山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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福知山城

2016-09-21 21:22:14 | 近畿地方の城
今回の旅行で、福知山城・高津城・猪崎城・菩提山城(岐阜県 竹中半兵衛居城)と雨天を縫って登ってきました。

早速、福知山城から紹介します。

福知山城地図

国道9号線からも山陰本線からも天守閣がよく見えます。

堀を渡る太鼓橋から

天守を目指してゆき、回廊のような大手

高石垣を巡りながら

本丸南から天守を望みます。

本丸の南側にある銅門番所(当時は二の丸にあったそうです。)

本丸北門から見ています。

天守内に入って東から見ています。手前は豊磐井(とよいわのい)



歴代城主

福知山城の歴史
明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。
これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代となっていたが、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、衆寡敵せず結局自刃して果てた。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れた。猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、落ち延びている途中に林半四郎らに川北周辺で討死した。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。
明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと大修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。ウィキペディアより


天守に登り城下を見て、高津城を目指しました。次回に

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