カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“信”ということ

2011年01月28日 | 日記 ・ 雑文
真正面から取り上げるにはかなり難解なテーマだろうし、多少背伸びをしなければならないかもしれないが、思い切って“信”について言及してみたい。孔子は「信なくば立たず」という言葉を残したとされているが、「人間の行動と信とが密接に結びついている」という事実を疑える余地はまったくないだろう。もちろん問題は「何がどのように結びついているのか?」という点にあるわけだが……。
この問題を論じるにあたって、前回に引き続きクライエントのブライアン氏に登場してもらおう。(ブライアン氏とは、ロジャーズが有名になる以前に面接したクライエントの仮名であり、その面接記録は『ロジャーズ全集第9巻』に訳出されている)。私はカウンセラーとして「クライエントから学ぶ」という行為を実践していきたいので、ここでもそうさせてもらうことにする。

           * * * * * * * * * * *

<第6回目の面接>
15日 土曜日(約束の時間より10分遅れる)
カ416:今日は。
ク416:今日は。ぼくは少々ぼんやりしているようなんです――寝たのが今朝9時で――起きたのが1時15分なんですよ。
カ417:9時に寝た?
ク417:そうなんですよ。
カ418:それじゃあ少々ぼんやりしておられるでしょうね。
ク418:少なくともこちらに伺うだけの十分な動機づけがあったことはたしかですね、顔を出さない口実は十分にあったんですからね。(沈思)そのお、ぼくははっきりした変化にはぜんぜん気づいていないんですよ。なんだかスランプ状態にあるような気がするんです、ひとつだけ例外があるんですけれどね。――またマッチがなくなっちゃったのかな? たしかここにあると思ったんだが。
カ419:さあどうぞ。
ク419:すみません。ぼくはこの前の結論をちょっとばかり発展させてみたんですけれど、この前の――パースナリティの変化はですね、基本的な変化のことなんですけれど、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ。つまりですね、自分がよりよいものへと変化しているんだという信念をもっていて、そして――そのお、自分の知性の信念ですね――とぼくは思いますね、それは――かならずしも盲目的な信念ではなくしてですね、ところがぼくはどうも――ぼくは、信念に対して真剣に反対している傾向があるんですよ。それは、ぼくが思うには、ぼくにとっては宗教的な内包をもってるんですね。とりわけ、ぼくが実感しているところですと、ほとんどあらゆることが信念なんで――論理的な科学者でさえ、自分のデータを解釈しているときに、そりゃあ、知識をうるための最終的行為は、理性の行為であるよりはむしろ信念の行為なんですね。ですから知識が意味しうるのはたんに――そのお、知識は、僕が理解しているかぎりでは、ある特定の行為をとるということに対するあるひとつの信頼感なんですね。われわれは、いわばほとんどのことについては、たしかに限られたデータしかないんですから、そりゃあ、知識というものは、ぼくの考えだと、それは信念の行為だっていうことになるんですよ。つまりですね、われわれは、ある方向にそのデータを解釈しようとしていることを信じているわけですよ。われわれがそれを正しく解釈したと信じたがってるっていうのはもっともなことのようですね。(ロジャーズ全集第9巻 岩崎学術出版社 1967年 P.201~202)

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上記クライエントの陳述に対し、多くの読者は「一読しただけでは意味がよくわからない」という感想を持つのではないか? 私の場合、この部分は数年前から何度も何度も繰り返し目を通しているが、それでもなお「なるほど!よくわかった!」という感触を得るまでには至っていないのが正直なところだ。だが、仮に「意味がよくわからない」からといって、それでもって「だから耳を傾けるほどの意味や価値はない」と結論付けるわけにはいかないだろう。
確かなこととしてハッキリ言えるのは、「ブライアン氏がきわめて優れた知性の持ち主である」ということと、「たとえ自分よりも優れた知性の持ち主が世の中に存在したとしても、その事実は驚くに値しない」ということだけだ(苦笑)。

以上を踏まえた上で筆を進めていくが、私がとくに注目したいというか、より理解を深めたいと思っている箇所は「パースナリティの変化は、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ」というセリフである。いや「このセリフが意味・象徴している何かである」と表現したほうが適切だろうか。ともかく、現在の私にとってこのセリフは「特別な意味も価値もないな」と言ってポイっと捨てることなど、到底できないシロモノなのである。
それ以降の陳述は「どうしてそう言えるのか?」ということに関する、いわば説明みたいなものとして付言されているように読める。途中で「宗教的な内包」という言葉が出てくるが、これの内容説明はない。が、たぶん「神が絶対なので(絶対ではない)人間は信じられない」というような類の内包を持っているのだろう。
最後のほうは何かしら「科学に対する否定的な見解」を述べているように読めるが、このあたりの陳述は、現代物理学の最先端(量子力学など)を研究している人物が読んだら十分にうなづける内容ではないか? と想像している。平たく言えば「科学というのは、“科学”という名の宗教である」という意味になるだろうか。
これはあくまでも“現在の私”の読み方・受け取り方なので、人によってはまったく異なる読み方・受け取り方がなされるに違いない。が、それは大いに結構だと思う。なぜなら個人にとっての“経験のされ方”というのは、誰のセリフだったか忘れたが「みんな違ってみんないい」からだ。そこで“この私”も自分の意見を主張したいわけだが、ブライアン氏が述べた「パースナリティの変化は、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ」は、人間というものの真相に関するじつに重大な洞察を含んでいるに違いない!……と思えてならないのである。
そうすると、次に「信念の飛躍を可能にさせる“何か”は何か?」という問題が提起されてくるだろうが、この問題についても機会があったら論じてみたいと考えている。言うまでもなく、この問いこそが“カウンセリングの核心部分”であろう。

