山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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扇子平山城

2018-08-03 21:04:28 | 山城ー甲斐
扇子平山城は山梨県韮崎市旭町上條南割にあります。

扇子平山城地図

地方道12号線で、信号鍛冶屋を西に市道を進みます。300mくらいの交差点を北に進むと小曾根集落になります。

交差点から500mくらいを左折し小曾根公民館があります。この公民館から西に果樹園の道を進むと

城山が見えてきます。尾根は北から取り付いたほうが楽です。

害獣柵を越えて、左手の山です。看板にあるように熊が生息しています。私は熊ベル、熊須プレーを携帯して注意深く山に入ります。決して安易に単独で山に入らないように忠告しておきます。


縄張り図は「甲斐の山城と館」上巻 宮坂武男氏著。左上の曲輪5から登っています。

山に入って尾根を登ってゆく途中に、東斜面を見ると平地があり

大きな平地、下ってゆくと段曲輪があり。ここは縄張り図にはないですが、根小屋ではないかと思います。

一番下段にも曲輪らしき形状が確認できました。

尾根を登ってゆくと烽火台とある曲輪5に着きます。

南から烽火台を見ています。

烽火台から南尾根を登り

堀切アに着きます。
この先は曲輪4となりますが次回とします。

扇子平山城周辺はは甘利氏の本貫です。
甘利氏は甲斐源氏の始祖武田信義の子で、甲斐国巨麻郡余戸郷に比定されている甘利荘を本貫とした一条忠頼の子行忠を始祖とする。行忠は甘利荘内に館を構えて甘利氏を称したという[1]。館跡は現在の山梨県韮崎市旭町上条北割の大輪寺境内にある。
鎌倉時代の元暦元年(1184年)6月14日[2]、忠頼は鎌倉の源頼朝の刺客により誅殺され、子・行忠も父に連座して常陸国に配流・翌年4月に殺害された。頼朝による甲斐源氏の勢力削減策の一環とみられる。
甘利荘はこの際に接収されており、鎌倉後期には北条得宗領となっている。ただし南北朝期の訴状で、甘利荘が忠頼の子孫に返付されたことが先例にみえ[3]、甘利荘は北条領から甲斐源氏一族に返却されたと考えられているが、甘利氏の下に戻ったのかは不詳。「忠頼の子孫」も、甘利行忠の子・行義を指すとも、行忠の甥で甲斐一条氏(一条忠頼の家)の名跡を継いだ一条信長かともされる。
『続群書類従』の「武田系図」によれば、甘利行忠の子・行義の後は、頼高━頼行━宗信と続いているが[4]。それ以降は不明である。
その後、甘利氏は断片的に史料に登場し、戦国時代には武田氏家臣の譜代家老で「両職」を務めたと言われる甘利虎泰(備前守)、虎泰の子甘利信忠(昌忠)とその子息・信頼、信忠の弟とされる甘利信康(郷左衛門尉)、武田勝頼に仕えた甘利信恒(三郎次郎、信康の子か)ら甘利姓の人物が武田家臣として[5]見える。ただし一族が甘利荘に拠ったかは不明瞭である。
甘利信康は虎泰の次男で、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死したという。信康の子・信恒(三郎次郎)は事跡不明であるが、『当代記』によれば天正4年9月に遠江国小山の陣中で殺害されたとしている。
信忠の子・信頼(二郎四郎)は永禄10年(1567年)に信忠が死去すると、幼少であったため『甲陽軍鑑』によれば米倉丹後守が「陣代」を務めたという。さらに甘利信康が名代であったとも考えられている。信頼も長篠の戦いにも従軍し、以後勝頼に仕えて活動している。『甲乱記』によれば、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡の際には大熊長秀・秋山摂津守とともに離反した人物に「甘利左衛門尉」があり、これが信頼を指しているとも考えられている。その後の動向は不明。
自民党の衆議院議員で、麻生内閣では内閣府特命担当大臣、第2次安倍内閣では内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)に就任した甘利明も子孫の一人とされる[6]。 ウィキペディアより



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