萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第37話 冬麗act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-27 23:50:55 | 陽はまた昇るanother,side story
迎えて、微笑んで、




第37話 冬麗act.2―another,side story「陽はまた昇る」

夕食の下拵えまで全て終えると14時になっていた。
これで後は、ふとんを取込めば仕度は終わりになる。
これで時間の余裕がすこし出来た、この余裕が嬉しくて周太は微笑んだ。

「…ん、お父さんに話す時間が、出来たね?」

今日は急いで支度を始めたから、まだ書斎にゆっくり座っていない。
けれど今日は父に聴いてほしいことが沢山ある、いつもの紺色のエプロンをしたまま周太は書斎の扉を開いた。
書斎机は活けたばかりの白梅が清々しい、可憐な花に微笑んで周太は書斎椅子に座りこんだ。
白い花の翳では父の笑顔が写真立てに咲いている、大好きな笑顔に周太は笑いかけた。

「ね、お父さん?もうじきね、英二が帰ってきてくれるよ?…それでね、光一も来てくれるよ?」

14年前に雪の奥多摩で父と光一は会っている。
あのとき周太は危うく雪の森で迷子になるところだった。
うさぎの足跡を雪の上に追いかけて、気がついたら森の奥深い所に周太はいた。
そこには大きな山桜の木が、雪の花を陽に輝かせて佇んでいた。
この木の下で9歳の周太と光一は出逢った。

「…お父さん?あのとき光一に逢えなかったら、俺は森で迷子になっていたね?」

大きな木を見つけて嬉しくて、幹にふれて輝く梢を見あげた。
どんなふうに花が咲くだろう?どのくらい昔から佇んでいるの?
そんな質問を山桜の木に心で問いかけているうちに、気がついたら光一が立っていた。
透明に白い肌と桜いろの頬、赤い唇と真黒な髪、きれいな明るい瞳をした背の高い少年。
あかるい透明な笑顔がきれいで、雪みたいに白い肌が雪ん子みたいだと思った。
そして、不思議と話しやすかった。

「お父さん、俺ね、自分が普通と違う、って、あの頃に気がついたでしょう?
花が好き、料理もケーキも好き…それを『男なのに変』って、ダメだって言われて…小十郎のことも言われて、哀しくて。
それで、お父さんとお母さん以外の人と話すの、ちょっと怖くなっていたんだ…でも、光一はね『好きだよ』って言ってくれた。
それが本当に嬉しかったんだ。ありのまま俺を見て『好き』になってくれる人が、お父さんとお母さんの他にもいるんだ、って…」

木、花、山、光。
どれも好きな言葉ばかりを透明な声が話してくれた。
愉しげな細い明るい目は大らかで温かで、優しかった。
あんなふうに家族以外と寛げたことは、周太には初めてだった。
あのとき光一と出逢っていなかったら、自分はどうなっていただろう?
素直な想いと一緒に周太は父に微笑んだ。

「ね、お父さん?あのとき光一がね、俺を受けとめてくれたでしょう?
だから俺はね、他の人とも話していこうって想えたんだ…光一と話して大好きになれて、嬉しかったから。
でもお父さんが亡くなって、光一の記憶も眠ったんだ。でもね…きっと、心は覚えていたんだ、13年間ずっと。
13年間ずっと、お母さん以外とは会話しなかった。けれど俺、英二のことは好きになれたんだ…それってね、きっと。
心が『好きになる』ことを覚えていたから、出来たんだと思うんだ…そしてね、英二を好きになったから、光一とまた逢えたんだ」

こんなふうに最近は考えるようになった。
どちらも大切で、良く似ていて違う「好き」の感情がある。
白梅の翳で微笑む父を見つめながら、静かに周太は続けた。

「きっとね?光一と逢えなかったら、英二を好きになれなかった。
そしてね、英二と逢えなかったら、光一とまた逢うことも出来なかった…だから、ね?
きっと、どちらが居なくても、俺はダメだったね…ふたりに逢えたから俺は、人を好きになることが出来たね?
ね、お父さん?ほんとうに、お父さんが言っていた通りだね…植物や山と同じように、人の運命は不思議、だね?」