ところで、上述の読み方とはまったく別の角度から読む読み方もあるので付言しておこう。それは“カウンセラーの視点から読む”という読み方だ。例えばク418の「なんだかスランプ状態にあるような気がする」と、それ以降の陳述を関連付けると「このクライエントは“ないものねだり”をしているなあ」というふうに見えないだろうか?
このような見方・受け取り方はもっともで、事実このあとの記録、ク421では「ぼくは自分から進んで何かをしようとする前に、もっと多くのものを欲しがるようですね」というセリフが出てくる。よってこのような見方・思い方は間違いではないだろう。
これとは別に“クライエントの視点から読む”という読み方もある。クライエントの側に立ったらいったいどうなるのか? 以下は単なる私の想像だが、「カウンセラーさん、あなたは私に『もっと本気になれ!』と簡単におっしゃいますが、当人である私の身になって言わせてもらえば、それは決してナマヤサシイものじゃあないんですよ!」となるだろうか。
まあ、この部分だけでそれを感じ取るのは容易ではないかもしれないが、このケースは全体的にブライアン氏のカウンセラーに対する、もしくは現在のカウンセリング及びサイコセラピーのレベルに対する、“抗議の気持ち”があちこちににじみ出ているように私には思えている。
さらに言うならば、そういった“抗議の気持ち”がありながら、それでもなお、それら全部を乗り越えていった(8回目の面接で終結した)この人物に対して、同じ人間として心からの尊敬の念を覚えずにはいられない。
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純粋性(genuineness)ということ

2011年01月18日 | 日記 ・ 雑文
先日の土曜講座「東洋思想とカウンセリング」にて、次に掲載する文章が“とても強く心にかかった”という経験を得た。このような心の働きは“学習の機会が訪れている”ことを意味・象徴しているに違いない。よって、そのことをより明確にしていきたいと思う。

           * * * * * * * * * * *

佐治:ぼくも含めてだけれど、多くの人がその辺でひっかかっていますね。自分が今こういう気持ちになってるんだからこのままでいい、っていうのはあまりにも単純でね(笑い)。さっきの黙っていたいから黙っているのと同じでね。
友田:その“いたい”がほんとうに“いたい”のだか、あたかも“いたがっている”みたいに思わせているんだか、ぜんぜんわからないところで、そういう言葉を吐きますよねえ。わたくしはね、人間がひとりでぽつんと置かれてね、その人のなかからフッと何かでてくるとしますね、アイディアならアイディアでいい、そういうアイディアがでてくる、そのときの人間の姿をgenuineという言葉でいっているのなら、わたくしは了解可能なんです。(ロジャーズ全集第18巻 岩崎学術出版社 1968年 P.422)

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筆者もまた、長年のカウンセリング経験を通して「ロジャーズの中核概念の一つである“純粋性”(genuineness)というのは、ひょっとするとかなり多くの人々に誤解されているのではないか?」という問題意識をうすうす感じていたので、それがこの陳述によってクローズアップされたのだろう。「その“いたい”がほんとうに“いたい”のだか、あたかも“いたがっている”みたいに思わせているんだか」は、じつに重大な問題提起であると思う。
あるワークショップで「あなたの話を聞いて、私にはこれこれこういう気持ちが湧いてきました」という参加者の発言を聞いた友田先生が、あとでこっそりと「“湧いてきた”んじゃなくて、本当は“沸かせてる”んだろ」と述べていた、というエピソードもある(笑)。

人間にとってgenuine(純粋)という在り方を得るのがいかに容易ではないか、ということは、次の一文によっても示すことができるだろう。

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「クライエント」がなすべき仕事は、誰よりも「クライエント自身」がもっともしたいと思うことをできるだけ最大限に遂行することですし、「カウンセラー」がなすべき仕事は「クライエント」が、今、そこで、もっともしたいと思うことができるだけ最大限に遂行できるように援助することなのであります。(自己の構造 柏樹社 1964年 P.15)

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この文章の主旨や内容は容易に理解できるだろうが、注目してほしいのは“もっとも”の一語である。個人カウンセリングにせよ、グループカウンセリングにせよ、カウンセラーは最大限に自由な場面を創造すべく、一瞬一瞬注意を払いながら努力を重ねている。が、その場面でクライエント(もしくは受講生)は、はたして本当に“もっともしたいと思うこと”をやれているのだろうか? ひょっとするとただ単に“したいと思うこと”をやっているに過ぎないのではないか? といった問題が提起されてくるだろう。しかもそれは“なすべき”の一語によって、より強調されてくるように私には読める。
“もっとも”の一語によって、クライエントがカウンセリング場面を十分に活用することがいかに容易ではないか、ということが少しは実感できるだろうと思う。カウンセラーがなすべき仕事は、クライエントにとって決して“容易ではないこと”を最大限に遂行できるように援助することである。ゆえに、よりいっそう“容易ではない”ということ、言うまでもなかろう。

このあたりの事情、もしくは真相・実態について、ブライアン氏(ロジャーズと面接したクライエント)がじつに見事に“洞察している”箇所があるので、そこも引用しておこう。

