Wakes old chords in the memory―晨、黄昏の言葉に
第67話 陽向act.8―another,side story「陽はまた昇る」
暖簾を出た視界、街は金色に輝いた。
黄金まばゆい光が摩天楼きらめかせアスファルトに照り映える。
細めて仰いだ街路樹の向こう、薄墨色の夕闇から落陽が瞳を染めた。
「すごい夕映えね、きれい、」
朗らかなソプラノが笑って黄昏を歩き出す。
その青いシャツのギンガムチェックが夕陽に変えた色彩に周太は笑いかけた。
「美代さんのシャツね、青が緑色になってるよ?」
「あ、ほんとね、湯原くんは白がお日様の色になってる、」
楽しげに笑ってくれる明るい瞳も、黄昏きらめいて光踊る。
その瞳がすこし上を見、可笑しそうに笑った。
「手塚くんの眼鏡、空を映してるよ?」
言われて見上げた先、日焼あわい顔の眼鏡が金いろ輝かす。
そんな黄昏の鏡は振向いて愛嬌の瞳ほころばせた。
「空を映すってナンカ詩人っぽいな、小嶌さん文学系も読む人?」
「うん、姉が本を好きだから私も影響されたの、幼馴染はフランス文学に詳しいし、」
楽しげな声の言葉に、そっと鼓動ひとつ心を軋ます。
それでも微笑んで歩く黄昏の街に初夏の記憶が佇む。
―初任総合の時に光一、新宿まで会いに来てくれたね…英二に嫌われたんじゃないかって心配で、
まだ夏の初めだった記憶のなか、幼馴染の困ったような哀しそうな制服姿が懐かしい。
あんな貌の光一を見たのは初めてだった、そして今も自分の所為で同じ貌をさせているかも知れない。
―きっと光一は俺の異動を気が付いてるよね、同じ七機で小隊長って立場なら…あ、
いま聴いたばかりの言葉に、ひとつの可能性が思いつく。
ずっと失念していた要素が起こされるまま、ことんと記憶の言葉が啓いた。
―…『源氏の君最後の恋』をね、いちばん読んだよ
冬一月の透明なテノールが言ったのはフランス文学の名著『東方綺譚』に納められた章の名前。
あの本は普通の書店では店頭に売っていない、それくらいフランス文学は日本での普及が低い現状にある。
それでも章名を即答できたのは光一がフランス文学を知っているためだろう、その事実に可能性が浮上する。
―光一はお祖父さんの本のこと、前から知ってるかもしれない…ね?
もし祖父の本を光一が知っていたのなら?
それなら何故あのとき光一は何も言わなかったのだろう?
―お祖父さんの本をもらって来た夜、本を光一は見てたよね?でも、何も言わなかったのは…どうして?
祖父の本を知りながら光一は何も言わなかった。
そう仮定するならば「言わなかった」理由に考えられることは何か?
その理由を裏付ける事実を追いかける記憶に七月のカレンダーが捲られて、周太は小さく息呑んだ。
「…あ、」
七月、今から2ヶ月前の時系列に祖父の小説がページを開く。
立ち止まった脚に金色の雲を映す視界のまま、異国の言葉が呼吸を引っ叩いた。
“Mon pistolet”
“Je te donne la recherche”
この言葉たちを繋げるとき「七月の夜」は何を示す?