こんな不思議な廻り逢わせもある。
そんなふうに最近は想うようになった。

光一の初恋を想い出したときは、嬉しかったけれど哀しかった。
英二を裏切るような想いがして、哀しくて、どうしていいのか解らなかった。
けれど、信じて待ってくれた光一の想いを見つめたいと願ってしまった、周太に忘れられた光一の孤独が哀しくて堪らなかった。
この願いと哀しみが一息に栓を外して、記憶と想いがあふれだすよう鮮やかに甦った。
そんな想いと記憶の奔流に佇んで、ふたつの想いが静かに周太の心を見つめた。

13年間の孤独を崩してくれた英二への想い。
14年間の孤独を越えてくれた光一への想い。

どちらも大切だという心には嘘がつけない。
ふたつの想いを抱えきれなくて、この現実への「もし」に途惑って呆然とした。

もし自分が勁かったら記憶を眠らせることなく、13年の間も真直ぐ現実に向き合えただろう。
もし記憶を眠らせなければ自分は、もっと早く光一に再会して14年間の孤独に哀しませず済んだ。
もし光一と一緒に大人になっていけたなら、怜悧な光一の隣で少しは賢い自分になれたかもしれない。
それくらいに自分が勁かったら、こんな事にはならなかった。

「それくらいに俺が勁かったら…今の道よりも、きちんと賢明な道を見つけられた、かな?
もしそんな俺だったら、英二にもね、…こんなにも、甘えなくて済んだよね。そうしたら英二、もっと…幸せだったかな、って」

もし自分がそれくらい勁かったら、英二の負担は今より少なくて済んだ。
そんなふうに負担が少なければ余裕が生まれる、そして周太以外にも目を向ける事が出来ただろう。
そうしたら英二は「山」に生きる誇りを抱いたまま「普通の幸せ」を生きられたかもしれない。
こんな自分の危険な進路に共に立つことなく英二は、生きるべき場所で輝いていられた。

もし、あの瞬間に自分が勁かったなら?
父の死の知らせを聴いた瞬間に、自分が記憶を眠らせなかったら?
いくつもの「もし」が廻って、記憶を眠らせ忘れていた自分の弱さが赦せなかった。

あの瞬間の自分は10歳にもならない子供だった。
子供の精神力では、記憶の喪失も精神防衛の為に必要なのだと吉村医師は言ってくれる。
同じように後藤副隊長も言ってくれた、母も英二も言ってくれる。そうして弱さも受容れられて嬉しかった。
けれど、忘れられた当事者の光一が「仕方ない」と笑ってくれた時、自分の弱さが余計に赦せなくなった。

あんなに約束したのに忘れた自分を赦してくれる光一。
そんな光一の変わらない純粋無垢な優しさに、幼い日のまま想いは甦っていく。
そうして想いが甦るほどに自分の弱さが嫌で、こんな自分が尚更に赦せなくて自棄になる。
大きくなっていく光一への想いと自責が英二との記憶と衝突して、哀しい途惑いが心を占めた。

こんな途惑いのなかでは、英二に抱かれたくなかった。
それでも抱かれてしまった体と心の衝撃に、信頼ごと誇りも想いも砕かれてしまった。
たしかに英二の方がずっと男として優れている、けれど自分も男として認められたい気持ちがある。
いちばん愛する存在だからこそ、いちばん対等に自分を認めてほしかった。

「俺ね、お父さん?…英二には、いちばん認めてほしいんだ、俺のこと。
だから警察学校の時はね、うれしかったんだ…いつも英二、俺に勉強を訊きに来てくれて。トレーニングの時もそう。
好きな人だからね、素敵だなって認めてほしくて…認めてもらえると、英二に少しは相応しい自分なのかな、って思えるから。
だから…だから、無理に体のことされたくなかったんだ…だって俺も、男だから。男として体力とか、体で負けるのって悔しい。
俺は小柄で、ほんとは華奢だよ?でも、認めてほしくて…だからね、英二に簡単に、ごうかんされて…好きなぶんだけ、哀しかった、」

あのとき英二に悪気はない。
ただ周太を望んでくれたと解っている、けれど「無意識」だからこそ悔しくて肚が立った。
あんなに無意識にいとも簡単に周太を征服できてしまう、この能力と態度に「同じ男」としての格差と自分の無力を暴かれた。
こんな自分でも英二の「体」を守ろうと思って威嚇発砲もした、その罪も意味も自分は英二の為に決意してしまった。
そんな自分の決意すら英二には何も解ってはもらえない、自分の想いも決意も英二には「無意味」なのだと思ってしまった。