           * * * * * * * * * * *

ク311:ええ、そこでぼくは、先生を訪れようと決心したんですよ。前に申しあげたようにですね、ぼくの感じだと、ぼくの方での努力は、心からやったとはいえませんね。もしそうだったらばですよ――もし心からの努力をしていたら、努力は実っていたと思うんで、ぼくがやっていたことは、いわば、少数派にパン片をやってきたようなものなんですよ。
ク317:そうですね、ぼくの考えでは、あるひとりの人間が、ほんとうに変化するときには、多くの人びとは、しばしば、自分は神のためにそれをやっていると考えるようですが、そのお(思慮深げに)おそらくぼくは、宇宙からは何ひとつ必要としないんですよ、それだとね。
ク318:ええ、それはたしかにすばらしい論点ですね。その――エエト、ぼくがふたつの道のひとつを採択することを正当化しようとして、哲学的に何か重要なものを求めていたのは、実際にはぼくが、絶対に見つかりっこないと知っていたものを捜していたんですね。
ク319:なぜならば、ぼくは、あるひとつの道を採択すべき宇宙的命令は絶対に見つからないということを知りうる知性をもっていたんですよね。そしてそこで、ぼくは、自分自身の動機づけの欠如を合理化するために宇宙的命令の欠如を、みずから利用していたんですね。
ク321:ぼくがこれからやろうとしているのはそのことなんですね――自分の諸価値の証拠を求めることではなくて、とにかく自分がもっと自己を尊敬でき、しかも満足の得られる諸価値を身につけてゆくことですね。
ク322:ぼくは、ぼくの宗教的な条件づけが、何か宇宙的な合図のようなものにたよるように、ぼくをしてしまったと思うんですよ。本来のぼくは、神の賛同にたよらなければならなかったんですね。あるひとつの個人化された神格への信仰を喪失すると、今度はぼくは、自然だとかそのような他のものからの合図を求めたんですよね。しかしぼくは、外部からの正当化なしに、自分の諸価値を身につけることを学ばなければならないんですね。ということは、けっきょく、ほんとうにぼくが欲しているものってことになりますね。(沈思)それは、完全に白兵戦だって思いますね。(ロジャーズ全集第9巻 岩崎学術出版社 1967年 P.146~152)

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引用文が長くなりすぎるという理由から、カウンセラーの発言(レスポンス)は割愛したが、カウンセラーの発言に対しても「検討すべき価値は十分ある」と思われるので、もしも機会があったら一連のプロセス全体を熟読・吟味していただきたいと思う。
この引用文からとくに取り上げたいのは、最後の「それは、完全に白兵戦だって思いますね」というセリフだ。もしも、この場面で達成されたブライアン氏の洞察が理解できるならば、その人はきっとカウンセリング用語の“共感的理解”が経験されるに違いない。「まさしくそれは“白兵戦”以外の何ものでもないのである!」と私は言いたい。
自戒の念を込めて付言しておきたいのであるが、私たちは日常の生活場面において“ほんとうに”とか“真に”とか“心から”という言葉を安易に使いすぎているのではなかろうか? 俗に言う“真の自己”とは、たとえそれがどのような意味であったとしても、私たち人間にとって永遠の探求課題である。“ほんとうの自分”を知っている人なんて、どこにも存在しないのではないか? とも思う。
仮にロジャーズの言う“純粋性”(genuineness)が「その時その場でのありのままの自分」を意味・象徴する用語であるとしたら、基本的にそれは、しばしば誤解されていると思われる「言いたいことを言えばいい。やりたいことをやればいい。カウンセリングは自由な場面なんだから」というようなレベルのものとは、まったく次元が異なる“何か”なのである。

ブライアン氏は「それは、完全に白兵戦だと思う」と述べた。私もまた、それが完全に白兵戦であることを承知のうえで“自分自身になってゆくプロセス”を歩んでいきたい。という意味において、私とブライアン氏とは紛れもなく“同志である”ということも再認識できたところだ。
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【告知】 東洋思想とカウンセリング PARTⅠ

2011年01月17日 | 告知 ・ 案内
『ロジャーズ全集第18巻』内に収録されている第6部・座談会(出席者:友田不二男・伊東博・佐治守夫・堀淑昭)を読んで、“カウンセリングと東洋思想との結びつき”という観点からのカウンセリング理解を目指します。
テキスト: 『ロジャーズ全集第18巻 わが国のクライエント中心療法の研究』 岩崎学術出版社
テキストをお持ちでない方にはコピーを用意します(コピー代は徴収いたします)。

日   時:第9回 2月19日(土) 14:00~17:00
      ※原則として毎月1回・第3土曜日開催(7月と8月を除く)
会   場:日本カウンセリング・センター 2階和室
世 話 人:山本伊知郎(当法人理事)
参 加 費:3,000円(年会費納入者は2,500円) ※当日会場でお支払いください。
定   員:15名程度(定員になり次第締め切らせていただきます)
申込方法:開催日の3日前までに日本カウンセリング・センター事務局までお申し込みください。

<申し込み・問い合わせ先>
財団法人 日本カウンセリング・センター ホームページはこちら≫
〒161-0033 東京都新宿区下落合 3-14-39 (JR目白駅より徒歩約10分)
TEL:03-3951-3637 FAX:03-3951-1808 メール:c_center@bz01.plala.or.jp
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【告知】 グループ学習会「友田研究会」開催のお知らせ

