「若い男女関係や男の生理を弁えているかわり,女を労れない男は勿論のこと,男女の破廉恥やルーズなことは許さない」 大いなる無駄なエネルギーのはけ口を必要としていた当時の若い下宿人達の事を考えると、なかなか説得力のある言葉だと思った。事実、夜な夜な、どこかに、ほと走らせたい充満する若いエネルギーを持てあましていたことを下宿人一同感じていたのは間違いない。ひょっとして独身男の集まる下宿や寮の持てあましている満たされないエネルギーで発電ができるのではないかと本気で思っていたこともあった。今の時代では考えられなくなっているのかも知れないが,ストーカーなどとは縁遠く,自分の好みのタイプ(直球ど真中ストレート)でお気に入りの素敵な女性に夢中になり、その魅力的な尻を正しく追いかけ回し,毎晩のように角瓶で酒盛りをしながら人生や哲学,宇宙を語り明かし,連日徹夜寝不足でもヘッチャらだった。言葉では言い表せないけれど,若さと云うことは,ああいうことだったんだと最近その素晴らしさがわかってきました。だから,年齢を積む毎に,これからは,その過ごしていく時間の充実を意識していこうと考えるようになりました。当時,男女関係に理解をもって厳しくキチンとしていたばあさんは,そのかわり,休日の昼間に下宿へ知り合いの女性を連れてきて、ばあさんに正式に紹介しようものなら(通称,面通し)大いに喜び,あたかも親戚がきたかと思わせるくらい手放しで歓待してくれた。そこらじゅうにご馳走を並べ,鯛やヒラメの舞い踊り状態となっていた。その際ばあさんは、さりげなく怖ろしいくらい率直かつ直感的に女の善し悪し(評価)?をサラリと言ってのける。連れてきたほうは、惚れた弱みがあるから採点が甘くなるのは仕方ないとして,ばあさんクチから放たれる辛口コメント、厳しいと思える評価,それが結果的には不思議なくらい的を得ていたことが後日判明していくことがしばしばあった。もちろん、気に入られた女性もいたけれど全体からすれば、僅少だった。ばあさんに女性を見る目があったのか?こちらに見る目がなかったのかについては置いておくとして「女は灰になるまで女だ」が口癖だったばあさん,さすがです (つづく)。
下宿のばあさんは、力強くガッツのある男まさり、いや男より強かったかも知れない。でも、中身は、とても女らしくシャイなオンナだった。明治生まれと云うこともあったのかも知れないが、男女の関係には理解がある代わりに逆に空気を読まない奴やルールを守らない奴には厳しかった。野郎だけの下宿ゆえ、理解のあるばあさんなのだと調子に乗って馴染みの女性を夜中に下宿に連れ込んだりしたら大変だった。朝の早い働き者のばあさんは、玄関の掃除を欠かさない、深夜に脱ぎ捨てられたハイヒールはあからさまだから云うまでもなく、安物の強い香水の残り香も決して逃さない。ばあさんにすると、1000歩譲って、朝早く、こっそり帰るならまだかわいいところがあるが、あからさまなのは、放っておけない。夜中に声を出すとか出さな、とか云う問題ではなかった。 まわりは野郎ばかりだから、ひとりだけルールを破って、周りを配慮せず、ひとりだけいい思いをするのはよくない、そういう人は、決して下宿と云う場所に住むべきではないと語っていた。男女関係や男の生理を弁えているかわり,女を労れない男は勿論のこと,男女の破廉恥やルーズなことは許さない。当時下宿人は,6人くらいいたが,風紀上や素行上でばあさんから追放する下宿人の相談を何度も受けたことがある。殆どの輩は,ばあさんの決定通り追放されてしまったが,一度だけこちらから慰留嘆願を申し出たことがあった。そいつは,地方の大手デパートを突然辞めて社会人から短大生になって、この街へ来た「トカギ」だった。
(つづく)
熊谷育美
85年5月24日生、宮城県気仙沼市出身及び現住。
レコード:テイチクエンタテインメント
事務所 :セントラルミュージック。
公式サイト http://www.kumagai193.com
歌手を目指して19歳に上京、すぐ帰郷、一時は音楽を断念しかけたが、09年「人は皆、不甲斐ないね」でインディーズデビュー、同じ年に「人待雲」でメジャーデビュー。21歳の時に作った「月恋歌」が、全国東宝系映画『劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル』の監督の目にとまったことから主題歌に大抜擢。鬼塚ちひろの歌声を彷彿させるクリスタルのような透明感をもった奥行きのある歌声が魅力的な期待の実力派シンガーソングライター。今までに彼女が書いたオリジナル曲は,200とも300以上とも言われているそうです。彼女の歌は,どこか懐かしく哀愁と切なさを感じる不思議な魅力をもっています。
ばあさんの第一声,「けぇー!」と云う言葉だった。
いったい何の意味か分からないでいると,もてなしにと,いきなり漬け物やら,茶菓子,ビール,ぼた餅が所狭しと目の前に並べられた。どうやら「遠慮せず食え!」と云う意味だったらしい。 その下宿のばあさんの名は「セン」と云い,すでに他界して、もう決して会うことは叶わない。いままで生きて来て、出会ったばあさんの中で、あれほどウイットとユーモアがあり、聡明で恥じらいがあり、肝っ玉と度胸を備え人情味に溢れた人はいなかったと今でも思うばあさんだった。ばあさんとの出会いは、かれこれ25年以上前になる。明治37年生まれの矍鑠たるばあさんであった。子供の頃は,おしんのドラマさながら,子守をしながら小学校の教室を覗き,16歳で戦前死別した旦那の元へ嫁入りした。20歳過ぎからリウマチを患い,病気と闘いながら妻と母を両立させ,辛い時期を経て,その後旅館の仲居をしながら生計を立てて何人もの子供を立派に育てあげた苦労人である。激動の世界を生き,満足に小学校すら出てはいなかったため,簡単な漢字とカタカナしか書くことはできなかった。でも,ばあさんは,その簡単な漢字とカタカナを駆使して,多くのやさしい手紙や伝言を書いていた。電話帳,置き手紙,特に印象的だったのは,バレンタインの時のメッセージやラブレター,これはまた後日、おいおい詳しく話すことにします。
(つづく)