大手道左右にある曲輪群
大手の左手、竹の柵がありますが、入り口が北側にあります。西曲輪(仮に)南側に土塁が確認できます。
西曲輪南下の腰曲輪
大手の右手切岸
東曲輪(仮に)ここには段差で仕切り三つの曲輪があります。
大手虎口に入って
帯曲輪に守られた本丸の城壁を見上げています。
山崎城の沿革
山崎城の文献上の初見は林直弘への軍忠状に、“
山城の国山崎警固の事(中略)八王子山に馳せ参じ、鳥取尾城五月廿九日より六月廿三日まで用害警固を致し候 ”
—赤松範資の軍忠状
とあり、鳥取尾城とは山崎城を指し、当時摂津守護であった赤松範資が南朝方を防衛するため林直弘へ警護を命じた。次に文明(1470年)、
山城の国人野田泰忠の軍忠状に、
“
廿四日(中略)山名弾正殿御被官相共に山崎に着陣仕り(中略)城を鳥取尾城に構え在陣致す ”
—野田泰忠の軍忠状
桂川原の主戦場跡
とあり、文明2年12月24日、応仁の乱の時に大内政弘軍が摂津に侵入してきた時に、山名是豊軍が京都を防備するためこの地に陣を構えた。また、文明14年(1482年)には細川政元が入城している。
その次は、
“
山崎の陣、薬師寺九郎左衛門尉没落すと云々 ”
と『二水記』に記されている。この記述は桂川原の戦いの事で、細川高国の打倒を目指す細川晴元軍の波多野稙通隊が八上・神尾山両城の戦いで勝利し、薬師寺国長が立て篭もる山崎城を落城させた。国長は高槻城に逃れ、波多野稙通は摂津諸城を落城させていった。また天文7年(1538年)3月に晴元自身がこの城に赴き修築を実施している。この時普請人夫を洛中洛外から集めたことが、『親俊日記』『兼右卿記』に記されている。翌天文8年(1539年)に三好長慶が反乱を起こした時も、晴元は京都と芥川山城の繋ぎの城として山崎城を利用している。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、中国大返しで中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉、神戸信孝連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城、勝竜寺城へ一時撤退した。翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。
「山崎の戦い」も参照 ウィキペディアより
現在の山崎城の遺構は秀吉家臣の手が入っていると思いますが、山崎城は古くからあったようです。
帯曲輪の西回り
帯曲輪南回り
帯曲輪南から本丸城壁を見ています。
帯曲輪東回り
帯曲輪の東周りでくると二の丸。奥に見えるのが本丸
次回 水の手曲輪 本丸
大手の左手、竹の柵がありますが、入り口が北側にあります。西曲輪(仮に)南側に土塁が確認できます。
西曲輪南下の腰曲輪
大手の右手切岸
東曲輪(仮に)ここには段差で仕切り三つの曲輪があります。
大手虎口に入って
帯曲輪に守られた本丸の城壁を見上げています。
山崎城の沿革
山崎城の文献上の初見は林直弘への軍忠状に、“
山城の国山崎警固の事(中略)八王子山に馳せ参じ、鳥取尾城五月廿九日より六月廿三日まで用害警固を致し候 ”
—赤松範資の軍忠状
とあり、鳥取尾城とは山崎城を指し、当時摂津守護であった赤松範資が南朝方を防衛するため林直弘へ警護を命じた。次に文明(1470年)、
山城の国人野田泰忠の軍忠状に、
“
廿四日(中略)山名弾正殿御被官相共に山崎に着陣仕り(中略)城を鳥取尾城に構え在陣致す ”
—野田泰忠の軍忠状
桂川原の主戦場跡
とあり、文明2年12月24日、応仁の乱の時に大内政弘軍が摂津に侵入してきた時に、山名是豊軍が京都を防備するためこの地に陣を構えた。また、文明14年(1482年)には細川政元が入城している。
その次は、
“
山崎の陣、薬師寺九郎左衛門尉没落すと云々 ”
と『二水記』に記されている。この記述は桂川原の戦いの事で、細川高国の打倒を目指す細川晴元軍の波多野稙通隊が八上・神尾山両城の戦いで勝利し、薬師寺国長が立て篭もる山崎城を落城させた。国長は高槻城に逃れ、波多野稙通は摂津諸城を落城させていった。また天文7年(1538年)3月に晴元自身がこの城に赴き修築を実施している。この時普請人夫を洛中洛外から集めたことが、『親俊日記』『兼右卿記』に記されている。翌天文8年(1539年)に三好長慶が反乱を起こした時も、晴元は京都と芥川山城の繋ぎの城として山崎城を利用している。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、中国大返しで中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉、神戸信孝連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城、勝竜寺城へ一時撤退した。翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。
「山崎の戦い」も参照 ウィキペディアより
現在の山崎城の遺構は秀吉家臣の手が入っていると思いますが、山崎城は古くからあったようです。
帯曲輪の西回り
帯曲輪南回り
帯曲輪南から本丸城壁を見ています。
帯曲輪東回り
帯曲輪の東周りでくると二の丸。奥に見えるのが本丸
次回 水の手曲輪 本丸