2011年01月10日 | 告知 ・ 案内
私たち(財)日本カウンセリング・センター出身の有志数名は、約10年前から「友田研究会」と称するカウンセリング学習会を毎月1回開催しております。学習内容やテーマを予め設定している会合ではなく、“どうぞご自由に!”――すなわち、参加者の自発性にゆだねる――という方針で運営されている会合ですが、特徴としては「東洋思想を基盤にしながら、よりいっそうの深いカウンセリング理解と自己理解とを目指しているグループである」と表現できるでしょう。

これまでの活動内容を簡単に記すと、カウンセリングの原点であるカール・ロジャーズ博士や日本におけるカウンセリングの創始者・友田不二男氏の論文を読んだり、カウンセリング面接の録音テープをその逐語記録とともに検討したり、ミニカウンセリング(10分程度の模擬面接)を行なったり、カウンセリング関係のビデオを観賞したり、東洋思想の原点である『易経』や禅のテキスト『十牛図』を素材にして学習したりと、その都度いろいろな取り組みを行なってきました。

“カウンセリングということ”に関心を寄せている方ならば、初心者でも経験者でも誰でも参加可能な学習会です。次回もまた、より多くの方々のご参加をお待ちしております。

日   時:2月6日(日) 14:00~17:00
会   場:カウンセリングルームTOMOKEN
      東京都三鷹市上連雀3-12-4 TEL:0422-41-2803 携帯:090-7230-8134
メールアドレス:tomoken2001@goo.jp
参 加 費:無料
定   員:8名(定員になり次第、締め切らせていただきます)
世 話 人:山本伊知郎(カウンセリングルームTOMOKEN代表、友田研究会会長)
申込方法:参加希望者は開催日前日までに山本まで、メールもしくは電話でお申し込みください。
ホームページはこちら≫ ※会場への案内図など、詳細はHPをご覧ください。
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【告知】 カウンセリング入門講座のご案内

2011年01月08日 | 告知 ・ 案内
この「カウンセリング入門」は、申すまでもなく直接的には、カウンセリングに関心を寄せる人々やカウンセラーを志す人々のために、最初の体験学習の場を用意すべく設けられている講座であり、現にそのような方向で回を重ねてきております。
しかし、現実・実態に即して言えば、参加者の一人一人が頭を切り換えて、一回限りの各自の人生を生き生きと生きることのできる自分を発見し育ててゆく第一歩ともなっている講座なのであります。何はともあれ、一人でも多くの方々が、身をもって体験されることをお勧めいたします。
※一般的な講義形式の講座ではありませんので、その点はあらかじめご承知おきください。
(以上、ホームページ内の説明文から引用)

期  間:1月18日~2月15日(全5回)
時  間:毎週火曜日18:30~21:00
会  場:日本カウンセリング・センター(東京都新宿区下落合3-14-39)
定  員:10名(定員になり次第、締め切らせていただきます)
参加費:15,000円
世話人:山本伊知郎

※上記講座に関する問い合わせ・申し込み方法は、主催している日本カウンセリング・センターのホームページをご覧ください。
財団法人 日本カウンセリング・センター ホームページはこちら≫

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開講日が近づいてきたので、この場を借りて告知・宣伝させてもらいます。
世話人である私自身も14年前(平成8年)にこの「カウンセリング入門」を受講したのが、カウンセリングと出会った最初の体験でした。そのときの衝撃的な体験(?)は過去日記にも記しましたが、これを機に「カウンセリングの世界に身を投じるようになっていった」というのが、現在に至るまでの私の略歴になります。
講座「カウンセリング入門」に興味・関心がありましたら、こちらの日記も参照してください。

タイトル:初めてのカウンセリング体験(入門講座編)
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おっぱいバレー

2011年01月03日 | 日記 ・ 雑文
昨日は映画『おっぱいバレー』を家族で観た。とっても愉快な作品だったので大満足だった。舞台は1979年の地方の中学校。私も当時中学生だったので背景や登場アイテムやBGMに懐かしさを覚えながら観ることができ、その意味でも楽しめた。

劇中のエピソードに印象に残った場面があった。それは「顔を上げて前だけを見つめて歩めば、……云々」というセリフが述べられたシーンだ。「……云々」の箇所は正確に記憶していないが、ポジティブな内容だったと思う。ともかく、そのセリフが意味・象徴しているものに対して「なるほどなあ!」と深くうなづけたのだった。
我が身を振り返ってみると、この「前だけを見つめて歩む」がいかに容易ではないか、じつにリアルに実感できる。また、現在“紆余曲折の渦中にある人”や“前を見失っている人”にとっては、さらに深くしみじみと実感できるのではなかろうか?
前以外の方向、すなわち左右を意味するのは“環境や他人”であるし、後ろを意味するのは“過去”である。このように置き換えるならば、人がいかに左右や後ろにとらわれ、かつこだわることにより前進できなくなっているか、容易に理解できると思う。前だけでなく、左右も後ろも気になったとしたら、他の誰とも異なる唯一の存在である“私自身”を生きられなくなるのは当然ではないか!? と、自戒の念を込めてあらためて気づいたわけである。
と同時に、このような状態に陥ってしまうのは、不幸にして人は「前後左右しか認識できない」からではないか? と思った。上下はもちろん“天と地”を意味・象徴するが、この二つの存在を忘れてはなるまい。私の生命に必要な空気は“天”が与えてくれている。私の足は“地”が支えてくれている。ゆえに私は未来に向かって歩くことができる。
ただ歩くのに「その他の条件も必要だ。条件が揃ってないから歩けない」と考えるなら、それはひょっとすると欲しがり過ぎではないか? ……と思った。