いちばん愛する存在には、ありのまま自分を見つめられたい、そして一番に認めてほしい。
だからこそ、自分の意志に反して組み敷かれるのは嫌だった、同じ男なのに全く敵わない無力感が怖かった。
この自分は父の軌跡を追うため13年間ずっと努力して体も鍛えた、それなのに警察学校に入ってから鍛え始めた英二に敵わない。
そんな天性の能力差を見せつけられて「無駄な抵抗なんだ」と無力感に虚脱していく心と体が悔しくて哀しかった。
こんなに弱い無力な自分だから認められないのだと、男としての誇りも「恋人」としての誇りも砕けてしまった。

あの瞬間、自分を肯定してくれるはずだった存在が、全否定する存在になってしまった。
そして英二と一緒にいることが怖くなった。
結局は自分の弱さが悪い、そう解っていても自分は逃げたかった。
そんな「逃げたい」想いのままに、英二を嫌いなれたらいいと思った。

「ね、お父さん…俺ね、ほんとうは英二を嫌いになれたら良い、って想っていたんだ。
俺が本当に嫌いになって英二を拒絶出来たら、英二を俺から自由にしてあげられる…巻き込まないで済む、って。
お父さんの道を俺が辿るなんて、無茶なことだよね?…こんな俺だから、きっと無事では済まないって、解かってるんだ。
でも辞められない。そんな俺をね、英二は放っておけない…だから、俺から突き放したかった。英二を明るい道だけに立たせたくて。
だってね?英二は本当に素敵だよ、俺には勿体無い…だから、ごうかんされたの本当に哀しいけど、でも、これで嫌いになれる、って」

あのときも、もう少し自分が賢かったら、状況は変わっていた。
あのとき自分は「嫌いになれる理由が出来た」と、これで英二を自由に出来ると、そんな喜びもあった。
けれど英二は英二が犯した事にずっと苦しんでいる、そんな哀しい自責を英二にさせたくなかった。
もっと自分の気持ちを英二に伝えられていたなら、哀しい記憶を英二に作らせず済んだだろう。
そして結局こんな自分は、英二から離れられなかった。

「でも、俺、やっぱり英二から離れられなかった…だって、ごうかんされても、やっぱり好き。
あのときね、男の誇りを砕かれて嫌だったよ?もう英二を信頼できないって想った…でも、やっぱり一緒にいたいんだ。
1ヶ月、逢わずに考えて…嫌いになろうって思ったのに、ね?よけいに、逢いたくなっちゃったんだ。寂しくて、逢いたくて。
我慢しようって想ったのに…英二、美代さんと幸せになれたかもしれなかったのに…追いかけちゃったんだ、結局は…無理だった、よ?」

もう自分は結局、英二から離れられない。
こんな自分から英二は離れた方が幸せになれると、どんなに頭で理解しても心が追いかけてしまう。
この心を裏切ろうとしても無駄だった、光一との恋を想い出して惹かれても、英二への想いは色あせなかった。
光一との恋が蘇えるほど、英二への想いと比較になった。この比較が英二への想いを自覚させた。

光一とは、ときおり逢えて話せたら幸せになれる。
けれど英二とは離れたくない、ずっと傍にいて一緒にいたい。

こんな自覚が逆に強まって、もう離れられないと気づかされた。
いつもどおりに口にしたクロワッサンの香にすら、英二との記憶を見つめて恋しかった。
あのクロワッサンの香に英二が贈ってくれたキスの記憶が蘇って、過去の自分に嫉妬した。
そしてどうしても英二の隣を取り戻したくて、もう我慢できなかった。
だから美代とデートしている英二のことを、追いかけたかった。

自分で薦めて2人を会わせて、そうやって自分から離れようとした。
それなのに追いかけてしまった、みっともなくてもワガママでも英二を取り戻したかった。
追いかけて。奥多摩まで強引でも付いて行って、自責に苦しむ英二に肌まで見せて、関係を取り戻してしまった。
あんなこと自分が出来るなんて思わなかった。