―あの夜、もしかして光一と英二は、
繋がっていく言葉たちに浮上する可能性が、呼吸の仕方を狂わせる。
どこか詰まりだす胸と喉に迫り上げる感覚に周太はすばやく鞄を開いた。
「…ぅ、ぐっ」
咳込みかける喉を押えながら薬袋とペットボトルを取出して、すぐ口ふくんだ薬を飲下す。
こくんと喉すべり落ちてゆく固形物と冷たい感覚に整える呼吸へと、足音二つ引き返してくれた。
「湯原くん?急に立ち止まってどうしたの、大丈夫?」
心配そうなトーンで美代が訊いてくれる隣、賢弥も思案気に見つめてくれる。
ふたりに気遣わせたくなくて周太はペットボトルだけ示し微笑んだ。
「ん、のど乾いちゃったから水飲みたくて…急に立ち止まってごめんね、」
「あー、ラーメン食った後って喉乾くもんな?」
闊達に笑いかけてくれる賢弥の笑顔に、美代もほっとしたよう笑ってくれる。
その綺麗な明るい目で周太を真直ぐ見つめて微笑んで、美代は提案をくれた。
「湯原くん、あの花屋さんに寄ってもいい?素敵な花屋さんなのよって今、話してたの、」
あの花屋さん、そう言われて首すじ熱くなってくる。
久しぶりに訪れる嬉しさと気恥ずかしさに周太は微笑んだ。
「ん、俺も寄りたいな、」
異動してから一度も、花屋の彼女を見ていない。
異動前は週休や非番の夕方に少しの時間でも立ち寄って、いつも彼女と言葉を交わしていた。
けれど異動してからはラーメン屋と同じに機会も無いまま1ヵ月過ぎ、そして明後日からはもっと時間が減る。
その前に顔を見て声を聴いておきたいと想っていた、そんな想い何か羞みたくなる隣から賢弥が笑ってくれた。
「へえ、周太って常連の花屋もあるんだ、俺も一緒に行っていい?花屋って入ったこと無いんだ、」
「ん、一緒に行こ?」
頷いて歩き出すと賢弥も笑って一緒に歩きだしてくれる。
いつもの愛嬌に大らかな笑顔が嬉しくて周太は笑いかけた。
「花を本当に大切にしてるし、ああいう感じって賢弥も好きだと思う…ね、美代さん?」
「うん、あのお店って素敵だもの、お洒落なのに優しくって懐かしい感じで、」
綺麗な明るい目で話してくれる通り、あの店はどこか懐かしさがある。
それとよく似た空気を知っているようで少し首傾げた隣から、闊達な声が笑った。
「そういう店って好きだよ、俺も。でも周太、なんでソンナ照れくさそうにしてるわけ?」
お願い、その質問はもっと照れちゃうから待って?
そう言いたいけれど、言う事すら恥ずかしくて尚更に困ってしまう。
同じ困るなら正直に言った方が良いかな?呼吸ひとつ覚悟を決めて周太は口を開いた。
「あのね、その花屋さんのひとが素敵なんだ、俺、憧れてるの、」
憧れてる、そんなことまで言ってしまった。
そこまで言う心算は無かった、けれど声になってしまった本音に額までもう熱い。
ここまで明確に言った相手は母と英二と美代だけで、それを友達に言った気恥ずかしさに愛嬌の笑顔は訊いてくれた。
「もしかして周太、その人が花の女神さまみたいって人?花を『この子』って呼ぶ花屋の人だってオールの時に言ってた、」
その通りご明答です。
そう心では返事しても恥ずかしさに声が詰まってしまう。
ただ熱くなる顔を頷かせた隣、優しいソプラノが笑いかけてくれた。
「あの店長さんって私も憧れちゃう、背もすらっと高くてとっても綺麗な人よ?擦違うと花みたいな香がして、声も言葉も綺麗なの、」
「小嶌さんまで憧れちゃうなんて相当の美人だ?でも店長さんってコトは若くても二十代後半か、周太って年上にウケそうだもんな」
楽しそうな友達の言葉にバレンタインの記憶が面映ゆい。
確かに言われる通り、チョコレートの贈り主は3人以外全員が年上女性だった。
―美代さんのお祖母さんたちとか…9人中6人が年上のひとたちだけど、でもほんめいじゃないし…お花屋さんは常連のお礼だし、
心つぶやきながら、けれど恥ずかしくて声に出来ない。
もう熱くて仕方ない首すじの衿元を撫でる含羞に3歳年下の友人は笑ってくれた。
「ほんと周太って可愛いよな、こんな話題で真赤になるなんてさ、オールの時は酒飲んでたから話せたってことなんだ、」
その通り、素面じゃちょっと話し難いです。