新年にあたって、このような決意をあらたにしたところなので、「忘れないうちに書き留めておこう!」と思った次第である(苦笑)。

余談になるが、カウンセリング過程におけるクライエントの陳述内容は「徴候から自己へ、環境から自己へ、他人から自己へ、と変化していく」という事実。「よりいっそう刻々の現在を生きるようになっていく」という事実。文章を書きながら、そんなことも連想した。
カウンセリングにおけるこれらの変化は「人格の変容に伴なうもの」だと考えているが、実際にはそれがいかに大きな変化であるか、ということ。別言すれば「刻々の現在を生きる」とか「未来に向かって歩む」という方向に転じることが、いかに重要な態度・行動の変化であるか、ということ。そしてまた、それを可能にする“心の働き”(誰もがみな本来持っている、と私は考える)がどれだけ霊妙なものであるか、ということ。
……といったことなども再認識できたところである。
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甘栗を食べながら

2010年12月27日 | 日記 ・ 雑文
小腹が空いたので、甘栗を食べながらぼんやりとテレビを視ていた。今日の夕方頃のことだ。妻と息子(6歳)は外出していた。数日前から息子の歯茎が一部腫れていたので、念のため近所の歯医者に行っていた。

ふと、1ヵ月くらい前のある場面を思い出した。息子と私の二人は台所のテーブルでおやつ代わりに甘栗を食べた。妻がどうしてそこにいなかったのか、はっきりとは思い出せない。
最初の内は私が皮をむく係りで、彼が食べる役だった。「これはマズイなあ」と思った。なぜならこの状況が続く限り、私の口には栗がひとつも入らないからである(苦笑)。
しばらくして、彼も皮をむく作業を始めた。そうするように促したわけではないが、きっと私の皮むきを見て、それをマネしたくなったのだろう。お皿の上に皮をむかれた甘栗が次々と載せられていった。
私も決して上手なほうではないが、彼の手さばきはもっとぎこちない。半分に欠けたのやらバラバラになった不揃いな栗が、皿の上に無造作に置かれていく。たまに形を崩さずに丸くむけたときには「わあ、キレイにむけたねえ!」と二人で喜んだ。
ふと気がつくと、息子は皮むきに集中するあまり、食べるのを忘れているかのように見えた。「食べながらやろうよ」と私は言った。

こんな場面を思い出しながら、「ああ、こういうのを“幸せ”って呼ぶんだろうなあ」と悟った。

人間の心というものは本当に“やっかいなもの”だと思う。なぜなら、人は、真の意味で幸せな時間を過ごしているときには、それに気づくことができないからである。つまり、本当の幸せとは決して特別なものではないし、いわゆる“幸福感”とも異なる、ということだ。
この事実を“心の機能”という観点から論じると、「人の心というものは、それが健全に機能しているときには、そのこと自体が自覚できないものである」となるだろうか? あるいは反対の言い方をすれば、「自分の心というものが自覚できるのは、それが健全に機能していないときか、もしくは特別な状態のときだけである」となりそうである。
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“洞察”ということ

2010年11月25日 | 日記 ・ 雑文
財団法人 日本カウンセリング・センターが主催している講座に「カウンセリング概論」という科目がある。内容は「『ロジャーズ全集第2巻』を読んでカウンセリングの原点を学ぶ」というものだが、多くの方々がご存知の通り、私はこの講座を担当する世話人として毎週月曜日の夜にセンターに足を運んでいる。

知らない方々のために説明しておくと、『ロジャーズ全集第2巻~カウンセリング~』(岩崎学術出版社 初版1966年)と題された書物は「カール・ロジャーズの出世作」と呼ばれている作品で(原題は『Counseling and Psychotherapy』1942年。この書物の前半部分を訳出したのが『ロジャーズ全集第2巻』である。後半部分は『ロジャーズ全集第9巻』に訳出されている)、この一書によりロジャーズは一躍有名人となって一世を風靡し、その後アメリカの心理学界とカウンセリング界の頂点に上り詰めるほどの人物になっていった……と伝え聞いている。
まあ、要するにこの書物には「文字通り“カウンセリングの原点”が記述されている」と言ってよいだろう。また、カウンセリングの歴史に興味・関心がある人にとっては「歴史的な作品である」という意味付け・価値付けの仕方もできるだろう。
あるいは東洋思想の観点から言えば、『論語』の「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ざるなり」の具体が示されている作品である、とも言えよう。原著は戦時中(1942年)に出版されていることから、時代背景に古さを感じるのは否めないが(もっとも『論語』や『老子』と比べたらずいぶん新しいと思うが(笑))、もしも読者が“カウンセリングのやり方”ではなく、著者である“ロジャーズという人物”に関心を抱くことができるなら、この作品は「私たちの人生をよりいっそう豊かなものにしてくれる可能性を秘めている」と私は思う。

さて、上記講座で数年間にわたって読み進めてきた結果、私たちのグループは現在「第7章 洞察の達成」のところに到達した。あらかじめ「この講座では第7章まで読むことにする」と取り決めていたので、このことはあと少し、ほんの数十ページで読了することを意味している。
少し気が早いかもしれないが、大きな達成感と喜びを私はすでに味わっている。これまでの長い長いプロセスを振り返ると「ここまでたどり着くことができた」というだけで感無量だ。と同時に、長期間にわたって苦楽を共にしてきた仲間たち(受講生のことを私はそう呼びたい)に対して、「よくもまあ、これほどの長い道のりを未熟な私と一緒に歩んでくれたなあ!」という特別な感情が生起している。この感情はきっと、チームスポーツで優勝した際にチームメイトに対して抱くのと同質のものだろう。