「あのね、ほんとうにね…自分でも恥ずかしいこと、しちゃって…でもね、正直になれて嬉しいんだ。
あんなことして、でも英二はね、喜んで受けとめてくれて。幸せに笑ってくれてね…それが嬉しかった。
恥ずかしくても、正直な自分をぶつけて、それを嬉しいって笑って喜んでもらえて、嬉しいんだ…幸せなんだ。
これできっと、もう英二は俺からね、離れなくなる…英二が自由になるチャンス、壊しちゃったね?…哀しくて、嬉しい、よ?」

これでもう英二を自由にしてあげられない、その痛みが哀しい。
けれどもう自分は英二を喪ったら生きていけないと、離れていた1カ月で思い知らされた。
どうしても哀しくて辛くて、孤独で、英二のことばかり考えて、気がつけば涙が零れていた。
だから追いかけたかった、どうか一緒に生きてと縋りついて抱きしめられたかった。
わがままでも正直になって、英二の愛情を盾に命令してでも掴まえたかった。
そして受留められて今、英二の想いにくるまれる幸せが温かい。

「ね、お父さん?このことでね、英二をいっぱい傷つけちゃった…英二を苦しませちゃった。
そのことをね、俺、後悔してる…俺が傷つくのは良い、でも、英二を傷つけたくない。だから離れようとしたのに。
なのに…結局、離れられない。英二を傷つけたのに、離れられなかった。嘘吐いても、嫌いになろうとしたのに…出来なかった。
出来ないんだったら、ね?…最初から正直でいれば良かった、その方が英二の傷も少なくて済んだ…大切な時間まで、削ったのに」

どうせ離れられないほど自分は弱い、だからもう正直でいればいい。
どうせ離れられず英二の自由を奪うなら、すこしでも英二を傷つけず幸せになる努力をするしかない。
もう離れず生涯を共にするのなら、正直な自分を見つめて認めてもらわなければ、本当には寄りそえない。
そうして偽らない自分を見せていくことが結局は、いちばん傷つけないことになる。
それにようやく自分は、気づくことが出来た。

気づけて良かった、けれど時間は確実に過ぎ去ってしまった。
いつまでも「明日」が同じように来ることは無い、その意味を自分は知っている。
だから「今」を大切に見つめて生きることが、後悔しない一生を紡ぐことになる。
そんなふうに限られた時間なら、大切な人を少しでも多く見つめた方が良い。
けれど自分は逡巡に時間を費やしてしまった、その後悔が、痛い。

「ね、お父さん?…どれくらい、英二と一緒にいられるのかな?…ふたりの時間、どれくらいあるんだろう?
こんな俺だから、また失敗して危険な目にあって…ね?…それに英二は、山岳レスキューの現場で危険の前線にいる。
今日だって、召集があれば逢えなくなる…だから、時間を削ったこと、後悔しているよ?…俺が正直でいれば、良かった」

こんな後悔は後々から疼くよう痛みが広がってしまう、だから2度と後悔したくない。
こんな後悔から生まれた小さな決意に、気恥ずかしく周太は微笑んだ。

「あのね、お父さん?俺ね…もう後悔したくないんだ。きちんと正直に、自分の気持ちを伝えたい。
でも俺はよく解っていなくて、下手くそで…本当にワガママで子供っぽくて、みっともないふうにしか出来なくて。
それでもね?逃げたくないんだ…きちんと伝えたい、後悔しないように…お父さん、こんなダメな息子で、ごめんなさい…でも、頑張るね」

それでも、これが今の自分の精一杯。
そう言えるように、今日も一生懸命に気持ちを伝えられたらいい。
父の微笑へと素直に笑いかけて、周太は書斎椅子から立ち上がった。



屋根裏部屋のロッキングチェアーに座りこんで周太は青い本のページを開いた。
あのラーメン屋で再会したとき、青木樹医から贈られた樹木の専門書を今日も周太は持って来た。
分厚くて立派な装丁だから当然重たい、けれど青木樹医は周太の為に12月からずっと持ち歩いてくれた。
それを想ったら、この本を読みたい自分が重くても持ち歩くことは、ごく何でもない事だろう。
いつもこの椅子に座っているテディベア「小十郎」を膝元に乗せて、周太は青い本の世界を楽しんだ。

そうして読んでいくページを捲る掌に、ふっと周太は想いを留めた。
この掌が選んだ道の先にどうなっていくのか?
この道の先を想うと本当は哀しい、それでも選んだ道から逃げたくなかった。
こんな想いに気がついてくれて、英二と光一はそれぞれ受留めて想い贈ってくれた。
その贈られた想いの記憶に微笑んで、周太はちいさく呟いた。

