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リンゴに感動・・・

2005-09-01 | 読み物

 
「ふじ」実物大

 たまたま観たテレビのドキュメンタリーで青森リンゴのことが取り上げられていた。青森は、リンゴと云う果物が常に当たり前にとれるところとしか考えていなかった。リンゴの王者である青森のリンゴに存亡の危機があったとは、まったくもって知らなかった。「国光」に代表される青森リンゴは、戦後甘さに飢えていた国民に受け入れられ絶大な人気を博していたらしいが、甘い国内のみかんや輸入されて大流行したバナナの甘さに押され気味になっていったが、当時生産地では、それに対する危機感がなく漫然と生産出荷されていた。リンゴの市場価格は半値以下に落ち、さらに大豊作によって拍車がかかり、倉庫に売れ残りのリンゴが腐り、川や山に膨大な量のリンゴが捨てられたという。その結果、青森のリンゴは、もう生産しても売れない全滅状態となった。そしてついに青森リンゴの火が消えるかと云う瀬戸際までいった時に救世主が現れた、接木と呼ばれる方法で「国光」よりも甘くて糖度が強いリンゴの研究をしている斎藤さんと云うリンゴ作りの鬼と呼ばれた人だった。当時、接木の方法は、やりかたが不味ければ細菌に感染して木ごと枯らしてしまう大変危険をはらんだ方法だった。そうしたリスクを負った方法を通して、新しい品種の改良を半ば変人扱いをされながらも地道に研究を重ねていた人であった。
 しかし、既にどん底の栽培農家には選択の余地などはなく、斎藤さんの交雑の研究成果である新しい品種に将来を賭けざるを得なかった。そうした申し出に対して斎藤さんは、決して非難することなく無償で自分のリンゴ園の木の枝を弟子達に指示して次々と切らせ栽培農家に分けてやった。そのリンゴは、日本一を意識してして「ふじ(国光×デリシャスの交雑)」と名づけられた。接木したリンゴの木から収穫ができるのは数年後のために、その間リンゴ農家の男たちは、次々と首都圏へ出稼ぎに出ていった。そして、数年後、リンゴは無事収穫の時期を迎え、首都圏の市場に出荷された「ふじ」は、その抜群の甘さで絶賛された。「ふじ」の国内生産量は、全体の約6割を占めるまでになっており、さらに、その後「ふじ」は、甘くマイルドな風味と食感の良さから果物としての美味しさを買われ、海を渡り世界中の多くの国々で栽培されるようになり、そしていまでは生産量世界一のリンゴとなるまでにいたっている。一時は絶滅の危機に瀕したってことも凄いけど、それを起死回生で世界一になったと云うのも凄い気がしました。確かに「ふじ」ってリンゴは、蜜が入って美味しいんだよね。

コメント
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