前置きが長くなった。本題に入るが、「第7章 洞察の達成」を読み進めていくにつれ、私はあらためて“洞察ということ”への関心をよりいっそう強く抱くようになった。
関心の中身はいろいろだ。最大の関心事は「どのような条件が揃えば洞察が生じるのか?」というところにあるが、これは「カウンセリングとは何か?」という問題を提起するのと同じだろうから、ここでは保留する。というよりも、私たちカウンセリング学習者にとってこの問題は、「限りなく探求し続けなくてはならない永遠の課題である」というのが私の認識だ。
というわけで、問題点(テーマ)をもう少し絞りたい。同書においてロジャーズは、例えば次のように記述している。

           * * * * * * * * * * *

「と、突然に、場面が変化する。彼女が問題の一部として眺めはじめるのは、自分自身の態度であり、とうてい適応することはできないと認知している自分自身の適応なのである。ひとたびこのことを、その問題全体の欠くことのできない一部分として意識しはじめると、この現実の状況に対する彼女自身の行動は、変化に耐えるようになるのである」
「彼女は、自分自身の愛情の欠乏、罰せずにいられない自分自身の欲求、それらがジムを問題にするうえにひとつの役割を演じていたのだという事実、を眺めうるところまで到達したのである。(中略)それを完全に言葉で述べる勇気を彼女に与えるのは、次週までの間に、この新しい知覚を行為に移すことから生じてくる満足なのである」
「また、純粋な洞察の重要性が強調される。コラは、はっきりした洞察を達成できないうちは、処遇でのいっさいの試みが無効であった。この洞察を得て、彼女は、もっと成人の役割を引き受けることができ、攻撃的な行動は、彼女の葛藤の代償としてあまり必要ではなくなったのである」(ロジャーズ全集第2巻 P.218、P.221、P.222、P.228より引用)

           * * * * * * * * * * *

以上から、ロジャーズは「ひとたび洞察が達成されると、次に態度・行動の変化が現われてくる」と述べているように読める。が、このことは事実だろうか?
正直なところ「人間って、そんなに単純なものかなあ?」という疑問は弱冠残るが、“洞察の重要性を強調する”という論旨との関連から言えば、私自身のカウンセリング経験からも「事実である」と言いたい。(ただし「洞察が達成されたがゆえにむしろ身動きが取れなくなる」というケースもしばしばあることを付言しておく。このあたりの事情は『ロジャーズ全集第9巻』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”を読めば明確になるだろう)。

もうひとつの問題は、いったいロジャーズは、どのような類の知覚を“洞察”と呼んでいるのか? という点だ。上記文中に“純粋な洞察”という用語が登場することからすると、どうやら“純粋ではない洞察”もあるように思えるが……。
これは難問だが、カウンセリングにおいて意味と価値のある重要な洞察とは「自分というものに対するより深い、より新しい理解が含まれている知覚である」と私は考えている。典型的な例を挙げれば、「今までそう思っていなかったけど、私って本当は○○○(な人間)なんですねえ」というような発言だ。
もしも読者が、ロジャーズが投じた基本的仮説、すなわち「効果的なカウンセリングは、クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする、明確に構成された許容的な関係によって成立するものである」(ロジャーズ全集第2巻 P.20)を仮説として支持できるならば、私の考えもまた支持されるだろうと思う。
したがってカウンセリング場面での私は、こういう類の洞察がクライエントの口から出てきた際には、それこそ最大限の肯定的関心を抱かずにはいられない。ある個人面談でのエピソードを述べると、途中までは椅子の背もたれに深く腰掛けながら「ウムウム」と話を聞いていた私だったが、ある場面で重大な洞察を含んだ発言が出てきた瞬間、思わず身を乗り出してしまってクライエントの目を丸くさせたことがある(苦笑)。驚かせたのはマズかったと思うが、私という人は、洞察が含まれた陳述を聞くと強い関心から前傾姿勢になってしまうらしい。

これと反対の経験もある。クライエントが「今まで私は○○○というふうに考えていましたが、それは間違っていると気づきました。今後は×××というふうに考えを改めて、前向きにやっていこうと思います」という類の発言をする場合だ。
こういうのはたぶん、多くの場合「カウンセラーさんに自分が進歩していることを認めてもらいたい。カウンセラーさんに気に入られたい」というような気持ちが根底にあって出てくるのだろう(あるいは「あなたでは私の役に立ちませんね。残念ですがこれでお別れです」という決別の意味からなされる場合も有り得るだろう)が、大抵の場合は気に入るどころか「特別な肯定的関心や感情は何も生じない」のが正直なところだ。
こういう発言をいくら聞いても、内心では「ああ、そうやってまたひとつ“別の観念と価値”によって、自分というものを縛り付けていきたいのか……」というとても残念な気持ちに包まれてしまうのである。だからといって相手の考えを否定したり、説得によって考えを変えさせようという気にはなれないが……。
もちろん、もしもチャンスがあれば、このことについて話し合う用意はいつでもある。つまり「人間が成長するというのは、いったいどういうことなのか?」というテーマについて、「私には私の考えがある」という意味だ。しかし、もしもタイミングを誤ってカウンセラーが自分の考えを一方的に述べたりしたら、クライエントは傷つくか、もしくはひどく動揺するに違いない。「クライエントにとっては、カウンセラーという存在は権威である」という事実を、カウンセラーは忘れてはならないと思う。

