山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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蜂城④

2018-08-09 21:25:02 | 山城ー甲斐
東尾根へ

本丸から東尾根を下ると

東尾根第一曲輪

東尾根第二曲輪

東尾根第三曲輪

東尾根第四曲輪(第五・第六も見えています。)

第五曲輪

第六曲輪

第七帯曲輪

縄張り図は「甲斐の山城と館」上巻 宮坂武男氏著

武田信光③
承久3年(1221年)の承久の乱においても長清とともに東山道大将軍として5万の兵を率いており、同年7月12日には都留郡加古坂(籠坂峠、南都留郡山中湖村)において藤原光親を処刑している(『吾妻鏡』)。安芸守護任命をこのときの恩賞とする説もあり、一時は安芸国へも在国している。
1239年、出家して鎌倉の名越に館を構え、家督を長子の信政に譲っている。このとき、伊豆入道光蓮と号した。『吾妻鏡』によれば、仁治2年(1241年)には上野国三原荘をめぐり海野幸氏と境争論を起こして敗訴し、執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れているが、同年12月27日には次男の信忠を義絶する形で服従している。宝治2年(1248年)12月5日、87歳で死去する(「武田系図」に拠る、『一蓮寺過去帳』では死去は同年8月19日)。


信光の子、嫡男信政(兄弟に一宮信隆、蜂城城主
武田 信政(たけだ のぶまさ、建久7年1月15日(1196年2月15日) - 文永2年1月6日(1265年1月24日)[1])は、鎌倉時代前・中期の武将。
甲斐武田氏の第6代当主。第5代当主・武田信光の嫡男[2]。生母は新田義重の娘[3]で、一条信長の同母兄[1]。通称は小五郎。
官位は伊豆守。安芸守。若狭守。子に武田信時(五郎次郎、安芸守護信時流武田氏祖)・武田政綱(五郎三郎、石和流武田氏祖)・武田信村・武田信泰・武田信綱がいる[4]。
生涯[編集]
建久7年(1196年)1月15日、甲府の館にて生まれる[1]。幼名は龍光丸[1]・勝千代。元久元年(1204年)11月15日、当時の執権・北条時政を烏帽子親として元服、「政」の偏諱を与えられて信政と名乗った[5]。
若い頃、讒言により安芸国に流されたが、やがて許されて復帰した。1221年の承久の乱でも幕府方として父と共に活躍した。その後、父が出家したため、家督を継いで当主となった。文永2年(1265年)に死去[1]し、後を嫡子の武田信時が継いだ。
建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』には信政に関する逸話が記されている。


武田信時(信政の嫡男)
信時の祖父にあたる武田信光は文治5年(1189年)の奥州合戦において安芸国への出陣催促を行っており、平家討伐後には西国へも鎌倉幕府の影響力が及び、信光は安芸守護としての職権を行使していることが指摘されており[3]、承久の乱を経て再び安芸守護を在職し、文暦2年(1235年)5月9日まで在任している。
信光の孫にあたる信時は、承久の乱の前年にあたる承久2年(1220年)5月17日に甲府の館にて生まれた[1]。幼名は音光丸[1]。寛喜元年(1229年)1月15日、当時の執権・北条泰時を烏帽子親として元服、「時」の偏諱を与えられて信時と名乗った[4]。
鎌倉時代のうち文永3年(1266年)までの歴史が記される『吾妻鏡』には3回登場する。嘉禎3年(1237年)6月23日、大慈寺(現・神奈川県鎌倉市)境内に新築された丈六仏を安置するための堂の開眼供養が行われ、将軍・九条頼経も参加するその行列の後陣の随兵の一人に「武田五郎次郎信時」の名が確認できる。翌4年(1238年=暦仁元年)2月17日の将軍・頼経の外出に際しても、その護衛兵の47番として「武田五郎次郎」が随伴している。仁治元年(1240年)8月2日、箱根・走湯の二所権現参りに向かう将軍・頼経が最初に鶴岡八幡宮に参詣した際、その行列の「後騎」の一人として「武田五郎次郎」も随行している。
その後『吾妻鏡』には登場しなくなるが、文永6年(1269年)4月には信時の守護代武藤時定の動向が見られ、同年11月には蒙古襲来(元寇)に備え御家人を率いて西国への出向を命じられている[5]。以来建治2年(1276年)まで西国における動向が見られ、信時は安芸守護に在職していたと考えられている[6]。ただし、建治元年(1275年)5月の『造六条八幡新宮用途支配事』によれば、「鎌倉中 武田入道跡」が100貫を納めているため、鎌倉に屋敷があったとも考えられる[7]。
弘安2年(1279年)5月19日に出家、光海と号す[1]。のち正応2年(1289年)に死去[1]し、跡を子の武田時綱が継いだ。信時は室町・戦国期の甲斐守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖で、南北朝期には信時の曾孫にあたる信武が石和流武田氏の政義を排斥して甲斐国守護を継承し、以来室町・戦国期に至るまで甲斐守護を継承している。 いずれもウィキペディアより




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