Tomotubby’s Travel Blog

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「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

2009-09-06 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii

Paul Gauguin「D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?」(1897-98)

混雑を避けて、夜間展示のある週末に近代美術館で「ゴーギャン展」を観た。今回はボストン美術館門外不出の大作で、ゴーギャンがタヒチで自身の芸術の粋を集めて描いた「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(上)が出展されていて、この大作を観るのが目的。タヒチのゴーギャン美術館(記念館といった方がいいかも)にも実物大の複製画の展示があったのを覚えている。

美術館に行ってみると、1.4m×3.8mのこの絵の展示には過大なほどに大きなスペースが与えられていて、絵の前から2mほど離れた場所にはロープが張られていた。ロープの後ろでは立ち止まって絵を観ることが許されるが、ロープの前では立ち止まって絵を鑑賞することは控えるよう求めている。少しでも立ち止まって観ていようものなら、背中に視線を感じ、シルバーシートに座っているときのような居心地の悪い気分になる。幸い夜7時を過ぎると鑑賞者の数が減り、そのためかロープは撤去されて、どの位置からも絵を観ることができるようになった。夜を選んで訪れたのがよかった。

ゴーギャンがこの絵に意味を与えたとすれば、それはどのようなものなのか? この絵をどう解釈すればよいか? それについては、会場内でもいろいろとヒントが提示されていた。しかし解ではない。絵の前に長く立ち止まり自分なりに感じたことを以下に列挙したい。

【時間の流れ】

まず絵は時間的に定点を描いたものではなく、絵の中には右から左へと流れる時間がある。それは「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という題名通りで、右から左にかけて「過去・現在・未来」であり「朝・昼・夜」でもある。但しこの絵に描かれた時間は人類の歴史というような大仰なものではなく、せいぜい一家族の歴史というくらいの短い時間の流れだろう。

右下の赤ん坊は、個人にとって「どこから来たのか」つまり「過去」に相当し、左下の「老婆」は「どこへ行くのか」つまり「未来」に相当するのは言わずもがな。「過去」は「誕生」であり「未来」は「死」であることは、人間誰しも拒むことはできない。「誕生」と「死」の間には、多くの人間の営みがあり、絵では大きなスペースを割いて描かれている。中央の男が「採取」し、少女が「摂食」する姿は、人間の「生活」そのものではないか。ゴーギャンはそれらに「原罪」の意味も与えているに違いないが。

右端で半身だけ描かれた犬は、画面に描かれた過去と描かれていない「大過去」との架け橋のようなものではないだろうか。犬の顔の向く先は、時間の流れを示しているのではないか。そうして見ると、動物は皆、人間も多くが左の「未来」つまり「死」の方向に当たる。人間の中に右の方を向いている者がいるのは何か「訳あり」なのかもしれない。それは動物との差異なのかもしれない。

【画面の端面】

犬の駆ける地面のピンクは恐らくは「東空」の朝焼けの色で、左の老人の背後に木の陰を写す地面の儚いピンクは恐らくは「西空」の夕焼けの色だろう。背景の木の枝の描写を見ても、右側の枝は日光を受けて若く生き生きとしているのに対して、左側の枝は夜を控えて萎れているように見える。

画面の右の端と左の端の切れ目を見ると、ぴったり重なりはしないが、色合いがよく似ているのが判る。文字の書かれた金色の部分も両方の隅にあり、右端と左端を繋ぎ合わせて画面を円筒状にできるのではないか。とさえ思えてくる。ジャスパー・ジョーンズのクロス・ハッチを用いた一連の作品を思い出した。


Jasper Johns「Between the Clock and the Bed」(1982-83)

カンバスの端面がどこに繋がっているのかが気にかかる絵はあまりないが、ジャスパー・ジョーンズのこのシリーズは例外的な、特別な存在だろう。モチーフとなるハッチが端面にかかる場所を先に決めてから描いているように思われる。 triptic の左右の画面は端面を重ね合わせると鏡像になっていて、中央の画面は左右を繋ぎ合わせるために、恐らくは最後に描かれたのだろう。

ゴーギャンの大作も左右の端を繋ぎ合わせて、「夜」はやがて「朝」に戻り、「死」は「生」に流転することを予め仕組まれて画面構成されているのは間違いないだろう。

つづく

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