洞察に関する問題点はまだある。先に私は「私って本当は○○○(な人間)なんです」という類の発言が重要な洞察である、と述べた。だが、こういう類の発言が“自分を防衛するため”に使用される場合もたくさんあるので、カウンセラーは注意深くならないといけない。もしもこれが“防衛するため”になされているとしたら、そのプロセスは“前進している”というよりも、むしろ“退行している”可能性が高いからである。(もっとも“退行すること”それ自体を単純に否定するわけにはゆかないが)。
仮にカウンセラーがまともな感受性の持ち主だったとしたら、大抵の場合はクライエントの発言が「洞察か?防衛か?」ということぐらい簡単に聞き分けられるだろう。しかし、だからといって「カウンセラーが聞き違えることなど絶対ない!」とは言えまい。したがって、これは自戒の念を込めて言っておきたいのだが、「カウンセラーは感受性の訓練を怠ってはならない」と思う。

上述の問題を具体例で示すなら、『ロジャーズ全集第9巻』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”がいいだろう。このケースのカウンセラーはロジャーズだったことがすでに判明しているが、同書を編集し訳注を付した友田不二男によれば、第6回目面接中のある箇所について「極めて重大な洞察が含まれた考えをクライエントが述べているにもかかわらず、カウンセラーはそれを理解できないばかりか、むしろ“退行している”と受け取っていて、その考えに否定的な応答をしている」となる。
この友田説が「正しいのか?否か?」、あるいは正しいとしても「どの程度正しいのか?」という点については、はっきりした解答はできない。というよりも、それは私を含めた読み手自身によって探求されていかなければならない問題だろうと思う。
が、ここで仮に「友田説が正しい」とすると、「カウンセリングの神様と呼ばれたロジャーズですら、このケースではいわゆる“聞き違い”をやっていた」ということになる。もしもカウンセラーがクライエントを“ありのまま”に聞けないなら、それは効果的なカウンセリングにならない……と私は確信しているが、それがどれほど容易ではないか、このような例を挙げれば想像できるのではなかろうか。
あらためて言うまでもないだろうが、カウンセラーにとって、クライエントの陳述が「どのように聞こえてくるか?」は、いわばカウンセラーが負っている重大な宿命的課題である。その陳述が“洞察を含んでいる”ものなら、さらに重大となるのは言うまでもない。
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6週間

2010年11月19日 | 日記 ・ 雑文
10月3日に左肩鎖骨骨折してから6週間以上が経過した。近所の整形外科医から「骨が完全に元通りになるまでには半年ぐらいかかる」と言われていたが、現在痛みはまったくない。左肩も左腕も100%元の機能を回復した状態にまでなっている。数日前からは「怪我したことなどまったく忘れて生活している」くらいだ。
“6週間”という時間を“長い”と思うか“短い”と思うかは、意見が分かれるところだろうが、現在の私の実感からすると「人体が持っている骨を再生・修復していく能力には、ものすごい力があるなあ!」と言わざるを得ない。生命体が持っているこういう機能を一般に“自然治癒力”とか“自己治癒力”とか、場合によってはある種の神秘性を含めて“生命力”などと呼んでいるが、“それ”を自分の身体でもって実感しているところだ。

上述したのは“身体的な怪我をしたケース”における事実であるが、“心が怪我をしたケース”においても同じように言えるだろうか? という疑問が浮かんだ。(“心が怪我する”という言い方は滅多にしないだろうが、ここでは“心が本来の機能を失う”という意味で使っている)。
この問いに対する私の答えは「Yes」である。というより以上に、もしも「人間は本来、誰もがみな、成長し発展し適応へと向かう資質を持っている」という考え方を支持できないのなら、その人はカウンセラーや心理療法家を遂行していくこと自体が困難だろう。あるいは医師・看護師・教師・保育士というような対人援助職でも、その仕事を遂行していくことは困難だろう……と私は考えている。

だが、実際には「自分には成長し発展し適応へと向かう資質が無い。自分は完全にダメ人間である」と思っている、もしくは信じている人がいかに多いか、ということも承知している。私もうつ病だったとき「自分は最低の人間である!」と確信していたのだから(苦笑)。
どうしてそうなってしまうのか? という点については、きっと様々な条件が複雑に絡み合ってそうなるのだろう……としか言いようがない。また、この点については未解明な部分もたくさん残されており、学問的にも心理学と精神医学の両面から「研究がなされている過程である」と言えよう。
まあ、カウンセリングの立場からこの問題について言及するとすれば、“自己概念と有機体との関係”のあたりに重大な要素のひとつがあるのではないか? という程度のことなら言えるかもしれないが……。

というわけで、「どうしてそうなってしまうのか?」という難しい問題は保留し、ここでは「概念というものが心に与える影響」について、さらに言及してみようと思う。
冒頭のほうで「怪我が治るのにかかった“6週間”という時間を“長い”と思うか“短い”と思うかは、意見が分かれるところだろう」と述べた。私の感覚から言えば「ものすごく短いとも思わないし、ものすごく長いとも思わない。まあ、こんなものだろうな」となるが、もし仮に“ものすごく短い”と思う人がいたら、その人は自身の回復能力に大きな驚きを感じているに違いない。反対に、もし仮に“ものすごく長い”と思う人がいたら、その人は自身の回復能力にとても幻滅しているに違いないだろう。
もっとも、最初の時点で「自分の怪我の深刻さをどの程度に見積もるか?」という問題もあるので単純ではないが、私の場合は「比較的適正に見積もっていた」となるだろうか? 少なくとも私が立てた見通しは「甘くもなければ、辛くもなかった」と言えそうだ。