そんな返事を声にならないまま頷いた足許が歩き慣れた路に入る。
行き交う雑踏の向こう顔見知りの扉は夕映え光るオレンジきらめく、もうじきに着いてしまう。
それなのに真赤な貌が気恥ずかしくて困らされる隣から、綺麗な明るい目の笑顔が庇ってくれた。
「手塚くん、あまりツッコみ過ぎないで?ほんとに湯原くんは純情なんだもの、これからお店行くのに真赤じゃ困るでしょ?」
「そっか、ごめんな周太?つい楽しくなっちゃった、俺、」
悪びれず賢弥は笑って謝ってくれる。
こういう素直なところが自分は好きだ、そんな友人が嬉しくて周太は微笑んだ。
「ううん、俺こそごめんね、こんなことですぐ赤くなったりして…子供っぽいね、俺、」
「あははっ、子供っぽいなら俺も同じだよ、なんかに熱中すると飯食うのも忘れちゃうしさ、ほんとガキなんだ俺、」
同じだと笑ってくれる声に、嬉しくなる。
自分の子供っぽさは記憶喪失に原因があるとも吉村医師は言ってくれた。
たとえ病理的問題であっても男としてはコンプレックスに想えて、けれど賢弥は「同じだ」と笑って認めてしまう。
―こういうふうに自分を呑みこめるって、かっこいいな?
この友人に、年齢差と立場の差を超えて素直な想いが温まる。
こんなふうに沢山の想いを重ねて行けたなら、いつか自分の事情も全て話せる信頼も積める?
そんな未来予想に嬉しく笑って周太は大好きな店の扉に掌かけて、大切な友人ふたりへ綺麗に笑った。
「あのね、ここは俺の大好きな場所の一つだよ?…どうぞ、」
からん、可愛いベルが鳴って無垢材の扉が開かれる。
ふわり優しい甘い香が頬撫でて、白とベージュが基調の明るい空間に花々が咲く。
秋薔薇の豊麗に撫子の可憐、青と白の清々しい桔梗、こぼれる萩の赤紫と白い山野の香。
夏から秋が彩らす花園の向こう、艶やかな髪束ねたエプロン姿が現われて深く澄んだ声が微笑んだ。
「いらっしゃいませ、久しぶりね、元気だったの?」
綺麗な声の親しい口調に、鼓動ひとつ弾んで温かい。
この声と笑顔に会うたび面映ゆくて、けれど寛げる温もりに周太は微笑んだ。
「はい、元気です…あの、友達も一緒に見させてもらって良いですか?」
久しぶりの挨拶にも小さな嘘が疼いて、けれど会えたことが嬉しい。
お互い名前も知らない同士、それでも会えば笑顔を交わせる人は楽しそうに頷いてくれた。
「ええ、もちろんよ。ゆっくり見ていってね、この子たちも見てもらうと喜んで、もっと綺麗になってくれるから、」
優しい笑顔ほころばせて、華奢な白い手で招じてくれる。
その手に散らばる小さな傷痕に働き者の標まばゆい、つい見惚れた先で澄んだ瞳が美代に笑いかけた。
「春にいらっしゃいましたよね、ピンクのチューリップとスイートピーの花束を連れて行ってくれて、」
「はい、そうです。すごい、私も花も憶えてくれてるんですね?」
綺麗な明るい目が笑ってソプラノの声を弾ませる。
嬉しそうに笑う美代に店主も微笑んで、薄紅ぼかしの薔薇を指さしてくれた。
「お店に来てくれた方と、お花を憶えるのだけは得意なんです。今日の子たちなら、この子がお好みじゃありませんか?」
「当たりです、お店に入った時から見ていたの。夜明の空みたいで綺麗だなって、」
嬉しそうに笑って美代はエプロン姿の隣に行くと暁色の花に微笑んだ。
本当に花が好き、そんな美代の笑顔に彼女も楽しげに優しい瞳ほころばせた。
「夜明けの空って、この子にぴったりだわ。こっちの子はどんな感じですか?」
「わ、素敵な白萩。滝みたいですね、小さな花が水の飛沫みたいで。綺麗な葉っぱの青いろも良い水と似ています、」
楽しげなソプラノが花を喩えていく。
その言葉に澄んだ深い声が嬉しそうに微笑んだ。
「本当に滝みたいだわ、お客様の言葉で花が詩になりますね、」
言葉で花が詩になる。
そんな言葉に父が遺した愛読書の、異国の詩が映りこむ。
Thus one cunning in music
Wakes old chords in the memory:
Thus fair earth in the Spring leads her performances.
