萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第86話 建巳 act.9 another,side story「陽はまた昇る」

2020-09-03 22:50:13 | 陽はまた昇るanother,side story
A 5 ou 6 heures du soir 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.9 another,side story「陽はまた昇る」

小鍋の火を止めて、醤油ふわり甘辛い。
こんな匂いすら懐かしい、僕が大好きな台所。

「…ただいま?」

ひとりごと微笑んで、馴染んだ時間が懐かしむ。
もう100年以上を使いこまれた台所、けれどタイルひとつも清潔に光る。
こんなふう星霜ずっと大切にしてきた、そんな空間で手紙なぞられる。

“お菓子も一緒に作りたいわ、スコンは君のお祖父さんもお気に入りです、君も私みたいに甘いものが大好きかしら。”

私の孫になる君へ、愛しい君へ。
そう宛て呼びかけて、書きのこしてくれた自分の祖母。
父の母で祖父の妻だったひと、そして、生きて会えなくても自分の祖母。

「おばあさん…ここでお菓子を作ったんだね?」

もう生きていない、それでも呼びかけてしまう。
だって彼女は確かに生きて、ここにいた。

「…明日はスコン焼こうかな、」

ひとりごと微笑んで、エプロン外して息ほっと吐く。
ずっと見慣れた家の台所、周太はスマートフォンの画面ひらいた。

「…、」

指先ふれて受信ボックス開ける。
昨日の日時ふたつ見つめて、最初の一つあらためて開いた。

……
From 湯原美幸
件名 出張になりました
本文 急にごめんね周太、今から大阪支社に出張なの。
   明日の夜、19時にはそちらに戻るはずよ。
   おばさまには出張のこと電話したわ、菫さんにもメールしてあります。
   奥多摩は雪だったのかしら、風邪なんてゼッタイにひいちゃだめよ?
   今日は話したいこと色々あったけど、今夜はおたがい一人が良いのかもしれないね?
……

綴られる電子文字に母の想いが温かい。
どうして息子の自分に電話しなかったのか?理由を告げない行間に微笑んだ。

「ひとりで考えるよ…おかあさん?」

昨夜から考え続けている、今も。
そうして話したいこと増えていく、きっと母も同じだろう。
昨日あの一日の後、そして今日の一日に訊きたいことも増えていく。

―お母さんも考えてる、昨日も今日も…美代さんのこと、英二のこと…おとうさんのこと、

昨日、あの二人にめぐる想いと約束。
その全て母は聴きたいだろう、そして今日のことも。
お互いに聴いて話して、そうして結論いくつか見つけなくてはいけない。

「…英二、」

ほら名前こぼれだす、零れて唇そっと熱い。
あの眼ざしに逢ってしまったら、僕はどうなるのだろう?

『うまい、すごく美味いよ?周太、』

この台所で、ダイニングで、あの笑顔ほころんだ。
きれいな切長い瞳ほころばせて、端整な口もと健やかに食べていく。
あの眼差しに見つめられたら、今、こうなってしまった今の僕はどうなるのだろう?

―でも美代さんが大事なんだ僕は…こんなに英二を思い出すのにどうして、

大きな瞳まっすぐ澄んだ、あの勇敢な女の子。
薔薇色の頬きれいに健やかで、どこまでも実直まぶしい努力のひと。

『だからもう帰るとこないの私、これで落ちてたら…ほんとバカだけど、泣くけど、でも…後悔しない、』

一昨日、合格発表前に彼女は泣いた。
桜咲くキャンパスかたすみ大きな瞳は揺れて、それでも決めていた。

“泣くけど、でも後悔しない”

そう言い切れる瞳が好きだ、泣いても強い勁い明るい瞳。
好きで、だから昨日も共に奥多摩へ彼女の実家へ行ってしまった。
彼女の分岐点を共に立ちたいと、肚底から願ってしまったから。

―好きなんだ僕は…どうしようもなく好きだから、一緒に行ったんだ、

強い勁い女の子、それは優しい強さ。
泣いても立ちあがる彼女が好きだ、泣いても笑って寄りそてくれる彼女が好きだ。
この好きは普通の好きじゃない、そんな自覚もうとっくにしている、それなのに今この瞬間もあなたを見ている。

『雪山はきれいだよ、周太、』

そう語ってくれたあなたの眼、きれいだった。
はるかな山の世界を駆けるひと、あなた今どこにいる?

「…訓練も気をつけてね?」

言葉そっと零れて鼓動せりあげる。
自分の言葉ひとつ思い出す、救助隊服まとう広い大きな、あなたの背中。
ずっと見つめていられたら?想い、そうして今日の真昼が映りこむ。

『宮田先生は最高検察庁の次長検事を務めた方です。退官されて弁護士事務所を開かれたのですが、事務所のバイトは勉強もみてもらえました、』

細い瞳おだやかな、冷静なくせ明るい視線。
あの青年は長野にも現れた。

―加田さんのことも…どうしようこれから、

検察官、そして大叔母を「私の先生の奥様」と呼ぶひと。
そんな人が同居を申し出た、それだけ大叔母の信頼があるのだろう。

―英二のことも知ってるよね、でも…僕と英二の関係は、

あの青年が「先生の奥様」の孫と、自分のことを知ったら?
なにか苦しくなる、けれど、それと同居は関係ない。

―おばあさまは英二と僕のこと解っていて、このこと提案してる…なぜ?

なぜ大叔母は、あの青年をこの家に住ませたいのだろう?
わからない、それに自分だけで決めることは違う。
この家の主はあくまで母だ。

「…ん、」

ひとり肯いてリビングの片隅、ライティングデスクにパソコン開く。
判断材料すこしでも揃えておきたい、考えにホームページひとつ開いた。

「ん、」

同居人を申し出る、その人を少しでも知りたい。
その職場を示す電子文字に、サイトページ開いた。

“検察の理念”

そう記されるタイトルに、自分も少し知れるだろうか?
まだ二度しか会っていない青年、その職が掲げる言葉を見つめた。
……
あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない。
…そのような処分、科刑を実現するためには、各々の判断が歪むことのないよう、公正な立場を堅持すべきである。
権限の行使に際し、いかなる誘引や圧力にも左右されないよう、どのような時にも、厳正公平、不偏不党を旨とすべきである。
また、自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず、時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である。
……
綴られる言葉に、あの細い瞳が見つめられる。
それからもうひとつ、あなたの眼。

「そういう血なんだね…英二?」

いかなる誘引や圧力にも左右されない、まるであなただ?
自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず、あなたの言動そのままだ。
そして何より、

「…時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である、」

傷つくことを恐れない、そういうひと。
そういうひとだから、この僕の、この家の連鎖に関わってしまった。

※加筆校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

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斗貴子の手紙

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