「問題の深刻さをどの程度に見積もるか?」ということ、また「自身の回復能力がどの程度あると考えるか?」ということは、いずれも“観念”もしくは“概念”である。平たく言えば、その人の“考え方”に過ぎない。ということは、結論として「どのような“考え方”をするかによって、人は幸福にもなれるし不幸にもなれる」となるわけだ。
もちろん、このような言い方は極論に違いない。また、実際の人間がそんなに単純にはいかないということも十分承知している。“固定化された観念・概念から解放される”ということが、多くの人々にとって“いかに容易ではないか”ということは、長年のカウンセリング経験を通してかなり明確になってきているし、ついでに付言すると、人間が“観念・概念から解放される”という経験を得ることのできる唯一の道は、“体験から学ぶ”という態度・姿勢・在り方を自得していく他にないのではないか? という確信を得られそうなところにまで、この私もようやくたどり着いた。
だが、世の中には、自分という人間(=他者とは異なる唯一の存在であるこの私)が本来的に持っている能力への見積り方が“高すぎる”人と“低すぎる”人とが存在するのは、紛れもない事実である。こういう人の場合、現実とのギャップがあまりにも大きいので“生きにくさ”や“生きづらさ”を感じるに違いない。自己概念が高すぎる人は、実際の自分に“がっかりする”か“嫌悪する”しかないだろう。反対に自己概念が低すぎる人は、実際の自分が何を成し遂げたとしてもそれを“自分の能力による”とは思えないだろう。
どちらにしても、概念が変化しない限りは永遠に“自分という人間を認めることができない”わけで、その意味ではどちらの場合もギャップの程度に応じて、現実は“生きにくい”もしくは“不幸である”となるわけだ。

本稿で私は「概念(自己概念含む)と心理状態の関連」について、問題を提起してきた。が、このことは「すべての問題を“心の問題”に還元しようとする」という考え方でもって進めているわけではない。つまり、現代と現代人には“心の問題”と“社会的問題”の両面が存在する、ということを観じないわけにはゆかないのである。
例えば、現代社会の基盤となっているカルチャーのひとつに「便利・快適・効率・費用対効果(コストパフォーマンス)が高い、ということが最高度に価値付けられている」という事実がある。ゆえにあるタイプの個性的な人間が、これらの価値基準から「能力が低い・価値が低い」と単純に見なされてしまう、という事実がある。
無論、どんな仕事にも“期限がある”という事実は無視できない。したがって「期限が近づいてきたら大急ぎで仕事をやり遂げなくてはならない」のは、基本的・原則的には当然のことだと考えて良いだろう。
問題の本質はそれ以前の大前提ところ、すなわち「経済の原理は上述の価値基準を基盤とするのが当然である」としても、「人間の原理まで経済の原理とまったく同じで良いのだろうか?」というところにある、というのが私の見方だ。もう少し平易な表現で問題を提起するならば、「現代社会は“経済性”が優位に立つあまり、“人間性”がほとんどまったく考慮されない社会である」となる。別言すれば「現代社会の在り方は“経済中心”であり、決して“人間中心”ではない」という意味になる。

現在社会と現代人に忍び寄る深刻な危機を、ミヒャエル・エンデは『モモ』の中で描いた“時間泥棒”によって象徴した。私たち人間の“心の世界”に時間泥棒の影をうすうす感じているのは、なにも私一人ではあるまい。なぜなら、『モモ』という作品は世界中のたくさんの人々によって今もなお支持され続けているのだから。
もしもある人が身体もしくは心に怪我を負ったときに、治癒するまでにかかる必要な時間に対して「長すぎる」とか「そんなに待てない」とか「もっと早く治りたい」と思ったとしたら、その人はひょっとすると、すでに時間泥棒に時間を盗まれているのかもしれない。別の言い方をすれば、「“経済の原理を人間に当てはめる”という過ちを、生身の人間である自分に対して犯している」かもしれないのである。
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運動会にて

2010年10月04日 | 日記 ・ 雑文
昨日は息子(6歳)が通っている幼稚園の運動会だった。「ウチの息子がどれほど活躍したか」とか「わが子の成長ぶりに目を細めた」というような類の親バカな日記が書ければ本当は良かったのだが、そうではない。

ここの幼稚園の運動会は、親も含めた“全員参加型”で行なわれるのが特徴だ。中には“父親だけの競技”もあり、これに私も張り切って参加したのだが、それがいけなかった。内容はトラックを1周するだけの単純なレースだったが、勢い余って転倒し、左肩を強打してしまったのだ。
当初は単なる打撲だと思っていたが、時間が経つにつれてだんだん痛みが増してきた。午後からの競技は参加すること自体が困難なほどだった。
運動会終了後、痛みがあまりにもひどいので救急外来を受け付けている近所の総合病院でレントゲン写真を撮ったところ、「鎖骨の一部が骨折している」ことが判明した。どうりで痛いわけだ(泣)。
ただし、幸いにも骨折箇所がズレたり歪んだりしていなかったので「手術は不要である」と判断された。ま、キレイに割れたという事実は「幸運だった」と思うべきだろう。

そんなわけで現在私は、左腕を三角巾で吊り下げている状態だ。パソコンのキーボードも右手1本で打っている。
ひょっとしたら今後レポートするかもしれないが、「片手が不自由だと、日常生活にどれほど支障をきたすか」を、身をもって体験しているところだ。
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