One more touch of the bow,
smell of the virginal
Green-one more, and my bosom
Feels new life with an ecstasy.
たとえば音楽に籠る一つの巧妙は
記憶の古い琴線を呼び覚ます
そんなふうに春清らかな大地は花の旋律を導く
いま一たび弓で琴線に触れたなら
その清らかに無垢な香は
いま一たび緑を深め、そして私の心深くに
高らかな歓喜と新たな命を響かせる
幼い頃に読んでくれた記憶の詩が、今ここにある花と言葉に呼応する。
こんな想い運んでくれる二人の会話が嬉しい、友達を連れてきて良かったと想える。
やっぱり美代と花園の主は気が合うらしい、そんな二人が嬉しくて周太は賢弥に笑いかけた。
「ね、賢弥もここ好きそう?…ぁ、」
笑いかけた先で日焼あわい貌は黙りこんで、なんだかいつもと空気が違う。
いつも愛嬌の笑顔で誰にも話しかける賢弥、それなのに今ぼんやり立っている肩を軽く周太は叩いた。
「賢弥、どうしたの?」
「おあっ、」
叩いた肩ひとつ跳ねさせて眼鏡の瞳を瞬かす。
そんな変わった様子に首傾げた周太に闊達な笑顔は言ってくれた。
「周太が女神さまって言ったの、なんか俺も解かるや、」
【引用詩文:Robert Louis Stevenson「Flower God, God of the Spring」】
(to be continued)
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第67話 陽向act.8―another,side story「陽はまた昇る」
暖簾を出た視界、街は金色に輝いた。
黄金まばゆい光が摩天楼きらめかせアスファルトに照り映える。
細めて仰いだ街路樹の向こう、薄墨色の夕闇から落陽が瞳を染めた。
「すごい夕映えね、きれい、」
朗らかなソプラノが笑って黄昏を歩き出す。
その青いシャツのギンガムチェックが夕陽に変えた色彩に周太は笑いかけた。
「美代さんのシャツね、青が緑色になってるよ?」
「あ、ほんとね、湯原くんは白がお日様の色になってる、」
楽しげに笑ってくれる明るい瞳も、黄昏きらめいて光踊る。
その瞳がすこし上を見、可笑しそうに笑った。
「手塚くんの眼鏡、空を映してるよ?」
言われて見上げた先、日焼あわい顔の眼鏡が金いろ輝かす。
そんな黄昏の鏡は振向いて愛嬌の瞳ほころばせた。
「空を映すってナンカ詩人っぽいな、小嶌さん文学系も読む人?」
「うん、姉が本を好きだから私も影響されたの、幼馴染はフランス文学に詳しいし、」
楽しげな声の言葉に、そっと鼓動ひとつ心を軋ます。
それでも微笑んで歩く黄昏の街に初夏の記憶が佇む。
―初任総合の時に光一、新宿まで会いに来てくれたね…英二に嫌われたんじゃないかって心配で、
まだ夏の初めだった記憶のなか、幼馴染の困ったような哀しそうな制服姿が懐かしい。
あんな貌の光一を見たのは初めてだった、そして今も自分の所為で同じ貌をさせているかも知れない。
―きっと光一は俺の異動を気が付いてるよね、同じ七機で小隊長って立場なら…あ、
いま聴いたばかりの言葉に、ひとつの可能性が思いつく。
ずっと失念していた要素が起こされるまま、ことんと記憶の言葉が啓いた。
―…『源氏の君最後の恋』をね、いちばん読んだよ
冬一月の透明なテノールが言ったのはフランス文学の名著『東方綺譚』に納められた章の名前。
あの本は普通の書店では店頭に売っていない、それくらいフランス文学は日本での普及が低い現状にある。
それでも章名を即答できたのは光一がフランス文学を知っているためだろう、その事実に可能性が浮上する。
―光一はお祖父さんの本のこと、前から知ってるかもしれない…ね?
