萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第86話 建巳 act.35 another,side story「陽はまた昇る」

2022-01-05 23:59:01 | 陽はまた昇るanother,side story
That after many wanderings 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.35 another,side story「陽はまた昇る」

ひとこと、学者は笑った。

「なつかしいな、」

ほろ苦い甘い馥郁の底、バター匂いやかに芳しい。
くゆらす湯気と香の窓辺、研究室の主は周太を見た。

「馨もたまに食わせてくれたんだ。つい俺はヒトの分まで食っちまってなあ、よく怒られたもんだよ?」

甘い香に鳶色の瞳が笑う、この眼差し父を映していた。
知らない時間はるかなデスクの隅、ただ知りたくて尋ねた。

「あの、父も研究室にスコンを持ってきたんですか?」

菓子作りを教えてくれたのは父だ。
その時間かけら知りたい真中で、鳶色の瞳ほころんだ。

「おう、よく持ってきてたぞ。湯原教授がお好きだからってさ、しょっちゅう茶請けに出たもんだ、」

祖父の愛弟子が語ってくれる、その時間そっと琴線ゆらす。
祖父と父が愛した焼菓子たち、そこにあった温度たどらせ尋ねた。

「あの…男が菓子を作るのって、変に思われませんでしたか?」

父が菓子を作って大学に持参した。
その過去ただ知りたい願いに、文学者は目を瞬いた。

「変って、馨が菓子を作ってたことをかい?」

なんでそんなこと訊くんだい?
そんなふう見つめてくれる眼に、考えのまま口ひらいた。

「祖父は学徒出陣をした世代ですよね、それなら男子厨房に入らずがふつうだったと思うんです。だから…父のお菓子をどう思っていたのか、な…って、」

大正生まれだった祖父、その時代の常識と父は違っている。
けれど息子の手料理を好んで自分の職場に差し入れさせていた、そんな過去に学者は微笑んだ。

「馨が菓子作りを覚えたのはな、お母さんの手伝いとイギリスにいた時らしいぞ?湯原先生が喜ばんハズがねえって思うがな、」

低いくせ朗らかな声が教えてくれる。
紡がれる遠い時間たぐる湯気、おだやかなテーブルに恩師が言った。

「早速だけどな、国文の聴講生になってもらいたいんだ、」

節くれた大きな手、ぱらり冊子を広げてくれる。
真新しいページ印刷された文字、見つめるまま問いかけた。

「万葉集、ですか?」

広げられたページ、講師名と講題が見あげてくれる。
これから仏文科で研究補助をする自分、その主である教授が微笑んだ。

「万葉集はな、日本語の源流だろ?」
「はい、」

うなずいてマグカップことり、テーブルに置いて背を正す。
これから大切なことを教えてくれる、そんな眼が周太を見た。

「翻訳にはな、まず自分の母語を知ることが大事なんだよ。思考言語の原点をきちんと学ぶのは大事だと思うんだ、学者になるなら特にな?」

低いくせ響く声、明朗なトーン語りかけてくれる。
その言葉たしかで、聴き入るまま学者が言った。

「どの分野でも論文は書くだろ、思考言語の基礎が大事になる。それに万葉集は日本原産の植物がたくさん出てくるだろ?植物学の側面からも面白いと思うが、どうだろう?」

なるほど、そういう論文を書くのも良いのかもしれない?

「はい…面白いです、」

頷きながら脳裡ぱちり、思考めぐりだす。
はるか遠い時に謳われた花、木、その植生と物語に微笑んだ。

「田嶋先生、そのアイディア僕が頂いてもよろしいんですか?」
「もちろんだ。俺は専門外だが、周太くんにはフィールドだろ?」

鳶色の瞳が笑って、マグカップふわり湯気ゆれる。
芳香ゆるやかな温もりの窓、祖父の愛弟子が口ひらいた。

「この担当される丹治先生は非常勤だけどな、ウチの同窓生だよ」

“丹治晄子”

そう記された講師名、ゆるく記憶ふれる。
どこかで見たのだろうか?たどらす名前にノック響いた。

「失礼します、周太いますか?」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】

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