなかったと云う意味である。だから、堪忍袋の緒が切れたら生徒会の面子も関係無く反撃に出て、そっちがそうならこっちもこっちで同じ様に叩きのめすと頭を過ったのである。

そう云った怨みを未だかつて忘れないのは母親の血筋だろう。そこが私の欠点だ。「画竜点睛を欠く」「堅い木は折れる」を「柳に雪折れ無し」にせねば。そうなのだ。私は堅いのだ。だから折れて「うつ」にもなった。柔道の基本に立ち戻らねばならぬ。

今日の〆は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」也。

More than enough is too much.

( ´ー`)yー-~

「柔道で金、政治できん」

あなたに夢中

2012-03-02 13:48:52 | 人生

あなたがいて 私がいて この世は廻るの ...
キャンディーズ「あなたに夢中」より

前エントリの冒頭で紹介した歌詞「さよならノストラダムス」にある様に、僕ら「最高の被害者」としたのは五島勉(ごとうべん)氏が執筆した「ノストラダムスの大予言」である。それを信じた者が多かったのは否めないし、オウム真理教の終末思想もその影響であろうと云う見方もある。かくいう、私も「ノストラダムスの大予言」は全巻読んだ。

2000年を迎え「ノストラダムスの大予言」も外れ、終末思想家達はマヤ文明の暦を持ち出し、今年の冬至頃にその暦が終るからと、またもや終末論を語り出す。私が好きな「X-FILES」も最終回はマヤ文明を絡めているし、製作総指揮のクリス・カーターは「ミレニアム」と云う終末論を絡めたサイコサスペンスドラマも手掛けた。

映画「アルマゲドン」やら、地球を危機から救う題材は確かに面白いしスリリングである。が、他人が書いた脚本であり、エンターテイメントであるから、信じるとカルトと呼ばれる。

カルト(Cult)はラテン語(Cultus)由来で、崇拝・礼拝を意味し、決して現在の様な異様な団体を意味するものではなかった。私に言わせれば古来からの宗教もカルトである。私が無信心なのは、物事の捉え方を狭めるのが嫌で、客観性を失うからである。何故なら、疑問に対する答えが用意されているからである。

人間は答えを知りたがる。その欲求は自然だし否定しないけれど、答えを求めるプロセスを省く事は、己を無力化すると信じている。苦難であっても自分で答えを導き出せなければ、個性を持たない無味乾燥な人生を送るだけだと思う。故に、疑問を投げかけると何でも答えを教えてくれる宗教は嫌いなのである。宗教で救われる人も居るのだから、宗教を否定はしないし、私自身その教えも参考にするし、正論だと思う事さえある。

以前も記したと思うが、どんな宗教も原典は一つでも宗派がある。それが意味するのは、言葉の解釈が異なるからで分派する。精神を言葉にしても、心・精神は十人十色で言葉の受け手側の解釈が異なるのは至極当たり前の事である。

私の「神」の解釈は、存在しないもので、万物に感謝を込める抽象的概念だと思う。「神」と同様に霊魂や幽霊なども信じていない。

私は今の年金制度はねずみ講だと申した。それが保険料であれ税金であれ、何れにしても高齢者が遊んで暮らせる時代など終わりだと思っている。故に、最低限自立の生活として自給自足の生活を考える。年上にそう云う話をしても、足腰が悪くなれば田畑など出来ないと笑われるが、例え車椅子でも田植え出来る構想は持っている。そりゃ、現状の稲作を想像したら足腰が弱れば物理的に出来やしない。既成概念に捉われていれば無理だと相成る。ただ、それを実現するまで足腰が保ってくれるのを祈るのみ。其れこそ神のみぞ知るだ。

仏教では輪廻転生と云う概念があるが、私は無信心で霊魂を信じないから、元々地球上にある物質から構成された身体、地球に返るとしか思わない。厳密に云うと輪廻は魂が動物などの形で生まれ変わる事で、転生は人間として生まれ変わる事だから、魂は扨置き、転生を信じない。生命とは植物も含むと考えるから、輪廻は魂を除き或る意味合点のいく話である。

この世の行いで来世が決まるのだ。に対する私の解答は映画「The Bucket List」でジャックニコルソン演じるエドワードの台詞が適当だ。「そこが判らんのだよ。例えばカタツムリは現世でどんな努力をすりゃ良い?真っ直ぐ這うとか?」

それは単なる戒めの言葉だと思う。人間は努力に対する褒美を求めたがるから、現世で褒美がなくとも来世が素晴らしいものになるんだよと云う慰めの言葉だろう。

宗教も思想や人生哲学の一環だと思えば、良く理解出来ると思う。故に、宗教も参考にはする。が、それを決して鵜呑みにはしないし、自分の脳みそで咀嚼して考える。

人間だけではない、動物もそうだ。経験・体験を通して得た知識や知恵を子孫に、未来に、役立てる為、コミュニケーションを取るし、言語を生み出した。それは、大きな意味で愛情から派生したものだと思うのだ。なのに、争いの道具として言葉を使うのは如何なものか。建設的とは思えない。

特に政治家の言葉には愛情を感じないね。そう云う人達にこう言って於こうか。

「成仏せ~よっ!」

( ´ー`)yー-~

Q. : Why couldn't the Buddha vacuum a sofa?
A. : Because he had no attachment.