もし祖父の本を光一が知っていたのなら?
それなら何故あのとき光一は何も言わなかったのだろう?
―お祖父さんの本をもらって来た夜、本を光一は見てたよね?でも、何も言わなかったのは…どうして?
祖父の本を知りながら光一は何も言わなかった。
そう仮定するならば「言わなかった」理由に考えられることは何か?
その理由を裏付ける事実を追いかける記憶に七月のカレンダーが捲られて、周太は小さく息呑んだ。
「…あ、」
七月、今から2ヶ月前の時系列に祖父の小説がページを開く。
立ち止まった脚に金色の雲を映す視界のまま、異国の言葉が呼吸を引っ叩いた。
“Mon pistolet”
“Je te donne la recherche”
この言葉たちを繋げるとき「七月の夜」は何を示す?
―あの夜、もしかして光一と英二は、
繋がっていく言葉たちに浮上する可能性が、呼吸の仕方を狂わせる。
どこか詰まりだす胸と喉に迫り上げる感覚に周太はすばやく鞄を開いた。
「…ぅ、ぐっ」
咳込みかける喉を押えながら薬袋とペットボトルを取出して、すぐ口ふくんだ薬を飲下す。
こくんと喉すべり落ちてゆく固形物と冷たい感覚に整える呼吸へと、足音二つ引き返してくれた。
「湯原くん?急に立ち止まってどうしたの、大丈夫?」
心配そうなトーンで美代が訊いてくれる隣、賢弥も思案気に見つめてくれる。
ふたりに気遣わせたくなくて周太はペットボトルだけ示し微笑んだ。
「ん、のど乾いちゃったから水飲みたくて…急に立ち止まってごめんね、」
「あー、ラーメン食った後って喉乾くもんな?」
闊達に笑いかけてくれる賢弥の笑顔に、美代もほっとしたよう笑ってくれる。
その綺麗な明るい目で周太を真直ぐ見つめて微笑んで、美代は提案をくれた。
「湯原くん、あの花屋さんに寄ってもいい?素敵な花屋さんなのよって今、話してたの、」
あの花屋さん、そう言われて首すじ熱くなってくる。
久しぶりに訪れる嬉しさと気恥ずかしさに周太は微笑んだ。
「ん、俺も寄りたいな、」
異動してから一度も、花屋の彼女を見ていない。
異動前は週休や非番の夕方に少しの時間でも立ち寄って、いつも彼女と言葉を交わしていた。
けれど異動してからはラーメン屋と同じに機会も無いまま1ヵ月過ぎ、そして明後日からはもっと時間が減る。
その前に顔を見て声を聴いておきたいと想っていた、そんな想い何か羞みたくなる隣から賢弥が笑ってくれた。
「へえ、周太って常連の花屋もあるんだ、俺も一緒に行っていい?花屋って入ったこと無いんだ、」
「ん、一緒に行こ?」
頷いて歩き出すと賢弥も笑って一緒に歩きだしてくれる。
いつもの愛嬌に大らかな笑顔が嬉しくて周太は笑いかけた。
「花を本当に大切にしてるし、ああいう感じって賢弥も好きだと思う…ね、美代さん?」
「うん、あのお店って素敵だもの、お洒落なのに優しくって懐かしい感じで、」
綺麗な明るい目で話してくれる通り、あの店はどこか懐かしさがある。
それとよく似た空気を知っているようで少し首傾げた隣から、闊達な声が笑った。
「そういう店って好きだよ、俺も。でも周太、なんでソンナ照れくさそうにしてるわけ?」
お願い、その質問はもっと照れちゃうから待って?
