萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第86話 建巳 act.32 another,side story「陽はまた昇る」

2021-10-07 23:52:00 | 陽はまた昇るanother,side story
Do take a sober colouring from an eye 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.32 another,side story「陽はまた昇る」

あまい香ばしい、空気が満ちる。

「ん…いい匂い、」

オーブンくゆらす香が温かい。
懐かしくて優しくて、ほっと息吐いて玄関が鳴った。

「あ、」

鍵ひらく音、軽やかなパンプスが鳴る。
そして気がついた時計に瞬いて、台所の扉が開いた。

「ただいま周、すごく素敵な匂いね?」

優しいアルト微笑んで、黒髪ゆるく波うつ。
気づかなかったなんて?迂闊に気恥ずかしく微笑んだ。

「おかえりなさい、お母さん…出迎えなくてごめんね?」
「鍵ちゃんと持ってるから大丈夫よ、」

黒目がちの瞳が微笑んで、ストール畳みながら見回してくれる。
すぐオーブンに気がついて、白い頬ふわり笑ってくれた。

「スコン焼いたのね、外まで良い匂いしてたわよ、」
「ん、ちょうど焼きあがったとこ、」

答えながらダイニングの椅子、掛けたままのジャケットに気恥ずかしい。
すぐ傍の鞄もそのまま母が見て、けれど朗らかに笑ってくれた。

「せっかく焼き立てだもの、お茶にしましょっか?ごはん前だけど、たまにはいいわよね、」

微笑んで、白い手がジャケット脱いで椅子に掛ける。
ショルダーバッグも書類鞄も傍ら下ろして、ブラウスの袖まくりした。

「周、ちょっと手を洗わせて?」

シンクの蛇口ひねって洗いだす、こんなこと普段しないのに?
けれど伝わる意図に、そっと周太は微笑んだ。

「ありがとう…お母さん、」

同じことしてくれた、今の僕と。
その寄り添う温もりに、黒目がちの瞳くるり笑った。

「こちらこそよ、素敵なスコンありがとうね。甘いもの食べたかったのよ、」
「よかった…でも急いで作ったから、」

答えながらティーポットの湯をきって、新しい缶をひらく。
かちり開いた蓋ふわり、ほろ甘い渋い芳香に母が笑った。

「あら、新しい紅茶ね?」
「ん、帰りに買ってきたんだ…」

話しながら手もと動かして、さらさら湯を注ぐ。
くゆらす馥郁やわらかに寛いで、琥珀色の温もり微笑んだ。

「テラスで食べよっか、運ぶわね、」

ブラウスにスラックス姿で母が笑う。
トレイ運んでふたり、窓辺の席に寛いだ。

「きれいな焼き色、あいかわらず上手ね。ん、おいしい!」

笑ってくれる口もと、一口さくり、唇ほころばす。
黒目がちの瞳きらきら明るんで、嬉しくて微笑んだ。

「よかった…ひさしぶりに作ったから、」

本当に久しぶりだ、菓子を焼くなんて。
こんなの女の子みたいかもしれない?でも、僕はこうしたかった。

―これも僕なんだもの、ね?

急にお菓子つくって、お茶を淹れて。
こんなこと男らしくないかもしれない、それでも僕は好きだ。

「ん、」

さくり一口、温もり甘く芳醇ほどけて沁みる。
こんなふう甘いものが好きだ、作るのも食べるのも、食べてもらうことも。

「あまいものって幸せね、夜は特においしいのよね、」

朗らかなアルト笑ってくれる、黒目がちの瞳くるり弾む。
なんだか悪戯っ子みたいだ?こんな母が楽しくて笑った。

「ん、おいしくて良かった、」
「本当においしいわ、でも毎日やったら太るわね?」

それでも幸せかな?そんな呟きと明るい瞳ほころぶ。
こんな貌を見るのが好きで、それは多分きっと、父も同じだった。

―お父さんと一緒に作ったもの、いつも…いつも、楽しくて、

幼い日、穏やかな笑顔と芳醇あまやかな香。
あの時間が大好きだった、だから父の死に自分は時を止めていた。
それでも今、ありのまま口つけるカップは温かで、かすかに渋い甘い馥郁やわらかい。

「…おいしいね、」

ただ素直に息ついて、唇そっと花が香る。
きっと朝より咲きだしたろう、そんな窓に微笑んだ。

「桜、咲いたね…」

声こぼれた窓、硝子やわらかに花が映る。
月かすかな梢あわく白い、きっと朝には薄紅そまる。
もう桜が咲いた、あの苑池でも咲いた、そうして父の命日が訪れる。

「お母さん…今日、英二にあったんだ、」

今日、父の命日が近い。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」より抜粋】

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