「…竜の涙は、英二とお揃い。それから…」

光一は富士山頂から舞いふる風花を「竜の涙」と言って周太の掌に贈ってくれた。
そして英二の頬にある「竜の爪痕」とお揃いだと教えてくれた。
このことを話すと英二は、周太の掌にキスを贈ってくれた。

「俺とお揃いなんだね、周太?…これで俺、前よりもっと、周太から離れられなくなったね?」
「どうして?」
「だってね、周太?涙は心から生まれるものだろ?だから周太はね、竜の心から生まれた掌を持ったんだよ。
そしてきっとね…俺の頬の爪痕は、自分の心の元に帰りたがるよ。だから俺は、周太から離れられなくなった」

離れないでほしい、傍にいてほしい。
何があっても英二には傍にいて欲しい、だから英二の言葉が心から嬉しかった。
そして、この言葉を貰える「竜の涙」を贈ってくれた光一が更に大切な存在になった。
この掌に希望を与えてくれた英二と光一が、周太には救い手だった。

この青い本にも救いが書かれている。
いま読んでいるページに栞をはさんで、そっと周太は表紙裏を開いた。
そこには達筆な万年筆の筆跡が詞書を寄せてくれてある。
なんども読んだこの一文を、今もまた周太は瞳で読みこんだ。

 ひとりの掌を救ってくれた君へ
 樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています。
 そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています。
 この本には樹木と水に廻る生命の連鎖が記されています、この一環を担うため樹医の掌は生きています。
 いまこれを記すこの掌は小さい、けれど君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります。
 この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる真実の姿と想いを伝えたくて、この本を贈ります。
 この掌を信じてくれた君の行いと心に、心から感謝します。どうか君に誇りを持ってください。 樹医 青木真彦

「…生命の一環を救った、真実…誇りを持って…」

こんな自分でも、こうした手助けをさせて貰えた。
このいま立っている自分が選んだ道は、生命の一環を「断ち切る」ことに繋がる可能性がある。
こんな残酷な道だという現実がある、けれどこの道でも生命の一環を「救った」真実が見つけられた。
この真実の喜びが、刻々と本配属が近づくにつれて、存在を大きくしている。
この真実の喜びを幼い日に憧れた「植物の魔法使い」樹医が伝えてくれた、その事実に微笑んで周太は膝元の小十郎に話した。

「ね、小十郎?植物の魔法使いはね、心の魔法使いでも、あるみたいだね?」

自分が出会った「植物の魔法使い」青木樹医は、誠実な男だった。
眼鏡をかけた実直な眼差と繊細で頼もしい掌の彼は、どこか山ヤの雰囲気と似ていた。
まだ40代位の彼は学者として若いだろう、けれど数千年の星霜を樹木に見つめる深い瞳をもっている。
その瞳で周太の言葉と行いを見つめて、そして救いの一文を贈ってくれた。
この樹医にまた会いたい、そして詞書の感謝を伝えたい。

「…3月の公開講座には、いけたらいいな…」

3月の終わりに青木樹医が担当する公開講座が、東京大学農学部で開かれる。
この受講申込書と農学部公開講座一覧を、青木樹医は青い本と一緒に周太に贈ってくれた。
本来なら抽選制になるほど人気の講座だと美代は教えてくれた、けれど講師本人からの招待申込書は優先的に受講できる。
これに一緒に行こうと美代と申込である、たぶん勤務がシフト通りなら受講できるだろう。
そのとき青木樹医に、少しでも感謝を伝えられたら嬉しい。

この講義自体も周太は、ほんとうに楽しみだった。
この本の執筆者である樹医の講義なら、きっと楽しいに違いない。
しかも美代は実際に畑で実験までするほどの植物好きでいる、そんな美代と一緒に受講できたら楽しい。
きっと講義内容について意見交換がたくさん出来るから、講義が終わった後も楽しいだろう。
それに最高学府と言われる大学がどんなところか、見に行けるのも面白い。

「本当に行きたいんだ、公開講座。奥多摩の水源林のことだし…ね、そこはツキノワグマが住んでいるんだよ?」

話しながら何気なくクライマーウォッチを見ると15時少し前だった。
もう、ふとんを取込まないといけない。そろそろ2人が着く頃合でもある。
周太はロッキングチェアーから立つと「小十郎」をまた元通りに座らせてあげた。