そう言いたいけれど、言う事すら恥ずかしくて尚更に困ってしまう。
同じ困るなら正直に言った方が良いかな?呼吸ひとつ覚悟を決めて周太は口を開いた。
「あのね、その花屋さんのひとが素敵なんだ、俺、憧れてるの、」
憧れてる、そんなことまで言ってしまった。
そこまで言う心算は無かった、けれど声になってしまった本音に額までもう熱い。
ここまで明確に言った相手は母と英二と美代だけで、それを友達に言った気恥ずかしさに愛嬌の笑顔は訊いてくれた。
「もしかして周太、その人が花の女神さまみたいって人?花を『この子』って呼ぶ花屋の人だってオールの時に言ってた、」
その通りご明答です。
そう心では返事しても恥ずかしさに声が詰まってしまう。
ただ熱くなる顔を頷かせた隣、優しいソプラノが笑いかけてくれた。
「あの店長さんって私も憧れちゃう、背もすらっと高くてとっても綺麗な人よ?擦違うと花みたいな香がして、声も言葉も綺麗なの、」
「小嶌さんまで憧れちゃうなんて相当の美人だ?でも店長さんってコトは若くても二十代後半か、周太って年上にウケそうだもんな」
楽しそうな友達の言葉にバレンタインの記憶が面映ゆい。
確かに言われる通り、チョコレートの贈り主は3人以外全員が年上女性だった。
―美代さんのお祖母さんたちとか…9人中6人が年上のひとたちだけど、でもほんめいじゃないし…お花屋さんは常連のお礼だし、
心つぶやきながら、けれど恥ずかしくて声に出来ない。
もう熱くて仕方ない首すじの衿元を撫でる含羞に3歳年下の友人は笑ってくれた。
「ほんと周太って可愛いよな、こんな話題で真赤になるなんてさ、オールの時は酒飲んでたから話せたってことなんだ、」
その通り、素面じゃちょっと話し難いです。
そんな返事を声にならないまま頷いた足許が歩き慣れた路に入る。
行き交う雑踏の向こう顔見知りの扉は夕映え光るオレンジきらめく、もうじきに着いてしまう。
それなのに真赤な貌が気恥ずかしくて困らされる隣から、綺麗な明るい目の笑顔が庇ってくれた。
「手塚くん、あまりツッコみ過ぎないで?ほんとに湯原くんは純情なんだもの、これからお店行くのに真赤じゃ困るでしょ?」
「そっか、ごめんな周太?つい楽しくなっちゃった、俺、」
悪びれず賢弥は笑って謝ってくれる。
こういう素直なところが自分は好きだ、そんな友人が嬉しくて周太は微笑んだ。
「ううん、俺こそごめんね、こんなことですぐ赤くなったりして…子供っぽいね、俺、」
「あははっ、子供っぽいなら俺も同じだよ、なんかに熱中すると飯食うのも忘れちゃうしさ、ほんとガキなんだ俺、」
同じだと笑ってくれる声に、嬉しくなる。
自分の子供っぽさは記憶喪失に原因があるとも吉村医師は言ってくれた。
たとえ病理的問題であっても男としてはコンプレックスに想えて、けれど賢弥は「同じだ」と笑って認めてしまう。
―こういうふうに自分を呑みこめるって、かっこいいな?
この友人に、年齢差と立場の差を超えて素直な想いが温まる。
こんなふうに沢山の想いを重ねて行けたなら、いつか自分の事情も全て話せる信頼も積める?
