山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(西上州 高田氏)③

2015-10-26 21:10:51 | 氏族の追跡
碓氷峠の戦い

高田憲頼は親族である笠原新三郎清繁父子の立て籠もる信州佐久郡志賀城へ加勢に加わった。群馬県甘楽郡下仁田町の西牧・小坂を領有する高田憲頼の領土と隣接し、しかも領土的に脅威にさらされていることでもあり、志賀城の城主笠原清繁とは親族の間柄であることから応援に出陣したのである。

佐久郡志賀周辺地図
印の所が志賀城址があり地方道44号線から東に進めば志賀峠、そして国道254号線に通じ高田氏の領有する西牧・小坂となります。

碓氷峠の戦いについて、山崎一氏著「上州合戦記」によると「上杉勢は、倉賀野の金井小源太秀景の主力が碓氷峠を越え、浅間山南麓の小田井原(長野県御代田町小田井)の佐久平原に進出し、志賀城の憲頼などに呼応して、武田勢に対して布陣した。金井秀景を先鋒とする上杉勢は碓氷峠を越えた浅間山南麓の小田井原において武田勢と対決し、これを撃退して志賀城を攻撃している武田勢の側背を突いて撃破しようというのである。
 晴信は七月六日志賀の南西2kmの内山城(地図にあります。)を攻めて大井貞清を降し、これを先鋒として志賀城を包囲し、西北7kmの小田井原で金井秀景などを破る。時に天文十六年八月とあり、「妙法寺記」には「去るほどに、それをめがけ候いて、板垣駿河守、甘利備前守、多田野三八、そのほか向かい、戦慣れ候、去るほどに上州の人数伐り負け候いて、各大将十四、五人討取り雑人三千ばかり打ち取る。この首を志賀城の周りに悉く御かけ候。これを見て志賀城の人数も力を失い申し候。」
 武田晴信は七月十三日甲府を発ち、二十四日に甲信の諸隊をもって午前六時から正午まで志賀城を攻撃したが思うような戦果はあがらず、翌に二十五日午後二時ころ、水の手を占領して長期戦に移った。その頃上州勢の先鋒は倉賀野党十六将、総大将に金井秀景、続いて金井又二郎、萩谷加賀守、深谷左兵衛尉、木部宮内少輔、白倉、安中、和田、大戸、大胡、山上、尻高以下二千余騎が志賀城の西北7kmの小田井原に進出した。
 晴信は、志賀城包囲軍中から直ちに腹心板垣駿河守信形に命じて、小山田信茂、栗原定孝、日向昌時、小宮山昌友、南部、勝沼、小曽、逸見、芦田、相木等の諸隊を引き抜いて立ち向かわせた。八月六日遭遇戦となり、激戦の後上州方は敗れて退却しはじめた。この時期の日没は午後五時ころだったと推定されるから、甲州勢は長追いできなかったであろう。その間に大将十四、五人を含む三千の首を討取ったというのは過大の感があろう。

次回は碓氷峠、武田軍の掃討戦