「ね、小十郎。英二と初対面だね?…光一とは、久しぶりに会うね、覚えてる?」

大切なテディベアに微笑んで、周太は梯子階段を降りた。
青い本を鞄に戻すとバルコニーの窓を開いて、外に出ると周太はふとんを抱え込んだ。

「周太、」

大好きな低い声が、ふとんの向うから呼んだ。
ふとん抱え込んだまま見おろすと、玄関ポーチの前に長身の2人が佇んでいた。
その1人が大好きな声の持ち主になる、きれいな低い声の主に周太は微笑んだ。

「おかえりなさい、英二、」

呼びかけた声に、幸せそうな笑顔が庭先から見上げてくれる。
この大好きな笑顔が無事に見られた幸せが、心から嬉しい。
この笑顔に逢いたいから、自分は3つの晩を寂しくても我慢することが出来た。
そしていま現実に再び逢うことが出来た。嬉しい想い見つめる先で、大好きな笑顔がきれいに華やいだ。

「ただいま、周太、」

ただいま、そう言って貰えることは幸せだ。
ただいまと言って帰ってきてくれる人がいる、それは独りじゃないということ。
そして迎えたいほど好きな人がいる幸せは、こんなふうに心が温まる。
温かさが嬉しいまま素直に微笑んで、周太は庭先へと呼びかけた。

「鍵、開けて入ってて?すぐ、降りるね」

いまふれる温もりに微笑んで、周太は布団を取りこんだ。
お客様用のふとんを手早く畳んで押入れに仕舞いこむ。
それから自分のベッド一式をきちんと整えて、母の部屋へと周太は向かった。
同じ2階の北西にある部屋はバルコニーがある、こちらに母の分は干して置いた。
それも取りこんで端正にベッドメイクをすると、すぐに周太は階段を降りた。

玄関ホールに降り立つと、ちょうど靴を脱いで上がった英二に周太は笑いかけた。
笑いかけた周太に大らかな優しい笑顔を英二は向けてくれる、この笑顔にまた逢えてうれしい。
うれしい想いのまま周太は、英二の隣に佇んでいる秀麗な雪白の顔を見上げて微笑んだ。

「いらっしゃい、光一。遠くから、ようこそ」

周太のあいさつに底抜けに明るい目が温かに笑ってくれた。
やわらかい綺麗な笑顔を向けてくれながら、透明なテノールの声が周太に微笑んだ。

「おじゃまします、周太。川崎の奥多摩の森を見に来たよ?良い森だった、家も素敵だね」

底意の欠片も無い純粋無垢な目が、心から嬉しそうに周太に微笑んでくれる。
こんな目で見つめてくれる人に自分は嫉妬して、それくらい大好きだなと思える。
こんな2つの感情もいつか、綺麗にほどけて1つの答えを与えてくれるだろうか?
いま素直に微笑んで周太は唇を開いた。

「ん、ありがとう…ゆっくりしてね?母も夕飯には帰ってくるから。母もね、会うの楽しみにしてるんだ、」
「俺も楽しみだよ。で、おふくろさんは、君の将来図で女性版なんだろ?そりゃ綺麗で可愛いだろうね、」
「ん、…似ているとは言われるけど…」

率直で明るい光一の問いに、なんて答えていいのか解らない。
なんだか余計に気恥ずかしい、ほっとしたくて周太は英二を振向いた。
ふり向いた視線の先で綺麗な笑顔が受けとめてくれる、そんな受容が嬉しい。
嬉しくて周太は英二に笑いかけた。

「おつかれさま、英二…荷物、部屋に置きに行くよね?」
「うん、そうしたいな。周太、ふとん取込めた?途中なら手伝うよ、」

なにげなく言われた言葉に、すぐ周太は頬が熱くなった。
英二が言った「ふとん」は朝もした問答に繋げられる、赤くなりながらも周太は口を開いた。

「ん、取込めたよ?…ふとんほしたからねいうこときいてね」

お願いだから言うこと聴いて?
ふたりの時間が与えられるなら1秒でも多く時間がほしいから。
どんなに小さな時間の欠片でも、あなたとの記憶の時間なら自分には、なによりの宝物だから。



(to be continued)

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