そんな未来予想に嬉しく笑って周太は大好きな店の扉に掌かけて、大切な友人ふたりへ綺麗に笑った。
「あのね、ここは俺の大好きな場所の一つだよ?…どうぞ、」
からん、可愛いベルが鳴って無垢材の扉が開かれる。
ふわり優しい甘い香が頬撫でて、白とベージュが基調の明るい空間に花々が咲く。
秋薔薇の豊麗に撫子の可憐、青と白の清々しい桔梗、こぼれる萩の赤紫と白い山野の香。
夏から秋が彩らす花園の向こう、艶やかな髪束ねたエプロン姿が現われて深く澄んだ声が微笑んだ。
「いらっしゃいませ、久しぶりね、元気だったの?」
綺麗な声の親しい口調に、鼓動ひとつ弾んで温かい。
この声と笑顔に会うたび面映ゆくて、けれど寛げる温もりに周太は微笑んだ。
「はい、元気です…あの、友達も一緒に見させてもらって良いですか?」
久しぶりの挨拶にも小さな嘘が疼いて、けれど会えたことが嬉しい。
お互い名前も知らない同士、それでも会えば笑顔を交わせる人は楽しそうに頷いてくれた。
「ええ、もちろんよ。ゆっくり見ていってね、この子たちも見てもらうと喜んで、もっと綺麗になってくれるから、」
優しい笑顔ほころばせて、華奢な白い手で招じてくれる。
その手に散らばる小さな傷痕に働き者の標まばゆい、つい見惚れた先で澄んだ瞳が美代に笑いかけた。
「春にいらっしゃいましたよね、ピンクのチューリップとスイートピーの花束を連れて行ってくれて、」
「はい、そうです。すごい、私も花も憶えてくれてるんですね?」
綺麗な明るい目が笑ってソプラノの声を弾ませる。
嬉しそうに笑う美代に店主も微笑んで、薄紅ぼかしの薔薇を指さしてくれた。
「お店に来てくれた方と、お花を憶えるのだけは得意なんです。今日の子たちなら、この子がお好みじゃありませんか?」
「当たりです、お店に入った時から見ていたの。夜明の空みたいで綺麗だなって、」
嬉しそうに笑って美代はエプロン姿の隣に行くと暁色の花に微笑んだ。
本当に花が好き、そんな美代の笑顔に彼女も楽しげに優しい瞳ほころばせた。
「夜明けの空って、この子にぴったりだわ。こっちの子はどんな感じですか?」
「わ、素敵な白萩。滝みたいですね、小さな花が水の飛沫みたいで。綺麗な葉っぱの青いろも良い水と似ています、」
楽しげなソプラノが花を喩えていく。
その言葉に澄んだ深い声が嬉しそうに微笑んだ。
「本当に滝みたいだわ、お客様の言葉で花が詩になりますね、」
言葉で花が詩になる。
そんな言葉に父が遺した愛読書の、異国の詩が映りこむ。
Thus one cunning in music
Wakes old chords in the memory:
Thus fair earth in the Spring leads her performances.
One more touch of the bow,
smell of the virginal
Green-one more, and my bosom
Feels new life with an ecstasy.
たとえば音楽に籠る一つの巧妙は
記憶の古い琴線を呼び覚ます
そんなふうに春清らかな大地は花の旋律を導く
いま一たび弓で琴線に触れたなら
その清らかに無垢な香は
いま一たび緑を深め、そして私の心深くに
高らかな歓喜と新たな命を響かせる
幼い頃に読んでくれた記憶の詩が、今ここにある花と言葉に呼応する。
こんな想い運んでくれる二人の会話が嬉しい、友達を連れてきて良かったと想える。
やっぱり美代と花園の主は気が合うらしい、そんな二人が嬉しくて周太は賢弥に笑いかけた。
「ね、賢弥もここ好きそう?…ぁ、」
笑いかけた先で日焼あわい貌は黙りこんで、なんだかいつもと空気が違う。
いつも愛嬌の笑顔で誰にも話しかける賢弥、それなのに今ぼんやり立っている肩を軽く周太は叩いた。
「賢弥、どうしたの?」
「おあっ、」
叩いた肩ひとつ跳ねさせて眼鏡の瞳を瞬かす。
そんな変わった様子に首傾げた周太に闊達な笑顔は言ってくれた。
「周太が女神さまって言ったの、なんか俺も解かるや、」
【引用詩文:Robert Louis Stevenson「Flower God, God of the Spring」】
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